投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月15日(水)20時13分19秒
上皇陛下が新種のハゼを発見されたそうですね。
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ハゼ研究者の上皇さま、17年ぶり新種発見…年内にも論文発表へ
ハゼ研究者として知られる上皇さまが、南日本に生息するオキナワハゼ属の新種を発見されたことがわかった。上皇さまによる新種発見は9種目で、2003年以来17年ぶり。退位後初めての研究成果で、関連する論文は年内にも発表される見通し。
関係者によると、今回の新種は10年以上前に上皇さまの研究スタッフが沖縄近海で採集したオキナワハゼ属のハゼ。上皇さまが頭部にある感覚器の配列の数やパターンなどを調べ、新種と突き止められた。すでに名前も決められたという。在位中は多忙だったため、昨年4月末の退位後に本格的に論文の執筆を始められた。【後略】
このニュースの関連で、私の地味ブログでもリンク先の七年前の記事が少し読まれています。
伝毛松筆「猿図」と天皇陛下
この記事は皇太子時代の上皇陛下が、中国・南宋の毛松筆とされていた重要文化財「猿図」について、そこに描かれているのは日本猿だと指摘されたことを紹介したものですが、私が読んだのは秦恒平氏のエッセイで、元々の出典である徳川義宣氏の「宋に渡った日本猿」(『淡交』昭和五十九年四月号)は未読でした。
ちょっと気になって探してみたら、徳川義宣氏の『迷惑仕り候 美術館長みてある記』(淡交社、1988)に『淡交』掲載のエッセイが収録されていますね。
秦恒平氏のエッセイでは除かれている部分も上皇陛下の見識と人柄をうかがう上で興味深い内容なので、後半部分を転載してみます。(p24以下)
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私の友人にAといふ男がゐる。幼稚園から大学までずっと一緒で、今でも親しくつきあってゐるから、もう四十余年来の旧友である。生物学に励んでいゐて、専門は鯊〔はぜ〕の分類ださうだが、陸の動物にも植物にも精〔くは〕しいので、うっかり話題が動植物に及ぶと、閉口するほど厳密を期されることもある。感覚的美術史にはもとより全くの門外漢だが、それだけにその実証的学究態度には、分野は違っても教へられることが少なくない。
歴史にも精しく、中でも沖縄に多大の関心を抱いてゐるので、その歴史・文化史・文学に関する知識と識見は玄人はだしである。八年ほど前、私が琉球漆工藝の調査と研究に本腰を入れ始めた頃、私はAから自分の気づいてゐなかった研究態度の基礎的な歪みを指摘された。その指摘は今からふりかへってみても、その二年後に『琉球漆工藝』の小著として公にした研究の、基礎を定置させた重大な指摘であったと感謝し、畏敬を新たにしてゐる。
小著の刊行を最も喜んでくれたのはAだったし、その後数ヶ月にして開いた「琉球漆工藝展」の会場にも見に来てくれた。私は展示品を一つ一つ解説しながら案内した。Aは熱心に見、聞き、ときどき学究者らしい鋭い質問や嘆声を発してゐた。
「この五弁花形の東道盆〔とんだあぼん〕は、形も面白いし魚貝文もいかにも南の国琉球らしい文様、兜蟹〔かぶとがに〕なんてその典型だらうね」
「いや、待てよ、兜蟹は沖縄にはゐなかったんぢゃないか。日本での分布は岡山・愛媛、四国辺りに限られると思ったが」
私は絶句した。兜蟹といへば南の方にのみ住む古生代生き残りの珍しい蟹とのみ憶えて、南の方なんだからいかにも沖縄らしいと短絡解釈してゐたのだった。
あとで調べてみると、兜蟹は中国や東南アジアの沿岸にも棲息してゐるとあったので、文様にはまま異国的な花鳥魚貝を好んで用ゐる琉球の習慣から見ても、兜蟹が描かれてゐるからといって、その東道盆が琉球製であることを否定しなければならないわけではなかったが、少なくとも積極的証左とはならなかったと思ひ知らされた。
そのAが美術史学の某先生から中国絵画の個人講義を受けてゐたとき、伝毛松筆「猿図」を見せられた。毛松は十二世紀前半、南宋初期院体画派の大家で、我が国にもその高名は伝はり、室町時代に成立した「君台観左右帳記」(旧一橋徳川家本)にも、そのよくした画題や画風を「毛松 花鳥猿鹿四時景色著色」と載せられてゐる画家である。
この「猿図」は狩野探幽によって毛松筆と極められて以来三百有余年、いかにも南宋初期の気品と力に満ちた綿密な写実画の典型として重要文化財に指定され、今日では東京国立博物館の所蔵となってゐる。各種の辞典や図録にも、同様な解説や賛辞つきで載せられてゐるから、御承知の方も多いだらう。
ところがこの「猿図」を見せられたAは、これは日本猿だと指摘したのである。某先生は返答に窮し、宿題として持ち帰って動物学者に意見を求められたが、答は同じ、中国には棲息してゐない日本猿。美術史学の権威が寄って相談の挙句、毛松が猿を描いて巧みであるとの高名が日本にも伝はってゐたので、日本からモデルの猿を中国に送って描いてもらった作品、といふ解釈に統一して、某先生はAへの回答とされたさうだ。
「……といふ説明を貰ったんだけどね。考へられるかね。徳川はどう思ふね」
「うーん、そんな例はほかにないね。素直に考へれば室町時代、阿彌派や狩野派、雪舟近辺の作として見る方が妥当だと思ふね」
Aが日本猿と指摘したのは、もう六、七年以上も前のことである。当時の文化庁担当官も東京国立博物館の担当者も、某先生から伝へられてAの指摘を知ったはずである。だが、その後に出版された美術書・教科書・辞典でも、或いは東京国立博物館の展示でも、この絵は依然として「重要文化財 猿図 伝毛松筆 十二世紀 南宋時代」として掲げられ続けてゐる。美術史学の権威とは、長屋の御隠居とあまり変りないらしい。
因みにAとは、皇太子殿下である。 (昭和五十九年三月)
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>筆綾丸さん
岡田氏はフランス現代思想を前提にイタリア現代思想を論じられているので、私にはちょっと厳しいですね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
我もしてみんとて 2020/07/15(水) 13:16:17
小太郎さんが難しすぎるとされる『イタリアン・セオリー』に敢えて挑戦してみようと、アマゾンに中古品を発注しました。
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