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五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

ラジオ体操

2009年03月18日 | 第3章 無意識の世界
毎朝、起きてすぐにラジオをつけます。今朝も同じようにつけました。そうしたら、いきなり「ラジオ体操」の歌が聞こえてきました。「あーたらしい、あーさがきた、きぼーうの朝だ」「FMのJ-WAVE」が、なんでまた???
曲が終わり説明を聞き、納得です。
宇宙に飛び立った若田さんが宇宙で聴く曲に選んだものでした。

不思議なものです。

あのラジオ体操の曲は、小学生以来、聞いていませんでした。
40年近く経っています。
それなのに思い出します。

茅ヶ崎市立梅田小学校の校庭。
夏休みの早朝、ラジオ体操出席カードをリボンで首からつるし、出席ごとにハンコを押してもらいます。眠い目をこすりながらも、だだっ広い校庭に集まり、友達に会うことは、暇な子供のリクレーションの一つでした。

陽が昇り、青空が広がると、蝉が鳴き出します。凪いだ空の青さを眺めながら、何となく惰性で体を動かすラジオ体操。。。
でも、それが、小学生の頃の夏の思い出の一つであることは間違いありません。

歌を聴くと、懐かしさと愛愁の感情が湧き出します。

茅ヶ崎の海岸、パシフィックホテル、東海岸の図書館、国道一号線の松並木、夏の風景としての情景は目に焼き付いています。
やっぱり、茅ヶ崎は夏が似合います。

宇宙では、どんな気持ちで聴いていらっしゃるのでしょう?

おかげさまで、地球に住む私の思い出まで手繰り寄せてくださいました。

小さな小さな思い出ですが、私の成育史の一滴。この一滴の体験が今の自分を成り立たせています。
一つ一つの体験は大切な宝物です。大事にしたいものです

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幽霊との戦い

2009年02月11日 | 第3章 無意識の世界
私の幽霊との出会いは、5歳くらいの頃です。
高知で生まれ育ち、五歳から住んだ福井は、高知の降り注ぐ太陽のイメージとは打って変わり、四方が山に囲まれた盆地の雪深い町は、幼い私のアイデンティティをぐらぐらと揺らすには、ちょうどよい条件であったと思います。

二階建ての大きな家でした。
雪が積もれば、一階は埋まってしまうので、一階の天井の高さは関東の家から比べると高くできています。
二階の南側の部屋が私の部屋でした。
大きな家ではあってもトイレは一階の隅に一つだけ。

ひとりで寝る習慣をつけられ、妹は母と寝ていたので、夜中、トイレに起きても親は当てにできません。
二階の部屋からトイレまでは、あの頃の私にとって非常に長い道のりでした。
暗い階段を降りると玄関ホールです。そこからまわれ右をして、台所に行きます。その先がトイレ。
幽霊が出るんじゃないかと、怖くて怖くて・・・
トイレに行くまでの恐怖感は、耐えがたいものでした。

ある日、和裁用の大きな裁ちばさみが目に留まりました。
「そうか!、夜、歩くんだったら、これだ

幽霊撃退用の道具を見つけたわけです

毎晩、裁ちばさみを枕元に置き、トイレに起きた夜中、私は大きな裁ちばさみを「バチバチ」と動かしながら暗闇に挑みました
そんなわけで、恐怖感は多少軽減されたのです。

今から考えると、子供が裁ちばさみを持つなんて、なんと恐ろしい・・・
大人になると、幽霊よりもそちらのほうに恐怖を感じます。。。






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対抗意識

2009年01月25日 | 第3章 無意識の世界
自分が他者と張り合う時って、どんな時だろう。。。

「私は、対抗意識なんて、持ったことがない。人と張り合ったこともない!」と、云い切る人は、あんまり信用しません。。。

先日、ドイツ製のドクターバッグと出合いました。書類の持ち運びの多い私にとっては、なんて便利ながま口バックと一目で惚れ込み、買ってしまいました。しかも、三千円なんと私向きでしょう

バッグのデビューは、都内某所。。。

地下鉄に乗り、多少混んだ車内を見渡しました。
見ていないようで見ているオバサンは、若者の持ち物チェックを怠りません。

そうしたら、居ました。
柔らかい皮のなんとも素敵な明るいベージュの鞄を持った男性。。。

私がいままさに持っているバッグと同じ形のものです。
でも、私のものは、明らかに安物。でも、布製でちょっと素敵

「うーーーん、あちらの持ち物は、かなり高価なものだなぁ~、デザイン事務所系の人かなーーー、、彼も、もしかしたら今日が鞄のデビューかも。。。」

いろいろと妄想を巡らす私。

こういうときは、偶然が重なるもので、同じ駅で下車。しかも私の行く路をその人もどんどん進んでいきます。

で、私が取った行動。

その人を追い抜かしたのです

今まで、スタスタと歩いていたその男性、明らかに私のバッグに目線が注がれています。。。

勝った負けた、というのではなく、、好みの対抗意識、、、っというんでしょうかね。。。あなたと私は、ひょっとして、おんなじ好みの傾向??というアピールでしょうかね。。。

どうも、私の対抗意識の種類には、そんな子供じみたものがあるようです。

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愛の原型

2008年12月22日 | 第3章 無意識の世界
ある場所での勉強会。

久しぶりに「愛の原型」の話題となりました。
自分が幼い頃、愛された記憶を意識化する作業です。

自分が愛だと思うものが愛。

愛の原型は、地球に住む人間の数だけあります。

Aさんが愛だと思っても、それを聞いたBさんが共感するとは限りません。
共感したとしても、その人が感じているものは同じではありません。

遺伝と環境と老化。内分泌と自律神経と免疫。
人の体と心は、それらの重なり合いで個性化されていきます。

Aさんが愛だと思う愛。
Bさんが愛だと思う愛。

それぞれの個性の美を尊重して違い知ること。
違いを知るだけで、精神衛生はずいぶん違ってくると思います。

私はあなたではありません。
あなたは私ではありません。

私は私です。

今年の勉強納めで、愛の原型と愛の孤独感の再確認。

参加者の方々と魂の「ことのは(言葉)」を交わした良き一日でした。
ありがとうございます。

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アシュラが街にやってくる

2008年12月19日 | 第3章 無意識の世界
東横線最寄りの駅に大きな大きなポスターが貼られました。
ポスターに写しだされた被写体は「阿修羅」。

「興福寺・建立1300年展」上野国立博物館にて来春開催されるようです。

興福寺の国宝館は鉄筋コンクリートの古びた建物です。寒い日に入ると一層凍えてしまうくらいの気温で、驚いたことに展示室の中に職員のためのプレハブがあるのです。しかもトイレも無し。

凍えた身体を震わせながらも、国のお宝を観出すと、自分の身体に眠っていた記憶がむくむくと起きだして、造形美の中に宿る精神性に取りつかれていきます。

こんなにボロい建物の中に、魅惑の宝が所狭しと収められているなんて驚きです。
並べられた日本の宝の中に、その「阿修羅くん」も収蔵されています。

多様な表情を見る側に見せながらも、なにか「困った顔」している阿修羅くんに、中学の頃の修学旅行以来、30数年ぶりに対面したのは今年の春のことでした。

すらりとした肢体に、あの困ったような儚げな表情は、人の持つ悲しみや苦しみを一手に背負ってくれているようにも思えます。
30年数年ぶりに再会しても、若々しく普遍的な阿修羅くん。私に宿る魂は変わることはありませんが、心と体は成長し鍛えられ、多少の学習もし、ずいぶん変化したようです。いつ訪れても変わらずに居るものに会うことは、人の内に欲する何かと会うことと同じようにも思います。

人は心と体と魂で成っているようです。

それを感じ取る時間を大切にしたいものです。

暫くの間、駅で阿修羅くんに会える私はなんと幸せ


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源氏物語からギリシャ神話に

2008年11月10日 | 第3章 無意識の世界
夏から源氏物語に没頭していたので、今週末からの勉強会にかなりの支障が出ていることに気づきました。
週末の勉強会のテーマは「ギリシャ神話」
頭の切り替え、早急にしなくてはなりません

ギリシャ神話に登場する神々は、情動の留まるところを知りません。
耐えに耐え、忍び泣きながら打ちひす御身を・・・というようなことは、あり得ないギリシャの神様達。
溜まった感情を放出し、思いを行動に起こしながら天空を舞い個性の美を壮大に表現していく神々。

心理学には欠くことのできないギリシャ神話。一人一人の神様の個性は、人の個性の傾向を測る対象としてヨーロッパの人々のアイデンティティに深い影響を及ぼしてきました。
「置き換え」「投影」「昇華」「逃避」「感情転移」「抑制」「抑圧」「退行」「合理化」「知性化」「同一化」「摂取」「反動形成」「補償」(14の防衛機制・生き甲斐の心理学P129参照)
自分の傾向と重ね合わせながら、しばし切り替えです



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平安流「女の意地」

2008年10月26日 | 第3章 無意識の世界
源氏物語の中でも、少々特異な「蓬生」(よもぎう)の章。

末摘花という、内気で恥ずかしがり屋で、赤鼻で鉤鼻。亡くなった父宮の遺した家と調度品を売らずに、なんとか生き延びようとする頑固者の女性が主人公です。

案外、今のご時世に必要なキャラクターかもしれない、と親近感を覚えます。

生き延びるためにはお金は必要。でも、父親の遺した大切な遺産を守るためにあらゆる誘いにも媚びず、よもぎが生い茂る朽ち果てた屋敷でひたすら光源氏が再訪するのを待つのです。

この「待つ」という姿勢も、受け身といえば受け身ですが、意志を曲げれば光源氏を待たなくとも良い暮らしができるはず。それを拒んで彼女は自分の意志を貫き通します。

自己実現のための精神力は、今も昔もそうは変わらないような気がします。

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六条の御息所の憂鬱

2008年09月30日 | 第3章 無意識の世界
光源氏の正室である葵上が出産時に「六条の御息所」が生き霊となって乗り移る場面があります。
読んでいるだけでも背筋が震えてきます。

でも、六条の御息所は、嫉妬を奥深く心に秘め、生き霊になることを望んでいるわけではありません。彼女の無意識が時空を超えて、葵上に乗り移るのです。

光源氏を我がものにしたいという想いは、叶わぬ想いです。
叶わぬ恋ならば、娘と一緒に伊勢に下ろうと決意します。

そこで光源氏が、「自分ばかりが辛いとおっしゃるのは自分勝手。あなたと別れる私の辛い気持をなんで分かってくれないのか。。。」というような、歌を詠みます。

六条の御息所の自分勝手な憂鬱。。。

多くの女性を泣かせる光源氏の行動は、困ったものですが、
彼女の思い込みの強さと自虐的なほどのプライドの高さを知ると、光源氏の切なる想いは、結構まっとうな訴えのようにも思います。

六条の御息所と光源氏。
彼女は「陰」で彼は「陽」

素直な心の描写を表現できる光源氏は、光と影を一層際立たせる人物として、ますます興味が尽きません。

陰と陽。

この視点で源氏物語を読んでいくのも、ちょっぴり面白いです。
読書の秋をじっくりと楽しみたいものです。

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私は周りが見えている!

2008年09月02日 | 第3章 無意識の世界
私は、周りが見えている。あなたとは違う!」

昨日のニュースで、某国首相が取材陣に向かって言った言葉?
いやいや、あれは、国民に言い放った言葉です。

全国民に向かって、そんな言葉を発してしまうほど、ストレスがマックスにきている「とある大人」の発言に、「紫式部の源氏物語」から見える平安のまつり事は、脈々と現代に受け継がれているなぁ~と感じました。

当然ながら、日本に祖先をもつ私もその血が流れているわけです。
そのうえ、ストレスを回避することがあまり上手ではありませんでした。
何か事が起こると、胃腸にくる。。。胃が痛くなり、眠れなくなる。。。
胃腸の弱い私は、胃腸が弱いことを意識し、神経質なことを自分の中で受容したら、回避する術を身に付けられるようになってきたようです。

生き甲斐の心理学の学びを進めていくうちに「私はあなたとは違う!」とは、とてもとても言えなくなりました。

周りをヒステリックに非難する前に、まずは自分の心をいったん鎮めることを意識してみませんか?

自分が見えていると、周りが見えてくるのです。。。

ともかく、人前で「私はあなたとは違う!」という子供じみた発言は、慎みたいものです。

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夏休みの子育て

2008年08月21日 | 第3章 無意識の世界
夏休み。ラストスパート突入です。
子育て真っ最中のお母さま、日々お疲れ様です。

外に出ると、多様な母子像に出会います。

母の怒号が飛び交う中、子供は知らんぷりで我が道行く!とか、びえぇぇぇー!と泣き出す等、そんな光景に「お母さん、いい加減、夏休み疲れだよねぇ」と同情相哀れむ感情が湧きだします。

昨日、駅のホームのクーラーのついている待合室に入りました。一人のおばあちゃんが、ひと組の母子に気遣いながら、丁寧にあやまっているのです。
どうも、自動ドアの付近にいた二歳くらいの男の子の指がドアに挟まってしまったらしいのです。幸い、怪我はありませんでしたが、驚いた男の子は泣いていました。
・・・その時の、お母さんの対応に「あれ?」と思ったのです。

自動ドアの付近に立たせる時の親としての役割を怠った結果のハプニングであると解釈した私は、相手のおばあちゃんが自分が気付かないでドアを開けてしまったことを心をこめてあやまっている様子に「おばあちゃんのお人柄」を読み取りました。
しかし、
相手のお母さんは、一度も、そのおばあちゃんの目を見ませんでした。
ひとこと、「大丈夫です。」とそっぽを向いて言いました。
それだけでは、ありません。子供の目さえ見ないのです。

オバサンである私は心の中で「アラァアアアーーー」

他人の子育てに口出すことはできません。
でも、目を見て言葉を交わすことができないだけでなく、感情も表情から見えない、能面みたいなお母さんに育てられるお子様の成育過程を想像すると、悲しくなりました。

子供に「お母さんは、怒りんぼ!!」と言わせるくらいのほうが、幸せです。

喜怒哀楽は大事。とっても大事

子供と一緒に、笑ったり、泣いたり、怒ったり。。。

親と子の関係において、いろんな顔を見せ合いながら、子育てするのは、きれいな服を着せたり、習い事をさせることよりも大事なことのように思うのです。

成育史は、人生の宝物です。

子供の夏休みから解放されたら、今度はお母さんの夏休み。大変でしょうけど、頑張れお母さん

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源氏物語は感情の宝庫

2008年08月05日 | 第3章 無意識の世界
雷雨のおかげで、少しは涼しくなるかと思いきや、一向に涼しくならない夏の夕暮れ。

鎌倉の勉強会では、源氏物語の光源氏を中心とした相関図から登場人物の立場と感情に触れ、人物の的を絞って平安時代の習慣やまつりごと、宗教感から源氏物語の入口を皆さんと一緒に楽しんでみました。

私自身、これぞと思うテーマに出合えたことに、安堵感を感じています。

ひとことでいうと、源氏物語は、感情表現の宝庫。

ひとりひとりの生い立ちと、光源氏に翻弄されながらも自らの生き抜く様は、読む者の心をみるみる捉えていきます。
一人の人間にとらわれることなく生きようとする生き抜こうとする人の「自由意思」が見えてくることに注目しています。

その中で、ただひとり、嫉妬深さの余り、生き霊となって、光源氏が寵愛する女性達にことごとく襲いかかる六条の御息所。彼女の存在は物語の中での道化師役的なもの(トリックスター)を感じますが、現代社会に直接繋がる嫉妬の表現です。

怒り、悲しみ、嫉妬、恨み、疎外感、孤独感、傲慢さ、歪曲、勘違い、思いこみの強さ、我がまま、、、、

「まさか、私に限ってそんなこと思いませんわ・・・」と思う六条の御息所の無意識が生き霊となって、女性たちを苦しめるのです。

本音を意識しない怖さ。

人の感情の曼陀羅を垣間見ることのできる源氏物語の面白さがあるのです。

また少し、読み深めながら、ぼちぼちと源氏物語をブログのネタに使わせていただきます。

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信じて見えてくるもの

2008年08月04日 | 第3章 無意識の世界
夏の海を山の上から眺めながらの勉強会で思索と対話を愉しんできました。

5万年前の人類の誕生から今日までを辿りながら、およそ二千年前、一世紀頃のキリスト教と源氏物語に焦点を当てた心理学の学びでした。

信じて見えてくるもの。

一つのものを見据えて、そこから見えてくるもの。

見えてくるものは、それぞれの個性から生まれてくるものです。
だから、個々に違う解釈となり概念となっていきます。

そうはいっても、アフリカから出発した自分の祖先である母の数を計算してみると
、二千人から二千五百人位の数となります。
その中の一人でも欠けたら、「私」という存在は無かったはず。

そのようなことを考えると、今在る自分は、奇跡の存在といっても過言ではありません。そして、よくぞここまで生き延びてくださったと思うわけです。

何が好きか嫌いか?
誰が好きか嫌いか?
その判断は、ご先祖様から受け継がれてきた経験と解釈で、ずいぶん違ってくると思います。

見えない記憶も見える記憶も、脳に記憶され、自分という個性が成り立っていることが自分でもよく分かります。

・・・・
千年前からの母親を辿ると、およそ80人~100人くらいです。
源氏物語の誕生以降から私が生まれてくるまでの期間、遺伝子の継承はたった100人程度の人からのものなのです。

千年前の暮らしぶりが、何か懐かしく感じるのは、まだ私たちの遺伝子に鮮やかに記憶されているからなのかもしれません。

人は皆手を繋ぎながら生きています。

誰かが欠ければ、誰かの人生も変わります。誰かの人生が変われば、そのまた別の人の人生も変わっていきます。

自分が与えられた尊い命は、どんなものでも次の世代に継承されていきます。

自分が遺していきたいもの、それを意識すると、ちょっとはピリッとした夏の生活ができるかもしれない、と自分に言い聞かせて、酷暑を乗り切ろう・・・

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考える力

2008年07月20日 | 第3章 無意識の世界
教科書的な言い方かもしれませんが、「考える力」を養う時期は、相応にしてあるのだしみじみ感じています。

この「相応」というのは、考える内容によって個人的な成長の度合、もしくは個性によって全く違ってきます。

子供のころ、思いもよばなかったことが大人になると理解できるようになり、大人になると忘れてしまう感情もあります。

でも、

「私」という容れ物は、私以外に所有者はいません。

「私」が「私」を放棄してしまったら「私」はどうなってしまうのでしょう。

「考える力」は「生きる力」です。

親のせい。
社会のせい。
先生のせい。
友達のせい。
兄弟のせい。
環境のせい。

○○のせいにばかりしていると、鏡に映る自分の顔、悲しげな顔や無表情になっているかもしれません。

「今、湧き上がる感情」を感情のままに表現することは、とても大切なことですが、表現する前に、表現してみたあとの「結果」を想像してみることも大切なことだと思うのです。

考える力は個人の中に必ず宿っています。そして、答えは「私」の内にかならずあるはずです。

答えを導くのは本人です。でも、考える時間を提供することは、他人でもできます。
「身近な人の配慮」、社会がきちんと考える時期にきているような気がしてなりません。

夏休み。

親子の穏やかな対話。
試みてみませんか?

最近起こる事件の数々。気になります。

私たちNPOが教育活動できることは、「もやもやした言語化できない何か」を、時間をかけて自問自答していくことです。時間をかけてのんびりと勉強会を通して共に学び合っていきます。

「生き甲斐の心理学」
NPO法人CULLカリタス カウンセリング学会は、そんな地道な活動をしています。

10月17日狛江市エコルマホールにて講演会を行います。
詳しくはHPにて、ご覧ください。

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睡眠の達成感

2008年05月10日 | 第3章 無意識の世界
睡眠という達成感を毎朝起きたら意識化することを大事にしています。

寝る前ぎりぎりまでパソコンに向かうこともよくあります。

仕事が重なり、その段取りで頭の中がグルグル回ることもよくあります。

言葉に出しても始まらないので、頭の中で処理しようとすることもしばしばです。

くよくよ考えても現実は変えられないから、明日考えよう!と思うこともよくあることです。

私自身、何かをしだすと、固執して考え始める傾向があるので、なるべく、寝る頃には意識から切り離すようにしています。
このことを実行しているうちに、睡眠が快適になってきたように思います。

幸福な夢を見ることを願い、よく寝て、休息することは、とても大切なこと。

ともかく、睡眠力をつけて、毎日を大切に行動したいものです。

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決めない「存在感」

2008年04月26日 | 第3章 無意識の世界
今日から映画「I,m not there」が公開されました。

六人の俳優によって演じられるボブディラン、とだけ言っておきましょう。
(まだ観ていないので)
6人の中の一人、ケイトブランシェット、むちゃくちゃカッコイイ。唯一の女優。
昔観た映画、「勝手にしやがれ!」を思い起こすカッコ良さ・・・

私が十代のころ、彼は、フォークシンガーのイメージが強く、あまり興味は湧きませんでした。でも、年を経て、いくつか変容する彼の表現に、何となく私の気に留まることは少しだけありました。

世間に見せるどの「顔」も自分である。

「本当の私はこうなのよ」と陰で言い訳がましくつぶやくよりも、「どれも私よ」と言ったほうが、私自身、自分を生き易くしているように思います。

昨日やっていたことと今日やることがまるで違っていたとしても、自分の思考と感情と行動によって成せた表現であるのだから、「どれもこれも私である」というのが私の在り様です。

「憧れとは、川の流れのようである。」(三島由紀夫の「花ざかりの森」)
三島由紀夫、16歳にこの小説を書きました。私が読んで腑に落ちたのも16歳の時でした。

時代の流れ。環境。年齢を重ねることと自身の経験。

どれも、「私」という「器」が経験していることですが、器に囚われて、本質を見ようとする意思と意識を失わないようにしていきたいものです。

今、掴みたいものを掴む精神力。
瞬間瞬間に掴んだものが、いつしか自分の太い柱となっていくのです。

これは、書いている本人の生涯の課題。。。

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