10月3日、あるサンガサポーターの方が開設するブログで知った、“柱谷監督解任”の報。 第25節、地元西京極で開催された浦和レッズとの試合で 1-5 と惨敗し梅本球団社長、稲盛名誉会長ら首脳陣はとうとうこういう決断を下した。伏線はあった。8月27日の横浜Fマリノス戦、岡田前監督辞任の後を受けて監督デビューとなった水沼新監督との“同期対決”を 0-4 と完敗した後にとうとう稲盛名誉会長が“重症だ、こりゃ.…”とのコメントが飛び出し、梅本社長も“長い間任すといっても、状況は変化するもの”と解任を否定しないコメントを。 翌日28日のスポーツニッポン紙には珍しくこの試合が1面を飾り“同期柱谷監督解任決定的”の見出しも躍った。第17節のガンバ大阪戦からその横浜戦まで4試合連続4失点。翌清水戦から失点は減ったが24節の千葉戦まで4試合で1得点と今度は得点が取れなくなってしまった。そして9月30日の浦和戦の5失点惨敗。よく考えればこの1ヶ月間首脳陣はよく“我慢”をしたとも言える。 同じ昇格組みの甲府が前節は優勝争いをするガンバから白星を挙げるなど活躍するなか、“J2覇者”の京都が何故出来ないのだろう?と言う思いを持つサンガサポーターも多い事だろう。
私が柱谷前監督の存在を知ったのはもう28年も前になる高校時代だった。当時京都高校サッカー界では最強だった京都商業のエースとして彼は君臨していた。柱谷氏は私の2学年上、サッカー部の友人に“京商の2つ上にものすごい選手がいる。”と教えてもらったのが彼であった。だが当時の全国高校サッカー選手権大会では京都府と滋賀県で代表枠が1校のみ割り当てられ私が高校に進学した頃は滋賀県勢の方が強く、柱谷氏が高校3年生の時は滋賀県の守山高校が全国大会へ出場を果たした。その前年度も滋賀県の水口高校が全国出場を果たし、昭和51年度に京都商業が京滋地区代表として全国出場を果たした。当時の柱谷は1年生で、自身全国出場されたかは知らない。その一方で同期の水沼貴史横浜監督は、同年度、1年生ながら浦和南高校の全国優勝メンバーに名を連ね、以降3年連続全国出場を果たしている。この水沼、柱谷の両者は昭和50年度の全国中学選手権大会で直接対決をしたらしい。準々決勝で埼玉県代表の本太中学がPK戦の末に京都府代表の双ヶ丘中学をとの事だが、本太中には水沼がおり、双ヶ丘中には柱谷の両選手がそれぞれ中心選手として活躍したらしい。そして本太中は優勝した。
私が高校2年生の時、日本でFIFA U-20 大会が開催された。当時はワールドユースサッカー大会とも言われ、大会ポスターに本宮ひろし氏の劇画が使われたりした。当時未だ2回目のこの大会は、初回はチュニジアで、そして翌第3回はオーストラリアで開催され、サッカー発展途上国のサッカー振興の目的もあり資金面のサポートをコカコーラが担っていた。従ってコカコーラ杯とも別称された。“メキシゴ輪”を知らない世代にとって初めて日本サッカーが世界の舞台に立つのを見た大会で、アルゼンチンのマラドーナ、ラモン=ディアスそしてパラグアイのロメロが話題となった。そのユース代表強化試合に柱谷、水沼の名前がよく上がっており、彼らは最終メンバーにも残り栄えあるこの大会に出場した。そして国立競技場で行われた初戦のスペイン戦には2人とも揃ってスタメン。柱谷は途中でベンチに下がったが水沼はフル出場。しかし試合はスペインに0-1と破れる。続くアルジェリア戦も0-0の引分。そして1次リーグの最後のメキシコ戦を迎えた。既に両チーム共に決勝トーナメント進出の可能性は消えていたが、国立競技場(日本の試合は全て国立で開催)には満員の観客が詰め掛けていた。クライマックスは後半16分、左からのセンタリングをゴール前に詰めていた柱谷がスルー、そこに水沼が走り込んでプッシュし日本が大会初得点を挙げた。今からこの得点が2人の間を駆け抜けたボールから生まれた事が今までのこの2人と言うよりも日本サッカーの流れを暗示していたのかもしれない。 この大会直後にユース代表の主将だった尾崎和寿夫はニューヨークコスモスとの試合に代表抜擢され、1982年のアジア大会では攻撃の中心選手となる。一方の柱谷も1981年、ポーランド戦でAマッチデビューを果たす、そして水沼貴史のAマッチデビューは1984年シンガポールで開催されたロス五輪予選まで待たねばならなかった。それは恐らく2人のプレーススタイルに違いが有ったからだろう。水沼は得点も取れるがゲームメークも出来る選手。そして柱谷は当時の典型的なストライカータイプ。永井良和、碓井博行といった70年代を風靡したストライカーが丁度世代交代の時期であった一方、木村和司、金田喜稔といった“攻撃的MF”型が既に代表に定着していたという事にも寄与するだろう。従って惨敗したロス五輪予選後に金田が代表引退を決めると、そこに水沼にお鉢が廻って来る。その効果は直ぐに現れ1984年10月ソウルで行われた日韓定期戦では決勝ゴールを水沼が決め日本が韓国で初めて韓国に勝った快挙に貢献した。そしてメキシコワールドカップ予選には水沼は木村和司と共にMFを形成し、柱谷は長身の原博美と前線を組むことになる。しかし、最後は韓国の軍門に降りワールドカップ出場はならなかった。そして柱谷も東京で行われた韓国戦には累積警告で出場できず、続くソウルでの最終戦では森監督は水沼よりもテクニックの高いジョージ与那城を起用した。 このワールドカップ予選後から柱谷は代表に呼ばれなくなる。森氏の後を受けた石井監督はDF重視の布陣を敷き、攻撃は原博美、松浦敏夫の”ツィンタワー“とブンデスリーガから戻ったベテラン奥寺の左サイドからのひらめきのみに掛かっていた。木村和司は守備に難点があるとして声がかからず、そして水沼も呼ばれなかった。しかし、1987年6月に行われたシンガポールとのソウル五輪予選の試合で召集された水沼は値千金の決勝ゴールを決め、以降攻撃の中心選手としてソウル五輪予選、そしてイタリアワールドカップ予選を戦うことになる。しかし、アジアの壁は厚く、世界の舞台は遠かった。1990年代に入るとブラジルから KAZU こと三浦知良が帰国し1993年のJリーグ発足へと流れる。降って沸いたようなJリーグブームの中にも柱谷、水沼は”ベテラン選手“としてプレーをし、特に柱谷はJ発足後は日産を離れ浦和レッズで開幕を迎え、後に柏レイソルにも在籍し、水沼と並んで”プロリーグの“得点シーンを何度か見せてくれた。
17年前ユース代表で我々に初めて世界との戦いを見せてくれたユース代表であった二人が今やチームを指揮する立場に。それだけに柱谷氏の監督解任の報は彼と同年代の人々が歩んだ道程を思い出させた。
そして今日、10月6日、西京極に大宮を迎えた。関東地方は朝から大雨だ、京都はどうだったのだろう…..
私が柱谷前監督の存在を知ったのはもう28年も前になる高校時代だった。当時京都高校サッカー界では最強だった京都商業のエースとして彼は君臨していた。柱谷氏は私の2学年上、サッカー部の友人に“京商の2つ上にものすごい選手がいる。”と教えてもらったのが彼であった。だが当時の全国高校サッカー選手権大会では京都府と滋賀県で代表枠が1校のみ割り当てられ私が高校に進学した頃は滋賀県勢の方が強く、柱谷氏が高校3年生の時は滋賀県の守山高校が全国大会へ出場を果たした。その前年度も滋賀県の水口高校が全国出場を果たし、昭和51年度に京都商業が京滋地区代表として全国出場を果たした。当時の柱谷は1年生で、自身全国出場されたかは知らない。その一方で同期の水沼貴史横浜監督は、同年度、1年生ながら浦和南高校の全国優勝メンバーに名を連ね、以降3年連続全国出場を果たしている。この水沼、柱谷の両者は昭和50年度の全国中学選手権大会で直接対決をしたらしい。準々決勝で埼玉県代表の本太中学がPK戦の末に京都府代表の双ヶ丘中学をとの事だが、本太中には水沼がおり、双ヶ丘中には柱谷の両選手がそれぞれ中心選手として活躍したらしい。そして本太中は優勝した。
私が高校2年生の時、日本でFIFA U-20 大会が開催された。当時はワールドユースサッカー大会とも言われ、大会ポスターに本宮ひろし氏の劇画が使われたりした。当時未だ2回目のこの大会は、初回はチュニジアで、そして翌第3回はオーストラリアで開催され、サッカー発展途上国のサッカー振興の目的もあり資金面のサポートをコカコーラが担っていた。従ってコカコーラ杯とも別称された。“メキシゴ輪”を知らない世代にとって初めて日本サッカーが世界の舞台に立つのを見た大会で、アルゼンチンのマラドーナ、ラモン=ディアスそしてパラグアイのロメロが話題となった。そのユース代表強化試合に柱谷、水沼の名前がよく上がっており、彼らは最終メンバーにも残り栄えあるこの大会に出場した。そして国立競技場で行われた初戦のスペイン戦には2人とも揃ってスタメン。柱谷は途中でベンチに下がったが水沼はフル出場。しかし試合はスペインに0-1と破れる。続くアルジェリア戦も0-0の引分。そして1次リーグの最後のメキシコ戦を迎えた。既に両チーム共に決勝トーナメント進出の可能性は消えていたが、国立競技場(日本の試合は全て国立で開催)には満員の観客が詰め掛けていた。クライマックスは後半16分、左からのセンタリングをゴール前に詰めていた柱谷がスルー、そこに水沼が走り込んでプッシュし日本が大会初得点を挙げた。今からこの得点が2人の間を駆け抜けたボールから生まれた事が今までのこの2人と言うよりも日本サッカーの流れを暗示していたのかもしれない。 この大会直後にユース代表の主将だった尾崎和寿夫はニューヨークコスモスとの試合に代表抜擢され、1982年のアジア大会では攻撃の中心選手となる。一方の柱谷も1981年、ポーランド戦でAマッチデビューを果たす、そして水沼貴史のAマッチデビューは1984年シンガポールで開催されたロス五輪予選まで待たねばならなかった。それは恐らく2人のプレーススタイルに違いが有ったからだろう。水沼は得点も取れるがゲームメークも出来る選手。そして柱谷は当時の典型的なストライカータイプ。永井良和、碓井博行といった70年代を風靡したストライカーが丁度世代交代の時期であった一方、木村和司、金田喜稔といった“攻撃的MF”型が既に代表に定着していたという事にも寄与するだろう。従って惨敗したロス五輪予選後に金田が代表引退を決めると、そこに水沼にお鉢が廻って来る。その効果は直ぐに現れ1984年10月ソウルで行われた日韓定期戦では決勝ゴールを水沼が決め日本が韓国で初めて韓国に勝った快挙に貢献した。そしてメキシコワールドカップ予選には水沼は木村和司と共にMFを形成し、柱谷は長身の原博美と前線を組むことになる。しかし、最後は韓国の軍門に降りワールドカップ出場はならなかった。そして柱谷も東京で行われた韓国戦には累積警告で出場できず、続くソウルでの最終戦では森監督は水沼よりもテクニックの高いジョージ与那城を起用した。 このワールドカップ予選後から柱谷は代表に呼ばれなくなる。森氏の後を受けた石井監督はDF重視の布陣を敷き、攻撃は原博美、松浦敏夫の”ツィンタワー“とブンデスリーガから戻ったベテラン奥寺の左サイドからのひらめきのみに掛かっていた。木村和司は守備に難点があるとして声がかからず、そして水沼も呼ばれなかった。しかし、1987年6月に行われたシンガポールとのソウル五輪予選の試合で召集された水沼は値千金の決勝ゴールを決め、以降攻撃の中心選手としてソウル五輪予選、そしてイタリアワールドカップ予選を戦うことになる。しかし、アジアの壁は厚く、世界の舞台は遠かった。1990年代に入るとブラジルから KAZU こと三浦知良が帰国し1993年のJリーグ発足へと流れる。降って沸いたようなJリーグブームの中にも柱谷、水沼は”ベテラン選手“としてプレーをし、特に柱谷はJ発足後は日産を離れ浦和レッズで開幕を迎え、後に柏レイソルにも在籍し、水沼と並んで”プロリーグの“得点シーンを何度か見せてくれた。
17年前ユース代表で我々に初めて世界との戦いを見せてくれたユース代表であった二人が今やチームを指揮する立場に。それだけに柱谷氏の監督解任の報は彼と同年代の人々が歩んだ道程を思い出させた。
そして今日、10月6日、西京極に大宮を迎えた。関東地方は朝から大雨だ、京都はどうだったのだろう…..
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