五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

言葉を紡ぎ出すということ

2015年07月03日 | 第2章 五感と体感
言葉を紡ぎ出すということ

自分が文章を書き綴る中で、文字が独り歩きしてゆくような感覚を感じる事があります。
自分の事でありながら、自分の事であらずというような、俯瞰的な感覚を得るのです。
大抵、言葉の表現の段階で、自己体験をどう表現するかは、自分の中にあるフィルターが言葉と意識の間にかかります。
ありのままの自分を表現することを試みるにしても、自分の意識と自分の言葉が腑に落ちる形で嵌らないと表現したい自分に繋がってゆきません。
自分の書いている文章が自分の腑に心地よさを感じさせてゆくとその感覚は、明らかに快感という感覚を意識するのです。

そのようなことから「言葉を紡ぎ出して文章化すること」は、「生の感情を口から吐露すること」とは違うように思うのです。

つまり、「人の口から直に吐き出される言葉」と「文章を書く」ことは、違うのです。

言論の自由は、確かにとても大事なことですが、「表現すること」と「言論の自由」の狭間が如何に深くて怖いものであるかを私達は知っておく必要があるのだと思います。

「言葉」を使う生業の人々の「言論の自由の履き違え」で主張と権利ばかりが先行し、モラルを欠く商売に穢れたものを感じます。今さら変えられない現実に、せめて日本にも「サムの息子法」のような法律が制定されることを願います。

「言の葉」を自分自身の表現方法の一つとして書いている私自身、言葉を畏れ敬う事を意識しなくなったら言葉を紡ぐ資格は無いと思っています。

昨日の某番組で、柳田邦男氏が「手記が文学になることに恐れを感じる。」という内容の発言をされていました。私もそう思います。


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