投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月 8日(月)22時59分12秒
早川喜代次著『徳富蘇峰』(徳富蘇峰伝記編纂会、1968)はちょっと入手が難しいので、代わりに『蘇峰自伝』(中央公論社、1935)を見てみたところ、「第十章 日清戦役時代と予(明治二十七年─明治二十八年)」に次の記述がありました。(p308以下)
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五 遼東半島視察中桂公と相識る
◇遼東還付の報に猛然旅順より帰る
予は日本内地以外には、今度初めて足を踏出したもので、遼東半島の旅行は、予に取つて実に愉快であつた。固より交通機関とても無く、又た所謂る支那内地の旅行に必要なる、蒲鉾形の馬車さへも無く、徒歩をするか、さもなくば普通の荷車に毛布を一枚敷いて、それに乗つて行くかの外に方法が無つた。
尤も当時は休戦最中で、兵站部の連絡はあつたから、予等は兵站部から兵站部へと、その線路を辿つて歩いたのだ。当時四月の下旬で、遼東半島には初めて春が訪れ、大木の柳は漸く芽をふき、北方特有の花たる杏花は、今を盛りと咲きつゝあつた。広き野原に何物も目を遮へぎるものなく、悠々として春風に吹かれながら、吾が新領土とも思ふ、大陸の土を踏みつゝ旅行した事は、予にとつては実に大なる愉快でもあり、満足でもあつた。
【中略】
帰つて見れば、出発当時の形勢とは打つて変り、恰も火の消えたる状態で、これは何事である乎と聞けば、愈々遼東還付であると云ふ事にて、予は実に涙さへも出ない程口惜しく覚えた。予は露西亜や独逸や仏蘭西が憎くは無かつた。彼等の干渉に腰を折つた、我が外交当局者が憎かつた。一口に云へば、伊藤公及び伊藤内閣が憎かつた。
かねて伊藤内閣とは外交問題で戦つたが、今更らながら眼前に遼東還付を見せつけられたには、開いた口が塞らないと云ふばかりでは無かつた。此の遼東還付が、予の殆ど一生に於ける運命を支配したと云つても差支へあるまい。此事を聞いて以来、予は精神的に殆ど別人となつた。而してこれと云ふも畢竟すれば、力が足らぬ故である。力が足らなければ、如何なる正義公道も、半文の価値も無いと確信するに至つた。
そこで予は一刻も他国に返還したる土地に居るを屑しとせず、最近の御用船を見附けて帰へる事とした。而して土産には旅順口の波打際から、小石や砂利を一握り手巾に包んで持ち帰つた。せめてこれが一度は日本の領土となつた記念として。
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ということで、三谷氏の「旅順港の海岸から一握りの小石と砂をハンカチに包んで持ち帰ります」に相当する記述はありますが、深井英五は登場しません。
ちなみに深井英五に関する蘇峰の人物評は少し前の「三 大本営の移動と予 ◇広島に於ける人々」に出ています。(p304以下)
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当時予と終始行動を一にしたるは、即ち今日日本銀行総裁である深井英五氏であつた。君は予に先発して広島に出掛けた。有体に言へば、予は君を予の理想的の新聞記者に作上げようと思つたが、その方面では予は聊か予の考が間違である事を悟つた。君は寧ろ小心に過ぐると云ふべき程、堅実性に富んだ人であつて、山気たる事とか、冒険的の事とかは好まない。頭脳は全く論理的に出来てゐて、自ら先づ酔うて、而して後人を酔はしむる等と云ふ手際は、望むべきで無かつた。併し君の英語の知識は極めて精確であつて、君の翻訳でさへあれば、一々原文と対照せずとも安心であり、又た問題を与へれば、それを研究的に調査し、調査的に研究し、徹底せしむるに就いては、普通の新聞記者の及ぶ所で無く、特に如何なる難題でも、君に理解の出来無い事は無かつたから、粗枝大葉の予に取つては、縦令神速、機敏などゝいふ点には、予の誂向きでは無かつたにしろ、無二の調法なる人であつたに相違は無い。
其処で予はつらつら考ふるに、君を日常的の探訪とか、通信とかに使用するのは、材を用ゐる所以で無いと悟つた。然も当時川上将軍から、大本営に英語を解する者が少いとて、その推薦を頼まれたを幸に、君を推薦し、斯くて深井君は、毎日銀色の徽章を佩け、大本営に出掛ける事とした。
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非常に堅実で、「頭脳は全く論理的に出来てゐ」るといった蘇峰の評価は、『回顧七十年』の極めて明晰な文章に照らして、なるほどな、と思えます。
なお、『蘇峰自伝』には深井が写った二葉の写真、「明治二十八年広島に於ける記念撮影」(p305、深井・蘇峰を含む4名)と「外遊当時コンスタンチノープルに於ける蘇峰翁及び深井英五氏」(p313)が載っていますが、スーツ・ネクタイの洋装ながら、御世辞にも深井に洗練された紳士的雰囲気はなく、生真面目な表情には煩悶する哲学青年の残り香が漂っていますね。
さて、三谷氏の引用の正しさを確認するためには、やはり早川喜代次著『徳富蘇峰』(徳富蘇峰伝記編纂会、1968)を見るしかなさそうですが、「徳富蘇峰記念館」サイトによれば早川喜代次氏は1903年福島県生まれ、職業は「福島民報 報知本社記者 弁護士 徳富家の法律顧問 白虎隊記念館創立」という方だそうで、徳富蘇峰・深井英五に比べればずいぶん若い世代になりますね。
おまけに「徳富蘇峰伝記編纂会」は会津若松に所在するとのことなので、出版年も考えると、私が確認したい事項について正確な記述があるのかなあ、という不安も生じてきます。
http://www.soho-tokutomi.or.jp/db/jinbutsu/6633
早川喜代次著『徳富蘇峰』(徳富蘇峰伝記編纂会、1968)はちょっと入手が難しいので、代わりに『蘇峰自伝』(中央公論社、1935)を見てみたところ、「第十章 日清戦役時代と予(明治二十七年─明治二十八年)」に次の記述がありました。(p308以下)
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五 遼東半島視察中桂公と相識る
◇遼東還付の報に猛然旅順より帰る
予は日本内地以外には、今度初めて足を踏出したもので、遼東半島の旅行は、予に取つて実に愉快であつた。固より交通機関とても無く、又た所謂る支那内地の旅行に必要なる、蒲鉾形の馬車さへも無く、徒歩をするか、さもなくば普通の荷車に毛布を一枚敷いて、それに乗つて行くかの外に方法が無つた。
尤も当時は休戦最中で、兵站部の連絡はあつたから、予等は兵站部から兵站部へと、その線路を辿つて歩いたのだ。当時四月の下旬で、遼東半島には初めて春が訪れ、大木の柳は漸く芽をふき、北方特有の花たる杏花は、今を盛りと咲きつゝあつた。広き野原に何物も目を遮へぎるものなく、悠々として春風に吹かれながら、吾が新領土とも思ふ、大陸の土を踏みつゝ旅行した事は、予にとつては実に大なる愉快でもあり、満足でもあつた。
【中略】
帰つて見れば、出発当時の形勢とは打つて変り、恰も火の消えたる状態で、これは何事である乎と聞けば、愈々遼東還付であると云ふ事にて、予は実に涙さへも出ない程口惜しく覚えた。予は露西亜や独逸や仏蘭西が憎くは無かつた。彼等の干渉に腰を折つた、我が外交当局者が憎かつた。一口に云へば、伊藤公及び伊藤内閣が憎かつた。
かねて伊藤内閣とは外交問題で戦つたが、今更らながら眼前に遼東還付を見せつけられたには、開いた口が塞らないと云ふばかりでは無かつた。此の遼東還付が、予の殆ど一生に於ける運命を支配したと云つても差支へあるまい。此事を聞いて以来、予は精神的に殆ど別人となつた。而してこれと云ふも畢竟すれば、力が足らぬ故である。力が足らなければ、如何なる正義公道も、半文の価値も無いと確信するに至つた。
そこで予は一刻も他国に返還したる土地に居るを屑しとせず、最近の御用船を見附けて帰へる事とした。而して土産には旅順口の波打際から、小石や砂利を一握り手巾に包んで持ち帰つた。せめてこれが一度は日本の領土となつた記念として。
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ということで、三谷氏の「旅順港の海岸から一握りの小石と砂をハンカチに包んで持ち帰ります」に相当する記述はありますが、深井英五は登場しません。
ちなみに深井英五に関する蘇峰の人物評は少し前の「三 大本営の移動と予 ◇広島に於ける人々」に出ています。(p304以下)
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当時予と終始行動を一にしたるは、即ち今日日本銀行総裁である深井英五氏であつた。君は予に先発して広島に出掛けた。有体に言へば、予は君を予の理想的の新聞記者に作上げようと思つたが、その方面では予は聊か予の考が間違である事を悟つた。君は寧ろ小心に過ぐると云ふべき程、堅実性に富んだ人であつて、山気たる事とか、冒険的の事とかは好まない。頭脳は全く論理的に出来てゐて、自ら先づ酔うて、而して後人を酔はしむる等と云ふ手際は、望むべきで無かつた。併し君の英語の知識は極めて精確であつて、君の翻訳でさへあれば、一々原文と対照せずとも安心であり、又た問題を与へれば、それを研究的に調査し、調査的に研究し、徹底せしむるに就いては、普通の新聞記者の及ぶ所で無く、特に如何なる難題でも、君に理解の出来無い事は無かつたから、粗枝大葉の予に取つては、縦令神速、機敏などゝいふ点には、予の誂向きでは無かつたにしろ、無二の調法なる人であつたに相違は無い。
其処で予はつらつら考ふるに、君を日常的の探訪とか、通信とかに使用するのは、材を用ゐる所以で無いと悟つた。然も当時川上将軍から、大本営に英語を解する者が少いとて、その推薦を頼まれたを幸に、君を推薦し、斯くて深井君は、毎日銀色の徽章を佩け、大本営に出掛ける事とした。
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非常に堅実で、「頭脳は全く論理的に出来てゐ」るといった蘇峰の評価は、『回顧七十年』の極めて明晰な文章に照らして、なるほどな、と思えます。
なお、『蘇峰自伝』には深井が写った二葉の写真、「明治二十八年広島に於ける記念撮影」(p305、深井・蘇峰を含む4名)と「外遊当時コンスタンチノープルに於ける蘇峰翁及び深井英五氏」(p313)が載っていますが、スーツ・ネクタイの洋装ながら、御世辞にも深井に洗練された紳士的雰囲気はなく、生真面目な表情には煩悶する哲学青年の残り香が漂っていますね。
さて、三谷氏の引用の正しさを確認するためには、やはり早川喜代次著『徳富蘇峰』(徳富蘇峰伝記編纂会、1968)を見るしかなさそうですが、「徳富蘇峰記念館」サイトによれば早川喜代次氏は1903年福島県生まれ、職業は「福島民報 報知本社記者 弁護士 徳富家の法律顧問 白虎隊記念館創立」という方だそうで、徳富蘇峰・深井英五に比べればずいぶん若い世代になりますね。
おまけに「徳富蘇峰伝記編纂会」は会津若松に所在するとのことなので、出版年も考えると、私が確認したい事項について正確な記述があるのかなあ、という不安も生じてきます。
http://www.soho-tokutomi.or.jp/db/jinbutsu/6633
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