Mr.コンティのRising JAPAN

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近藤貞雄監督 安らかに

2006-01-04 | プロ野球
1月2日、夜のNHKニュースを見ていたら信じられない訃報が。“近藤貞雄氏逝去”。死因は呼吸不全。4年前、糖尿病を悪化させてその際腎臓炎を発症している事が発覚し自宅で静養していたらしい。昨年5月腎臓炎が再発し再入院され一時危険な状態にまでなったらしい。翌日早速近所のコンビニにスポーツ新聞を買いに。箱根駅伝が一面を飾る中、さすが東京中日スポーツはこの訃報をトップ記事で報道した。享年80歳だった。近藤貞雄氏と言うと過去何度も巨人と対決をしている。ロッテ投手コーチ時代は昭和45年の日本シリーズで。中日投手コーチ時代は与那嶺監督の元ジャイアンツのV10を阻止した。そして中日監督時代も昭和57年に巨人との接戦を制して優勝を。昭和60,61年には横浜大洋を率いた。平成元年から日本ハム監督を2年勤めたがその時はジャイアンツとの対戦は無かった。やはり中日監督を務めた昭和56年から3年間の事が強く印象に残っている。昭和56年と言えばジャイアンツは前年長嶋監督が解任され、王貞治が引退をし、新監督に藤田元司を迎え、東海大学から原辰徳が入団した。そして2位広島に大差を就けて4年ぶりにリーグ優勝を収め、日本シリーズも8年ぶりに制した年だ。だが序盤は近藤監督が就任したばかりの中日が首位を走っていた。この年結局中日は5位に終わったが新戦力の台頭が著しかった。投手では都裕次郎、小松辰夫、牛島ら若い投手陣が台頭しており、星野仙一はこの年巨人から5勝を挙げたが、翌年は引退。だがベテラン鈴木孝政、三沢がいた。そして台湾からやって来た郭源次、野手では捕手中尾、内野手では上川、宇野、田野倉、外野手には田尾、平野、またベテランでは谷沢、大島のジャイアンツのV10を阻止したメンバーがいた。コーチ陣も元ジャイアンツのV9戦士黒江が、そして投手コーチには権藤博。翌57年になると内野手にはケン=モッカが入団してきた。この年ジャイアンツも江川卓が全盛期、他にも西本、定岡、加藤と投手陣も充実。打撃では2年目の原が33本の本塁打を放ち、リードオフマンに松本、3割打者篠塚、そしてスイッチヒッターの助人ロイ=ホワイトがいたが若い都裕次郎や郭の快速球にてこずる試合が。そしてリリーフエース牛島を打てなかった。そして2強の争いは続き9月下旬、ナゴヤ球場での3連戦を迎える。下馬評では圧倒的にジャイアンツ有利。その初戦は原辰徳の30号3ランで幕が開けた。9回表を終わって中日先発三沢を攻略し 6-2 とリード。ジャイアンツのマウンドには江川がいた。しかしその江川に連打を浴びせて最終回に4点を奪い土壇場で追いつく。そして延長10回裏にはリリーフエース角を打ち込みサヨナラで初戦を劇的な逆転で先勝した。続く第二戦は巨人先発、西本の立ち上がりを捕らえ2点を初回に先制。原辰徳の本塁打等で同点に追いつくが、終盤谷沢の3ランで突き放し連勝。第三戦も大島の本塁打等で中日が2点を先制するが、巨人も連打で逆転、原辰徳の3試合連続本塁打で追加点を挙げ、守っても先発加藤初を受け継いだ前日先発の西本がぴしゃりと押さえ何とか3連敗は免れた。これで私は巨人の優勝を確信した。巨人は残り4試合、全て勝てば中日はのこり13試合中11勝せねばならかったからだ。しかし、巨人は失速、残り試合を1勝1分2敗しかできず、中日は最終戦130試合目で劇的な優勝を収めた。その時の無念さは今でも忘れられない。近藤監督の持論は敵将ながらわくわくさせられた。横浜で指揮を取る様になっても屋敷、高木、加藤と1番から並べてスーパーカートリオと名付けたり。勝つ為にはいかに管理野球を完成させるかという当時の潮流の中でより多くの野球ファン獲得に知恵を絞っていた。近藤監督にはジャイアンツの様な優勝を狙える戦力の球団を指揮させてみたかったと思うのは私だけだろうか?近藤監督自身も巨人軍に在籍した選手だった。昭和21年には23勝をあげながら翌年暮れには進駐軍のジープにはねられ右手中指の腱を切断し巨人を自由契約に。そして中日に入団し在籍7年で24勝。そして対巨人戦でも8勝を挙げた。だが巨人を相手に戦ってこそ近藤監督だったのだろう。昭和61年のシーズンオフに当時New York Mets で監督をしていた元巨人の助人デーブ=ジョンソン率いるメジャーリーグ選抜チームと対戦した日本プロ野球選抜チームの監督を近藤貞雄氏が勤めたがその時の表情を忘れられない。 近藤監督の言葉を借りれば、管理野球は管理されたモーレツサラリーマンが日本経済の高度成長の為に懸命に働いた昭和40年代にふさわしい時代の要請で昭和も60年代そして平成に入ると個性の回復、個性的な人材の需要が高くなりいつまでも管理野球を続けていてはとの危惧があったのだと思う。今のサラリーマン世界を見渡しても仕事にこれほどまでに重きをおくのは我々が最後の世代ではないかと思う。近藤監督はその先の世代をも見越していたのだろうか? また1人先日の仰木氏に続いて惜しい人が逝ってしまった。ご冥福を祈ります。