五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

義経と頼朝

2015年07月04日 | 第2章 五感と体感
義経と頼朝2015年7月4日

録画しておいた歴史番組を面白く拝見しました。
「義経」に焦点を当てたもので、平治の乱で逃げ延びつつも、途中で父とはぐれ、その父は味方に討たれ、京に連れ戻されますが、殺されることなく幽閉された伊豆でのつましい生活を20年間強いられる頼朝は、強い懐疑する心を育みます。
一方、幼い義経は、美しい母常盤と別れ鞍馬寺に預けられます。鞍馬で育ち、東北でありながら京の文化を忠実に写した、いや、それ以上の文化だったであろう平泉で擁護された生育史を持つ義経。
であるから故に、懐疑する心に欠け、しかも損得勘定が解らず、あまりにも稚拙な行為と行動に、ますます相反する頼朝に嫌われていきます。

番組に登場された各方面のお一人が「二人の会話において、果たして言葉が通じあっていたのだろうか」という疑問を投げかけました。そう云われてみればそうだわぁ。という思いが私にも湧き、意思疎通の食い違いは、並々ならぬものであったに違いないと改めて感ずるのでした。

都言葉に東言葉。。。

「武士の文化が繁栄したのは、義経がいなければ、そこまでにならなかったのでは?」という番組での推察に、大いに納得し、頼朝の嫉妬と都を越えようとする彼の湧き立つ情動が見えてもきたのでありました。

勝者が勝者を語ることよりも勝者が敗者を語ることで伝説が生まれる事もさもありなんと思います。
一年の半分が過ぎ、半夏生を義経を祀る白旗神社で茅の輪をくぐり、お参りしたこととも重なり、私自身、義経に肩を持つ気持ちが一層高まったというわけであります。


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言葉を紡ぎ出すということ

2015年07月03日 | 第2章 五感と体感
言葉を紡ぎ出すということ

自分が文章を書き綴る中で、文字が独り歩きしてゆくような感覚を感じる事があります。
自分の事でありながら、自分の事であらずというような、俯瞰的な感覚を得るのです。
大抵、言葉の表現の段階で、自己体験をどう表現するかは、自分の中にあるフィルターが言葉と意識の間にかかります。
ありのままの自分を表現することを試みるにしても、自分の意識と自分の言葉が腑に落ちる形で嵌らないと表現したい自分に繋がってゆきません。
自分の書いている文章が自分の腑に心地よさを感じさせてゆくとその感覚は、明らかに快感という感覚を意識するのです。

そのようなことから「言葉を紡ぎ出して文章化すること」は、「生の感情を口から吐露すること」とは違うように思うのです。

つまり、「人の口から直に吐き出される言葉」と「文章を書く」ことは、違うのです。

言論の自由は、確かにとても大事なことですが、「表現すること」と「言論の自由」の狭間が如何に深くて怖いものであるかを私達は知っておく必要があるのだと思います。

「言葉」を使う生業の人々の「言論の自由の履き違え」で主張と権利ばかりが先行し、モラルを欠く商売に穢れたものを感じます。今さら変えられない現実に、せめて日本にも「サムの息子法」のような法律が制定されることを願います。

「言の葉」を自分自身の表現方法の一つとして書いている私自身、言葉を畏れ敬う事を意識しなくなったら言葉を紡ぐ資格は無いと思っています。

昨日の某番組で、柳田邦男氏が「手記が文学になることに恐れを感じる。」という内容の発言をされていました。私もそう思います。


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ひきずる心と折り合い

2015年07月02日 | 第2章 五感と体感
ひきずる心と折り合い2015年7月2日

自分の生活は、自分自身のものであっても自分自身のものだけであらず、ともいうことができそうですが、自分自身の心と身体と魂は、自分自身で保っていかなくては誰も手伝ってはくれません。

自分自身の保ち方は人それぞれでありましょう。

感情の処理に手間取る人もいらっしゃれば、何でも人のせいにしたり、世間や家族に悪態をつく人もいらっしゃいます。
反面、気持ちをひきずるうちに自分自身のせいにしたり、自分自身の罪悪感に繋げてしまったりして苦しむ人もいらっしゃいます。

自分自身の傾向について、他者からどんなアドバイスをいただいても、晴れ渡る様な解決に至ることは少ないかもしれません。

自分が何らかの答えを模索し、ふるふると自分の保ち方を変えたい情動が湧きあがっていると、天から答えが降ってくる事もあるかもしれませんが、それは、自分の自問自答の導きに機が熟した時かもしれません。

ひきずる心の自分とそこから離れた理想の自分との関係性を出し入れすることの兼ね合いは、自分の内に備わっているスケールを基準にしてみないときっと納得はいかないでしょう。
一つの答えに固執するよりも折り合いをどうつけるかをまずイメージしてみると答えが導き出されやすいのは、不安感によって生き延びる人の本質とも深い繋がりがあるようにも思います。


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介護の時代

2015年07月01日 | 悔いのない人生とは?
介護の時代

今年前半は、個人的に病院、介護施設、地域包括センター、役所等等、複数の家族・親族の手続き、見舞い、介助に明け暮れた割には、よく遊びよく仕事もしたように思います。
「よく遊び」は、自己崩壊にならないための防衛機制だったようで、つまり反動形成的な現象が出ていたようにも思います。
一人、二人ならともかく、私の役割の大小合わせて、五人の家族・親族がドミノ倒しのように具合が悪くなり介護が必要な状況に陥ると、自分の仕事の役割に関して、思った以上に理論的になっていくことができたことも、何とかこなすことができたコツだったように思います。

「自分がどこまで関わるか。」「関わらなければならないか。もしくは関わることを拒否しても良いか。」「先延ばしでもよいか。」
一つの身体では対処できるわけがない事をこれからの老人社会に複数の人の責任を負わざるを得ない可能性のある人は、今から何らかのシュミレーションをしておくことが大事なようです。

介護や福祉、医療、行政の事や法律をひとつひとつ知ってゆくことで、自分の役割が整理され、決断も早くなるのです。
あとは、自分の性格がどんな傾向であるかを自分自身が解っておくと自分の行動をコントロールする事もしやすくなります。

今年の後半は、特に季節が秋へと傾いてゆくと突発的に何が起こるか解りませんが、ともかく、自分の身体を労わりながら役割遂行してゆきたいものです。

私の場合、今のところ継続的な介護を継続しているわけではありませんので、自宅で介護をしていらっしゃる方々にはほんとうに頭が下がります。
医療や福祉関係で一所懸命働く方々に感謝申し上げます。

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