投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月 2日(金)11時09分14秒
ちょっと脱線しますが、『あゝ野麦峠』の出版までの経緯を見ていると、朝日新聞のプライドの高さと実力は本当に大変なものだなと思います。
山本の「野麦峠を越えた明治百年」が蒲幾美氏の「野麦峠」の盗作だと追及していた側の朝日新聞が、長野地方版とはいえ、問題の山本記事をそのままパクった記事を出すというのは、「ミイラ取りがミイラになる」ともちょっと違うような感じがする余りに奇妙な展開ですが、その事後処理の手腕は凄いですね。
朝日新聞東京本社を代表する形で対応に当たった社会部長・伊藤牧夫(後に副社長、1924-2012)の二つの提案は、完全に分の悪い自社の盗作すら謝罪しない代わりに別の方向で山本に利益を与えて朝日のプライドを守り、同時に朝日に多大の利益をもたらしたウルトラCのようなアイディアです。
伊藤部長は山本との面倒くさい交渉の過程で、山本という稀代の「山師」が飛騨の山の中で金鉱脈を発見したことを最初に理解した訳ですね。
伊藤部長も凄ければ、山本もバケモノ並みのタフさを持っていて、天下の朝日新聞から出版の確約を得たにも拘らず、文藝春秋社に二股をかけようとしたのだそうです。
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昭和四十三年四月になってやっと作品完成の見通しが見えてきたころ、久しぶりに夫は文藝春秋社を訪ねた。書きあげたばかりの長編原稿「野麦峠」を改めてもう一度見てもらい、できたら文藝春秋社から出版をお願いしたい、との要望のためだった。私も文藝春秋社が一番よいと思った。
夜、帰宅した夫は「だめだったよ」と一言いって二階へ上がってしまった。私はそれ以上聞かなかった。今、当時の夫の古びた手帳を見てみると「文春のA氏に会う。冷酷無惨。文春で扱う気持ちなしとのこと」とだけ書いてある。それで充分わかる。「無名の者の作品を厚意をもって雑誌に載せてあげたのに、それが盗作だなんて、文春としても大いに迷惑をかけられた。いくら書き直したといっても、いったんケチがついたものはどうも……」というような意味であろう。次長A氏は若くても有能な人物だったのであろう。氏の一存で編集部が動いているかに見える。
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ということで(『「あゝ野麦峠」と山本茂実』、p244)、「私も文藝春秋社が一番よいと思った」ですから、山本夫人もプライドが高いというか、ちょっとズレている感じがします。
さて、二股をかけるのに失敗した山本は、
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こうなったらやはり山本の頼みを断れない弱み〔※〕をもった朝日新聞社に頼むしかない。山本は朝日新聞の伊藤社会部長に電話をする。伊藤社会部長から出版局の大田信男部長に出版に尽力するよう要請してもらうことになった。
しかし、大田部長は強く異議を唱えた。
「社会部から『どうしても出版してくれ』といわれても、どんな理由があるか知らないが『はい、そうですか』というわけにはいかない。出版局は社会部の配下ではない。こちらにはこちらの『面子』がある」
大田部長は不愉快そうに言ったという。だが伊藤部長の再三の依頼により、しぶしぶ引き受けることになったという経緯のようである。
〔※「断れない弱み」に傍点〕
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ということで(p245)、会社としてプライドが高ければ部局のプライドも高い朝日新聞内部での軋轢はあったものの、大田部長も山本の原稿を読むと、
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何日かたって部長の方から電話がかかってきた。感動したという。そして、まるで古くからの友人のように親しげに言った。
「山本さん、書名は『あゝ野麦峠』としましょうよ」
「あゝ、それはいいですね」
山本も賛成して即座にタイトルも決まった。
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ということで(p246)、大田部長も伊藤部長に続いて山本が金鉱脈を発見したことを理解した訳ですね。
そして、10月10日、朝日新聞社から『あゝ野麦峠─ある製糸工女哀史』が出版されると、
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ちょうどそれに合わせたように朝日新聞紙上に、峠頂上に記念碑が近く建てられるという予告の記事が載り、著者山本茂実が野麦峠の上に建つ供養塔をやさしく撫でている写真も載った。
初版一万部が出てたちまち売り切れ、二版、三版も一万部ずつ出てたちまち売り切れ、はじめから好評で、朝日新聞の広告と口コミが加わって飛ぶように売れ出した。
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のだそうです。(p247)
「ちょうどそれに合わせたように」どころか、朝日新聞は10か月前の示談の条件を守って、岐阜県高根村と長野県奈川村の関係者を説得して『あゝ野麦峠』の出版と同時に記念碑が建立されるように着々と準備し、本社社会部・文芸部・出版局・広告局、そして長野・松本支局との連携の下、『あゝ野麦峠』販促の一大キャンペーンを行なった訳ですね。
スケジュール的に見て、仮に山本が文藝春秋社に出版を依頼していたら、「面子」をつぶされた朝日新聞社と文藝春秋社との間で大戦争が勃発したはずです。
山本は本当に危ない橋を渡るのが好きですね。
ちょっと脱線しますが、『あゝ野麦峠』の出版までの経緯を見ていると、朝日新聞のプライドの高さと実力は本当に大変なものだなと思います。
山本の「野麦峠を越えた明治百年」が蒲幾美氏の「野麦峠」の盗作だと追及していた側の朝日新聞が、長野地方版とはいえ、問題の山本記事をそのままパクった記事を出すというのは、「ミイラ取りがミイラになる」ともちょっと違うような感じがする余りに奇妙な展開ですが、その事後処理の手腕は凄いですね。
朝日新聞東京本社を代表する形で対応に当たった社会部長・伊藤牧夫(後に副社長、1924-2012)の二つの提案は、完全に分の悪い自社の盗作すら謝罪しない代わりに別の方向で山本に利益を与えて朝日のプライドを守り、同時に朝日に多大の利益をもたらしたウルトラCのようなアイディアです。
伊藤部長は山本との面倒くさい交渉の過程で、山本という稀代の「山師」が飛騨の山の中で金鉱脈を発見したことを最初に理解した訳ですね。
伊藤部長も凄ければ、山本もバケモノ並みのタフさを持っていて、天下の朝日新聞から出版の確約を得たにも拘らず、文藝春秋社に二股をかけようとしたのだそうです。
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昭和四十三年四月になってやっと作品完成の見通しが見えてきたころ、久しぶりに夫は文藝春秋社を訪ねた。書きあげたばかりの長編原稿「野麦峠」を改めてもう一度見てもらい、できたら文藝春秋社から出版をお願いしたい、との要望のためだった。私も文藝春秋社が一番よいと思った。
夜、帰宅した夫は「だめだったよ」と一言いって二階へ上がってしまった。私はそれ以上聞かなかった。今、当時の夫の古びた手帳を見てみると「文春のA氏に会う。冷酷無惨。文春で扱う気持ちなしとのこと」とだけ書いてある。それで充分わかる。「無名の者の作品を厚意をもって雑誌に載せてあげたのに、それが盗作だなんて、文春としても大いに迷惑をかけられた。いくら書き直したといっても、いったんケチがついたものはどうも……」というような意味であろう。次長A氏は若くても有能な人物だったのであろう。氏の一存で編集部が動いているかに見える。
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ということで(『「あゝ野麦峠」と山本茂実』、p244)、「私も文藝春秋社が一番よいと思った」ですから、山本夫人もプライドが高いというか、ちょっとズレている感じがします。
さて、二股をかけるのに失敗した山本は、
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こうなったらやはり山本の頼みを断れない弱み〔※〕をもった朝日新聞社に頼むしかない。山本は朝日新聞の伊藤社会部長に電話をする。伊藤社会部長から出版局の大田信男部長に出版に尽力するよう要請してもらうことになった。
しかし、大田部長は強く異議を唱えた。
「社会部から『どうしても出版してくれ』といわれても、どんな理由があるか知らないが『はい、そうですか』というわけにはいかない。出版局は社会部の配下ではない。こちらにはこちらの『面子』がある」
大田部長は不愉快そうに言ったという。だが伊藤部長の再三の依頼により、しぶしぶ引き受けることになったという経緯のようである。
〔※「断れない弱み」に傍点〕
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ということで(p245)、会社としてプライドが高ければ部局のプライドも高い朝日新聞内部での軋轢はあったものの、大田部長も山本の原稿を読むと、
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何日かたって部長の方から電話がかかってきた。感動したという。そして、まるで古くからの友人のように親しげに言った。
「山本さん、書名は『あゝ野麦峠』としましょうよ」
「あゝ、それはいいですね」
山本も賛成して即座にタイトルも決まった。
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ということで(p246)、大田部長も伊藤部長に続いて山本が金鉱脈を発見したことを理解した訳ですね。
そして、10月10日、朝日新聞社から『あゝ野麦峠─ある製糸工女哀史』が出版されると、
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ちょうどそれに合わせたように朝日新聞紙上に、峠頂上に記念碑が近く建てられるという予告の記事が載り、著者山本茂実が野麦峠の上に建つ供養塔をやさしく撫でている写真も載った。
初版一万部が出てたちまち売り切れ、二版、三版も一万部ずつ出てたちまち売り切れ、はじめから好評で、朝日新聞の広告と口コミが加わって飛ぶように売れ出した。
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のだそうです。(p247)
「ちょうどそれに合わせたように」どころか、朝日新聞は10か月前の示談の条件を守って、岐阜県高根村と長野県奈川村の関係者を説得して『あゝ野麦峠』の出版と同時に記念碑が建立されるように着々と準備し、本社社会部・文芸部・出版局・広告局、そして長野・松本支局との連携の下、『あゝ野麦峠』販促の一大キャンペーンを行なった訳ですね。
スケジュール的に見て、仮に山本が文藝春秋社に出版を依頼していたら、「面子」をつぶされた朝日新聞社と文藝春秋社との間で大戦争が勃発したはずです。
山本は本当に危ない橋を渡るのが好きですね。
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