Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

テレマカシ マレーシア モスクワ五輪予選 その2

2006-01-17 | Football Asia
韓国と日本を先に戦わせてその戦力、戦術を分析し、そして星勘定を見ながら大会を優位に進めようと言う開催国マレーシアの作戦であった。しかし韓国は落ち着いていた。“日本には 2-0 で勝つ。それ以上なら尚良い”と関係者はコメントしていたらしい。前年の1979年、3月の東京での定期戦では5年ぶりの勝利を収めたが、5月のソウルでの定期戦は 1-4 で惨敗。同年のムルデカ大会でもBチーム相手に 0-1 で敗れた。当時この予選大会を報道するメディアは皆無でもちろんテレビ中継さえなかった。この大会の模様をどうしても知りたい私は考えた末、韓国のラジオ放送を聴く事にした。深夜なら日本にも電波が届いてくる。こう考えた私の思惑はまんまとあたり、試合の模様がよくわかった。サッカー用語は殆ど同じ、あとは日韓の選手の名前とポジションでその様子を伺うことにした。立ち上がり30分までは膠着状態、しかしPKを与えてしまい韓国に先制を許す。後で知ったがこのPKは日本には非常に気の毒な判定だったらしい。その後も日本のDFやGKの名前ばかりが出てきて、韓国FW選手の名前ばかりが出て来る。そしてアナウンサーがゴールイン!!と叫んで出て来る名前は韓国の選手ばかりであった。終了間際にゴールイン!との叫び声のあと“キムラ、タカハラ”とアナウンスされたので最後に日本が一矢を報いたことがわかった。日本は黒星スタートそして韓国はその後に地元マレーシアとの戦いに臨んだ。この試合もラジオで聴いていたが、ゴールイン!という後に続けられる名前はなんとマレーシア選手ばかりであった。そしてその後地元大観衆の歓喜の声援にアナウンサーの声が埋没する事もしばしば。韓国はさらにPKを失敗したり、自殺点を献上したりと良い所無くマレーシアに 0-3 で完敗してしまった。韓国がマレーシアに勝ってくれるものとばかりに想像していた私はショックであった。これで2位以内に入るにはマレーシアに勝たねばならない。しかし、勝てば得失点差で韓国を上回れる、そしてマレーシアなら決勝でも何とかなるのでは無いか?と思った。恐らく韓国でもそう思ったのだろう。しかもマレーシアは日本に負けても2位以内がほぼ確定する。だからこの試合も何と韓国のラジオ局は生中継をしてくれた。開始10分程でゴールインという声の後に当時のエースストライカーであった碓井の名前が聞えて来た。日本が先制したのだ。当時の日本代表はFWには永井、碓井の2枚看板に新鋭の横山、高原がいた。中盤には木村和司、金田、読売クラブの小見がいた主将は浦和レッズでもコーチを務めた落合だった。しかし試合が続くにつれてFW陣の名前が出てこなくなり、マレーシアFWの名前が出てくる様に。そして後半ついにジェームス=ウォンのゴールで追いつかれてしまった。それでも日本は追加点を取りにマレーシアゴールに迫ったのがわかった。40分過ぎにアナウンサーが絶叫をしたのを憶えている。それは攻撃参加した落合のフリーで放ったボレーシュートがクロスバーをわずかに越えた瞬間だと知ったのは、この試合の数週間後に発行された専門誌からであった。結局この試合を 1-1 で引分日本の五輪出場権はあと1試合残しているとは言え事実上無くなっていた。 そして決勝戦。今度はチームを立て直してマレーシア戦に臨んだ韓国であった。試合は 1-1 のまま後半も残り少ない42分。ゴールインというアナウンサーの声はマレーシアのエース、ジェームス=ウォンが決勝点を挙げた瞬間で、以降の残り数分間は意気消沈し魂の抜けた様な声でしか中継できない韓国の局アナの寂しげな声だけが、地元の大歓声をBGMにラジオから流れて来るだけであった。マレーシアが地元開催とは言え下馬評を大きく覆し、2大会ぶりの五輪出場を決めた大会であった。専門誌が伝えるところによると、韓国関係者の落ち込み様は本当に気の毒であったらしい。ドイツに渡った車範根をどうしてあと1年引き止めなかった?と物議も醸したらしい。私自身、韓国が破れるとは、日本が引分けたマレーシアに2度も敗れるとは思わなかった。韓国が世界の舞台に出るにはあと6年、メキシコワールドカップ まで待たねばならなかった。しかし、災難はマレーシアの方に起こった。前年ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した事に抗議する為、アメリカの音頭で西側の多くがモスクワ五輪をボイコット。そしてマレーシアもアメリカ等西側陣営に同調しこの五輪をボイコットしこれ以降マレーシアサッカーが世界の舞台に立てる日は未だ来ていない。プレミアシップのレプリカを着ている若者達の多くはこの快挙をしらないだろう。だが、“日本はサッカーが強い羨ましい”と言う。だれもが夢よもう一度と思っているに違いない。80年代に我々が世界の舞台を遠くから眺めていたように。

テレマカシ マレーシア モスクワ五輪予選

2006-01-17 | Football Asia
マレーシアの首都 クアラルンプール には立派な競技場が幾つか目に付く。1996年、アトランタ五輪予選に臨み28年ぶりに五輪出場を決めた思い出の競技場として憶えておられる方も。今はもう国際試合には使われなくなったムルデカ競技場と言うスタディアムがある。1990年代初めまではこの競技場でムルデカ大会と言うサッカー大会が開催されていた。ムルデカとはマレー語で独立と言う意味らしい。マレーシアはA代表とB代表が参加し、タイやインドネシア、シンガポールと言った東南アジア諸国のみならず時には中東諸国そして韓国も参加をした大会だ。70年代から80年代にはもちろん日本もよく参加していた。当時、代表Aマッチを組む機会が乏しい中この大会はアジア諸国にとっては貴重な大会であった。マレーシアが早くからアジアの中で国際大会を開催するなどリーダーシップ的な存在であったその背景には1954年、AFC アジアサッカー 連盟が設立された際、当時マレーシア首相であったサッカー好きのラーマン氏の尽力があった。AFCの本部はマレーシアの クアラルンプール にある。そして今のAFC 事務総長ピーター = ペラパン氏はマレーシア人だ。五輪予選や ワールドカップ予選等の試合をここで集中開催される事もあった。 ムルデカ大会での日本のハイライトは1976年、マレーシア代表に次いで2位に輝いた事だ。その後1979年大会は韓国、マレーシアに次いで3位になったことがあった。90年の大会にはエントリーをしたが当時はイラク軍がクウェートに侵攻し湾岸戦争が勃発。安全の為海外渡航が自粛される中で、同大会の選手団の派遣も見送られてしまった。それ以降、この大会にはエントリーもせず、そして大会自身とうとう霧散してしまった。ムルデカ大会が盛況な70年代は当に マレーシアサッカーの最盛期であった。その時代、マレーシアの最高傑作と言われたソー・チン・アンは今でもASEAN 諸国史上最高の選手と言う人も。残念ながら2年ほど前に食道癌でこの世を去ってしまった。他にも後にオーストラリアに渡った ジェームス=ウォン 、アブドーラ=アリ と言った名前を聞くだけで頭を抱える韓国人サッカーファンは少なくないはずだ。日本がメキシコ五輪で銅メダルの金字塔を打立てた次のミュンヘン五輪予選は韓国での集中開催であった。誰もが日韓対決で雌雄を決するものと思われていたのに、マレーシアが日本を 3-0 そして韓国を アウドーラ=アリ の一発で沈め五輪出場権を勝ち取ってしまった。これには韓国関係者も言葉が出なかったらしい。そしてその8年後1980年3月にクアラルンプールで集中開催されたモスクワ五輪予選。下馬評では圧倒的に韓国優位であった。1977年ワールドカップ予選ではイランに次いで2位。1978年のアジア大会で優勝(北朝鮮と引分で共に優勝)1979年のムルデカ大会はBチームを派遣しながら優勝。その他アジア諸国との試合では殆ど敗れたことは無かったので(1979年東京での日韓定期戦では日本が 2-1 で勝利。これ以来東京国立競技場では日本は韓国に勝っていない)選手も車範根がブンデスリーガに去ったが、李栄武、趙広来、許丁茂、朴成華、朴商寅らタレントが揃い、誰もが韓国の東京五輪以来の五輪出場を予想した。日本の専門雑誌でも韓国にどれだけ食い下がれるか?と予想されていた。この大会には他にもフィリピン、インドネシア、ブルネイを加えて6カ国総当りで上位2カ国が決勝戦を行い、勝者がモスクワ五輪への切符を手にすることが出来た。大会プログラムは開催国の有利な様に組まれるものだが日本の初戦は何と韓国戦であった。続く

テレマカシ マレーシア

2006-01-17 | Football Asia
最低気温が氷点下まで下がった関東地方を後にして空路をシンガポールに。そしてそのままBugis Bus Terminal に直行し約1時間。国境を越えてマレーシアのJohour に入った。シンガポールから続く雨は止むどころか更に勢いを増し、Johour でタクシーが捕まるまで雨に濡れる事を余儀なくされた。マレーシアではJUSCOが既に10店舗以上あり、この Johour 地区にも3店舗ある。その中の最大店舗がこの1月にオープンし、連日訪問客で賑わっている。しかし現地に赴任している JUSCO の方に尋ねると“2週間もすれば今の半分くらいになるでしょう。いつもそうですから。”と冷静だ。むしろ1月12日の Grand Open に訪問する本社の御偉方の方が気懸かりだったそうだ。 Johour と言えば記憶に新しい方も多いと思う。1997年11月、ここで行われたワールドカップ予選でイランを岡野の劇的な Golden Goal で降し、日本サッカー界の悲願が達成された思い出の地だ。その年の夏にはFIFA ワールドユース大会が行われ当地で日本は準々決勝でナイジェリアに敗れた。 ここマレーシアでは人口約2,500万人、そのうちマレー系が65.5% を占め、華僑系25.6% そしてインド系7.5% そしてその他の民族が 1.3% という多民族国家だ。東南アジアで最初にムスリムに改宗したのはマラッカの王で、人口の多数を占めるマレー系は敬虔なイスラム教徒が殆どだ。JUSCO で働くマレー系の女性もみな頭からヌカーブで包んでいる。そして訪問客の殆どは華僑系だ。大きな ショッピングカート に食料品等を入れている。JUSCO や Carrefour といった外資系のスーパーは地元の人から見れば値段が高く、ここで Daily Foods 等を買えるのは殆どが中流階級以上の華僑系だ。中華系の客で賑わう売り場では品出し補充をしているインド系の店員達がいる。インド系の多くは英国の植民地時代、大農場の労働者として同じ英国領であったインドから連れて来られた末裔だ。当地ではマレー系、華僑系よりもずっと生活レベルが低い。ここマレーシアではフィールドホッケーがサッカーと並んで人気のスポーツだ。一時期はインド、パキスタンに次いで3番手の地位を守り続けオリンピックへの出場実績も。最近は韓国が台頭してきたので今後の巻き返しが課題らしいが“人工芝での練習場さえ増えれば”とは地元のファン達。その原動力になっているのがインド系の選手達だ。国内リーグの報道も地元新聞で紙面を大きく割かれている。インドからやって来た“外国人選手”がそのリーグを盛り上げており、代表入りを目指して帰化する選手達も。2000年に大阪で開催されたシドニー五輪最終予選で日本はマレーシアに 1-2 で敗れたが、そのマレーシア代表にターバンを巻いたインド系の選手が何人かいた。だが一番の人気スポーツと言えばサッカーだ。しかし今はここでも他の東南アジア諸国同様話題にあがるのは欧州のサッカーで、一番人気は Premiership だ。街には LivepoolやChealsea のレプリカシャツを着た人達が。中田、稲本そして中村俊輔の事を良く知る地元のサッカーファンも。しかしマレーシアサッカーに就いて話題を向けると殆どは“どうしてそんな話を?”と言われてうのはまだましな方。そんなの全く興味なしと言われる事が多い。だが若い世代は知らないのかな?マレーシアこそかつて韓国、日本が勝てない時期があり堂々五輪にも出場した事を。続く