Mr.コンティのRising JAPAN

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東アジア選手権シリーズ 韓国側から見たベストゲーム??1

2005-08-07 | Football Asia
① 魔の3分間 国立競技場4連敗
1997年9月28日 東京国立競技場 フランスワールド杯予選 日本1-2 韓国
物議を醸した2次予選は結局前回のアジア地区代表サウジアラビアと韓国をシードに10カ国を2つのグループに分けホーム&アウェーの総当たり戦で決める事になった。日本はUAE,ウズベキスタン、カザフスタンと共に韓国シードのB組に振り分けられた。日本が1勝1分、地元で2連戦した韓国は2連勝で前半の天王山、日本戦に東京に乗り込んだ。試合は一進一退の膠着状態から後半にはいると帰化申請が許可されたはかりの呂比須のボールキープから徐々に優勢に。そして67分高正云からボールを奪った山口がそのままループでGK金秉址の頭上を破り遂に先制。その後も攻勢が続いたが73分に呂比須が秋田と交代したことにより、前線からのプレスが薄くなり84分に徐正源、87李成敏に連続ゴールを割られて一気に逆転されてしまった。これで国立競技場での日韓戦は1979年の定期戦で勝利して以来6戦して勝ち星無し、それは現在8試合勝ち無しと今でも続いている。この試合で守備的に戦おうとした韓国、車範根監督のゲームプランは山口の先制点で狂ったはずだが、呂比須を下げた後に同点にされた為FWの西澤を投入を準備したり(結局逆転されてからの投入となった)加茂監督の選手交代が批判の的となった。しかし私はそれよりも中田に柳想鉄、カズに崔英一とタフな密着マークに代表される韓国の力強さが日本のテクニックを上回った結果と考える。この試合の後、韓国は順調に勝ち点を重ね2試合を残して予選突破を決め、一方の日本は3試合続けて引分ける等予選突破が絶望視されたが、第三代表決定戦でイランを破り悲願のワールド杯初出場を果た。

② 対日戦連敗を止める 
1985年10月26日 東京国立競技場 メキシコワールド杯予選 日本1-2 韓国
国立競技場が初めて満員になったと言うよりも日本の応援数が始めて上回った。前年シンガポールで開催されたロス五輪予選で惨敗し再出発となった森監督率いる日本代表。そのきっかけは1984年ソウルで行われた日韓定期戦で勝利を挙げた事であった。ソウルでの初勝利そして対韓国戦初の連勝(引分けを一つ挟んだが)であった。そしてこの韓国を破ればれたワールド杯への切符を手に入れられる。韓国は苦手であったが、このチームなら何とかしてくれるのではと当時は少なかったサッカーファンは期待していた。試合は日本の攻勢で進む、しかし30分に逆襲から鄭龍煥のゴールで先制を許すと41分には波状攻撃から李泰昊に2点目を許すと、観客からはあぁやっぱりダメかと一斉に潮が引く様な溜息が。しかしその直後のキックオフから戸塚がドリブルでゴール前に持ち込むみ倒されてFKを得る。ゴール前25mキッカーは木村和司。その伝家の宝刀直接FKがGK趙炳得を破り直ぐに1点を返し望みを繋ぐ。後半も日本の攻勢が続くが韓国は得点を許さずそのままタイムアップ。翌週ソウルでの第二戦も韓国は許丁茂のゴールで 1-0 と日本を破り32年振りのワールド杯出場を決めた。試合後は全斗煥大統領が貴賓席まで金正男監督を呼び寄せ手を取り大きく振り上げ、観衆、国民の喜びを代弁した。日本も健闘し、互角の戦いではあったが、その違いは大きくプロ化の提唱が上がったがそれが実現するのに更に8年の歳月を要した。

③ 終了直前 PK で4試合振りの勝利
1994年10月11日 広島 アジア大会 準々決勝 日本2-3 韓国
ロスタイム、井原と競り合った黄善洪が倒れる。UAE人アルムーラ主審は躊躇いも無くペナルティスポットを指す。カズ以下猛然と主審に詰め寄る日本イレブン。しかし、判定は変わらずそのPKを落ち着いて黄善洪が決め、激戦は韓国が 3-2でものにした。試合は30分にカズが先制したが韓国は若手中心でDF陣の不安定さを突いて51分に柳想鉄、77分に黄善洪が決めて逆転。敗色濃厚の日本は86分に井原が起死回生のミドルを決めて同点とした。しかし、前述のPKで韓国が日本を降した。井原の黄善洪へのチャージの判定は後にも議論を呼んだが韓国DF陣の前園の高速ドリブルを止めるのに何度も使った後方タックルに反則を取らなかった主審の方に不満が募った。前年のワールド杯予選から日韓共に監督が替わり韓国史上初の外国人ブイショベツ監督は“とにかく日本に勝つのが目標であった”とコメントした様にもしこの試合に敗れれば対日本戦4試合勝星無しというワースト記録を作るところであった。アメリカワールド杯が3ヶ月前に終わり日韓共に次大会に向けての大会であったが、日本はこの試合に出場した選手の中で4年後のフランスのピッチに立ったのは井原だけであった。

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