学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

群馬は「念仏不毛の地」

2016-03-09 | グローバル神道の夢物語
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月 9日(水)10時01分51秒

前回投稿で、長州の「庶民が文字によって教え込まれた抽象概念で行動するように」なった原因の相当部分は浄土真宗に帰してもよい、てなことを書いてしまいましたが、これはちょっと言いすぎ、というか根拠に乏しい発言でしたね。
長州の民衆の識字率について、きちんと実態を検討しなければこんなことは言えませんので、後で参考になりそうな論文を探してみたいと思います。

>筆綾丸さん
>恐るべき知識水準
長州藩の教育は優秀な官僚を作るのには適していたシステムだったようですね。
磯田氏は、その長所を認めつつも、

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 もともと長州は、秀才はいても、自由な発想をする天才が頭を出しにくい。原因の一つには、道徳や倫理をふりまわすところがあります。文科系の倫理主義、教条主義、政治スローガンや感情に流される面があります。当初、長州藩士はテクニカルな面に弱いものがありました。これは最後の局面になって、大村益次郎が出て、補いました。大村を得るまでは、長州藩は、なかなか、うまくいかなかったのです。
 大村という技術者と、木戸・高杉という判断力をもった人が出てきて、ようやく、長州藩は軌道にのったといっていい。その前の、素朴な攘夷をやっていたころは、倫理と大義名分をふりまわしました。
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と批判し(p129)、その対極にあるものとして、「格式ばったところがなく、アバウトな戦国風が残っていた」薩摩の極めて実践的な「郷中教育」を高く評価していますね。(p133以下)
この「郷中教育」と薩摩藩が断行した完全な廃仏毀釈は密接な関連があると思いますが、その点は後ほど検討するつもりです。

>当時の群馬県が念仏不毛の地
群馬県は今でも「念仏不毛の地」ですが、浄土真宗みたいなネチネチ・ジメジメしたお説教好きの宗派は「かかあ天下と空っ風」の上州の風土には合わないですね。
わはは・・・。
とうとう言ってしまいました。
私の浄土真宗嫌いはあまり理論的なものではなく、もって生まれた上州気質によるところが大きいのですが、薩摩にも若干似た雰囲気を感じてしまいます。

>西本願寺の明如法主
葦津珍彦の『国家神道とは何だったのか』(神社新報社、1987)によれば、

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長州が独走して薩摩、会津の幕軍と闘った禁門の変にさいして、他藩は、すべて長州を見棄てたが、西本願寺だけは、長州敗残兵を守った。新撰組の土方歳三が苛烈な追及をしたが、明如上人は、敗残の将兵を九死一生の危機から救った。この時に、仏恩によって万死に一生を得たと云はれる長州の志士は少なくないが、その中で後に明治政府の閣僚大臣となったのは、松陰門下生の品川弥二郎、山田顕義等が有名である。
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とのことですから(p28)、明如法主にしてみれば、自分が明治政府をつくってやった、くらいの気分だったかもしれないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

明治政府と西本願寺 2016/03/08(火) 19:03:33
小太郎さん
http://www.e-furuhon.com/~matuno/bookimages/7407.htm
長州藩のGDP算出とは、恐るべき知識水準ですね。統計局を和歌山県に、という意味不明の試案が巷間囁かれていますが、いっそ、山口県に移転したらどうか、という気がしてきますね。

http://www.gunma-hanamoyu.com/place.html
大河ドラマ「花燃ゆ」は見ませんでしたが、県庁の近くにある正覺山清光寺の由来を見ると、長州と西本願寺との強い関係がよくわかりますね。
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楫取素彦、寿子夫妻の発願により創設された本願寺説教所を発祥とします。寿子夫人は当時の群馬県が念仏不毛の地であることを憂い、この地に念仏の教えを拡めんことを願い、西本願寺の明如法主に請うて本願寺説教所として創設し教化活動を行いました。その後、大正9年に正覺山清光寺として正式に寺号を公称しました。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%B0%8A
西本願寺の明如法主とは西本願寺21世法主大谷光尊で、長州閥を介してでしょうか、明治政府との親和性があったようですね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Metayage
『新ヨーロッパ大全?』に分益小作制(métayage、mezzadria)の話が出てきますが(105頁)、エジプトには紀元前の契約書があるのですね。ウィキの写真ですが、ヒエログリフではないし、一体、何語なのか。méta(仏)とmezza(伊)に収穫物の半分という意が残っているようですが、江戸期の日本であれば、実態には異説が多々あるものの、四公六民といったところですね。
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