投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 9月22日(金)12時26分31秒
『革命の堕天使たち』には、スターリンの二番目の妻、ナジェージダ・アリルーエワの死に関して、次のような記述があります。(p125以下)
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一九三二年十一月のある朝、わたしは『ニューヨーク・タイムズ』の第一面に、スターリンが妻のナジェージダ・アリルーエヴァを殺害した、と大見出しで報じられているのを見た。これはセンセーショナルなブルジョワ報道機関の悪意によるでっち上げでしかない、というのがわたしの最初の反応だった。公式発表によれば、スターリンの妻は重病にかかり、手術ののちに死亡したということだった。だが、彼女が殺されたという噂のもとは何だったのか。噂を信じるわけではなかったが、わたしは疑念を抑えきることはできなかった。そのことに関する記事が新聞に続々と掲載されたからである。
翌三三年の七月末、わたしはモスクワに帰還したが、帰国した翌日、旧友の医学アカデミーのムーロムツェヴァ博士から、思いもよらず、この噂の裏づけとなる話を聞くことになったのだ。彼女はソヴィエト連邦におけるあらゆる異常事態の弁明を当然のこととする忠実な共産党員であり、夫も高い地位にある古参ボリシェヴィキであった。わたしにアメリカの生活について質問を浴びせかけ、わたしができるかぎりの返答をしたのち、彼女は不意に、「アメリカの新聞には、スターリンが妻を殺害したって載ったんですって」とたずねた。
「そう、新聞は彼女の死に関する記事で一杯だったわ。殺されたって言うのよ。」
「それで、あなたはどう思ったの。」
「新聞の書くことなんか信じなかったわ。」
「そう、それはほんとうのことなのよ。」
わたしは目を丸くして、彼女にどうしてそんなことを知っているのかと聞いたところ、彼女は次のように語ってくれた。
「ある朝、さて仕事にでかけようかというところに電話が鳴って、知らない男の声で、クレムリンの入口にある守衛所に直行して、党員証を見せるように、と言われたのよ。恐怖のあまり体が動かなくなったわ。モスクワでは誰がそういう指令を受けるかわからないんだから。クレムリンに着くと、管理人がもう二人の女医とそこにいて、わたしたち三人はいくつもの廊下を通ってナジェージダ・アリルーエヴァの部屋に連れてゆかれたの。彼女はベッドに横たわり、動かなかった。それでわたしたちは最初、重態で意識がないのかと思ったのだけれど、しばらくして、死んでいるということがわかったわ。スターリンの妻の遺体のそばには、わたしたちだけだった。彼女は工業アカデミーの学生だったから、テーブルの上には彼女の本や講義ノートがそのままだったわ。
しばらくすると、二人の男が柩を運んで来て、わたしたちはクレムリンの職員の一人に、中へ遺体を納めるようにと言われたの。適当な服はないかと捜して、衣装戸棚の一つから黒地の絹のドレスを取り出したわ。
不意に、N女医が合図をして、死体の喉にあらわれた黒い大きな痣を指し示した。わたしたちはもっと近寄って見てから、黙って眼でうなずきあった─絞殺されたことはわたしたちみんなの眼に明らかだったわ。ぞっとしながら死体を見つめていると、痣跡は大きくくっきりしたものになって、しまいには殺害者の左手の指の一本一本まで見分けられるようになったわ。
遺体を安置しておく時、この痣を見たら誰だって死因が何だったのかわかってしまうということで、わたしたちは首のまわりに繃帯を巻いて、ナジェージダ・アリルーエヴァに最後の弔意を表わしに来る何千人もの人々が、彼女は喉の病気で亡くなったんんだなと思うようにしたのよ。」
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実際に目撃した女医からの伝聞とのことで、それなりにリアリティに溢れた描写ですが、ナジェージダ・アリルーエワの死因は一般的には拳銃での自殺とされていますね。
ナジェージダ・アリルーエワ(1901-32)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%AF
アイノ・クーシネンから自身の死後に出版する条件で回想録を託されたヴォルフガング・レオンハルトの「原注28」には、
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28 ナジェージダ・アリルーエヴァ(一九〇一-三二)はスターリンの二度目の妻。本書におけるアリルーエヴァの死の解釈はモスクワに流布していたものだが、スヴェトラーナ・アリルーエヴァの回想の記述とは異なる。アリルーエヴァの多くの友人、なかでもモロトフの妻ポリーナ・ジェムチュージナは、この話を流したことでスターリンから数回迫害を受けている。
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とありますが(p349)、スターリンとナジェージダ・アリルーエワの娘のスヴェトラーナ・アリルーエワは1926年生まれで、母親が亡くなったときには僅か6歳ですから、あまり参考にはならないですね。
スヴェトラーナ・アリルーエワ(1926-2011)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%AF
Polina Zhemchuzhina(1897-1970)
https://en.wikipedia.org/wiki/Polina_Zhemchuzhina
死因はともかく、ナジェージダ・アリルーエワが死んだ1932年11月9日はずいぶん微妙な時期です。
『革命の堕天使たち』には、スターリンの二番目の妻、ナジェージダ・アリルーエワの死に関して、次のような記述があります。(p125以下)
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一九三二年十一月のある朝、わたしは『ニューヨーク・タイムズ』の第一面に、スターリンが妻のナジェージダ・アリルーエヴァを殺害した、と大見出しで報じられているのを見た。これはセンセーショナルなブルジョワ報道機関の悪意によるでっち上げでしかない、というのがわたしの最初の反応だった。公式発表によれば、スターリンの妻は重病にかかり、手術ののちに死亡したということだった。だが、彼女が殺されたという噂のもとは何だったのか。噂を信じるわけではなかったが、わたしは疑念を抑えきることはできなかった。そのことに関する記事が新聞に続々と掲載されたからである。
翌三三年の七月末、わたしはモスクワに帰還したが、帰国した翌日、旧友の医学アカデミーのムーロムツェヴァ博士から、思いもよらず、この噂の裏づけとなる話を聞くことになったのだ。彼女はソヴィエト連邦におけるあらゆる異常事態の弁明を当然のこととする忠実な共産党員であり、夫も高い地位にある古参ボリシェヴィキであった。わたしにアメリカの生活について質問を浴びせかけ、わたしができるかぎりの返答をしたのち、彼女は不意に、「アメリカの新聞には、スターリンが妻を殺害したって載ったんですって」とたずねた。
「そう、新聞は彼女の死に関する記事で一杯だったわ。殺されたって言うのよ。」
「それで、あなたはどう思ったの。」
「新聞の書くことなんか信じなかったわ。」
「そう、それはほんとうのことなのよ。」
わたしは目を丸くして、彼女にどうしてそんなことを知っているのかと聞いたところ、彼女は次のように語ってくれた。
「ある朝、さて仕事にでかけようかというところに電話が鳴って、知らない男の声で、クレムリンの入口にある守衛所に直行して、党員証を見せるように、と言われたのよ。恐怖のあまり体が動かなくなったわ。モスクワでは誰がそういう指令を受けるかわからないんだから。クレムリンに着くと、管理人がもう二人の女医とそこにいて、わたしたち三人はいくつもの廊下を通ってナジェージダ・アリルーエヴァの部屋に連れてゆかれたの。彼女はベッドに横たわり、動かなかった。それでわたしたちは最初、重態で意識がないのかと思ったのだけれど、しばらくして、死んでいるということがわかったわ。スターリンの妻の遺体のそばには、わたしたちだけだった。彼女は工業アカデミーの学生だったから、テーブルの上には彼女の本や講義ノートがそのままだったわ。
しばらくすると、二人の男が柩を運んで来て、わたしたちはクレムリンの職員の一人に、中へ遺体を納めるようにと言われたの。適当な服はないかと捜して、衣装戸棚の一つから黒地の絹のドレスを取り出したわ。
不意に、N女医が合図をして、死体の喉にあらわれた黒い大きな痣を指し示した。わたしたちはもっと近寄って見てから、黙って眼でうなずきあった─絞殺されたことはわたしたちみんなの眼に明らかだったわ。ぞっとしながら死体を見つめていると、痣跡は大きくくっきりしたものになって、しまいには殺害者の左手の指の一本一本まで見分けられるようになったわ。
遺体を安置しておく時、この痣を見たら誰だって死因が何だったのかわかってしまうということで、わたしたちは首のまわりに繃帯を巻いて、ナジェージダ・アリルーエヴァに最後の弔意を表わしに来る何千人もの人々が、彼女は喉の病気で亡くなったんんだなと思うようにしたのよ。」
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実際に目撃した女医からの伝聞とのことで、それなりにリアリティに溢れた描写ですが、ナジェージダ・アリルーエワの死因は一般的には拳銃での自殺とされていますね。
ナジェージダ・アリルーエワ(1901-32)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%AF
アイノ・クーシネンから自身の死後に出版する条件で回想録を託されたヴォルフガング・レオンハルトの「原注28」には、
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28 ナジェージダ・アリルーエヴァ(一九〇一-三二)はスターリンの二度目の妻。本書におけるアリルーエヴァの死の解釈はモスクワに流布していたものだが、スヴェトラーナ・アリルーエヴァの回想の記述とは異なる。アリルーエヴァの多くの友人、なかでもモロトフの妻ポリーナ・ジェムチュージナは、この話を流したことでスターリンから数回迫害を受けている。
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とありますが(p349)、スターリンとナジェージダ・アリルーエワの娘のスヴェトラーナ・アリルーエワは1926年生まれで、母親が亡くなったときには僅か6歳ですから、あまり参考にはならないですね。
スヴェトラーナ・アリルーエワ(1926-2011)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%AF
Polina Zhemchuzhina(1897-1970)
https://en.wikipedia.org/wiki/Polina_Zhemchuzhina
死因はともかく、ナジェージダ・アリルーエワが死んだ1932年11月9日はずいぶん微妙な時期です。
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