Mr.コンティのRising JAPAN

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マーライオンの国から ロス五輪予選その2

2006-01-30 | Football Asia
タイ戦の次はマレーシア戦だった。この試合に勝てば、そして私はまだチャンスはあると期待していた。しかし、この試合も 1-2 で落としてしまう。試合の中継があったかどうかは覚えてない。試合結果は大学の図書館の新聞で知った。試合の様子の一部は第三戦のイラク戦のハーフタイム中にハイライトで紹介された。だがその第三戦のイラク戦、次のカタール戦に勝てばわずかだが望みは繋げた。開始2分に先制点を許すも、34分に原のヘッドで同点。しかし43分にはゴール前の直接FKから日本DFの壁が動いた間を抜かれて追加点を奪われ、後半は何度かゴール前に迫ったが挽回できずに3連敗が決り完全に五輪への道は絶たれてしまった。第二戦のマレーシア戦も2失点を喫した後に後半は攻めまくったが84分原のゴールで1点を還すのみに終わった。最終戦カタール戦も 1-2 で破れ4連敗と信じられない結果で日程を終えた。
4年間掛けてこの予選大会に臨んだはずなのにこの結果は何故だったのだろう? まず、最初にあげられるのはシンガポールの蒸し暑さだっただろう。私自身もこの時期に何度か当地を訪れた事があるがタイ、マレーシア、インドネシアと言った地域の4月の気候は地獄の様な高温多湿だ。1983年末から1984年に掛けての日本は異例の寒さで3月になっても私のいた京都は雪が残っていた。FW金田が11年後のインタビューで当時を振り返り“シンガポールの暑さにやられた”と悔しそうに振り返った。対戦相手国はタイ、マレーシアと言った“地元”とイラク、カタールの中東勢と“暑い”国々だ。タイ戦ではボール支配率はそう劣ってはいなかったが要所ではタイ選手の動き、運動量が優った様であった。この暑さは相当堪えたと思う。選手たちの白いユニフォームが汗でびしょぬれになっていたのがブラウン管を通じてもわかった。そして後で当時の森代表監督が語っていたが、コリンチャンズ戦から予選大会に備えて碓井、前田といったベテランを加えそれまで加藤久や金田、木村を中心に纏まっていたチームが混乱を招いてしまったらしい。ベテランの加入だけではない。前年に当時攻撃の軸であった尾崎加寿男がブンデスリーガの Almania Bielefeld に移籍してしまった事も“想定外”であった。1979年日本で開催された FIFA U-20 の日本代表主将で大会直後の New York Cosmos 戦で代表に抜擢されるなど期待の選手であった。モスクワ五輪予選には選ばれなかったが、1982年のアジア大会には名を連ね、代表では重要なポジションを担っていたその穴は大きかった。その尾崎が抜けた後、ニュージーランド、台湾と組んだ1次予選ではニュージーランドに連敗し、台湾にはホームで勝つもアウェーで引分け上位2カ国が2次予選に進出出来たのだが、危うく1次予選落ちするところであった。 それからピヤポンの存在を知らなかった事に象徴されるスカウティングの問題と大会直前になって一気にそれまで積み上げていたものが崩壊してしまった様に見えた。当時の代表はGKがベテラン田口そして坪田、DFには加藤久、安木、都並、の読売勢、MFには木村、金田、水沼の日産勢、FWは原、柱谷そして岡田らがいたが、第二戦のマレーシア戦以降は各試合得点の挙げたのは原だけであったが、それは原の高い打点だけからしか結果を出せなかったと言えよう。相手に相当研究されていたのではと思う。 だが暑さの問題とベテランを入れた事などの原因が半分以上は占めたと考えられる。事実、GKを松井、森下に替え、DFに石神、勝矢をそして西村、宮内といった守備的MFをロス五輪予選のメンバーベースに加え、引き続き指揮を取ることになった森監督の元、この“森ファミリー”は翌年のメキシコワールドカップ予選突破まであと1歩と迫った。先の2点さえ克服しておれば、結果はもう少しよかったかも知れない。今は五輪予選、ワールドカップ予選ではこの様な失敗はないだろう。それだけサッカーを取り巻く環境が飛躍的に改善されたと言うことだろう。シンガポールに来る度にこの悪夢が思い出されるが、今はもう思い出に替わっている。5ヵ月、わが代表がベストな状態でワールドカップに臨める事を願って止まない。