Mr.コンティのRising JAPAN

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Sydney FC 到着 これからの日豪親善は..

2007-05-19 | Aussie & Kiwi
Branko Culina Sydney FC 監督は水曜日の浦和REDS戦を控えた選手達にプレシャーに立ち向かえる事を証明する為にGauntlet ( 中世の騎士がつけていた籠手)を投げつけた。と言う行であるコラムが今朝の地元紙でのスポーツ欄で始まった。
 
“何はともあれ23日のゲームは信じられない経験になる。それはかつて大舞台を経験している Bimbi ( Steve Corica ) やZdrilla( David Zdrilic )にしても同じ事だろう。我々は皆今季のACLが始まる前はベスト8に残る事を望んでいた。そしてもしそれ以上に進めるのならこれほどエキサイティングな事は無い。そして今 Boys 達は Mens になった。私は誰が大舞台に強い選手で来シーズンのタフな戦いに誰が頼りになるかを見極めたい。それは選手達にも私にも重要なテストになる我々は莫大な質量の経験を学べるであろう。“ とは監督のコメントだ。怪我が心配されている Mark Rudan, Ufuk Talay,そしてMFの Mark Milliganは18日の出発直前練習を休んだ。そして Noel Spencer と Luke Glavas の緊急スタメンが急浮上してきた。この二人の契約は5月末までとなっており、当初彼らは浦和遠征には帯同しない事になっていたのだが。



また同様に Chief Exective の George Perry も帯同する事となった。彼はアジアともっと密接にと考えている一人だ。“私の帯同の目的は何かを起こす事だ。アジア地域への展開は Sydney FC そして Australia のサッカーの興味を引き付ける事が出来る。そして我々はそれに乗じたい。滞在中に我がクラブへの投資に興味がある人達とアポイントを取るつもりだ。そして浦和REDSのチーム関係者と会って話を聴きクラブ経営に就いてを学ぶつもりだ。そして今後、浦和と Sydney FC との親善試合の可能性も話す。我々は世界中のUrawa Red Diamonds の様なクラブと姉妹関係を結びたい。”と話した。

1971年3月日本で3カ国対抗戦が催され、私の尊敬する Johnny=Warren の所属する St.George Budapest が招待され、同じく招待されたデンマークのFrem, そして日本代表とB代表と総当たりでリーグ戦を行い覇を競った。 初戦、釜本、ネルソン吉村らを擁する日本代表相手に 0-0 と引き分けると続く Frem 戦を4-1 で撃破し、最終戦の日本B代表をなんと 6-2 と粉砕し、大会の優勝をさらってしまった。これはオーストラリア史上、クラブチームが初めて海外の大会のタイトルを勝ち取った輝かしい功績であった。大会終了後は姉妹提携をしていた東洋工業をも破り、その次の日立製作所も降して日本遠征を無敗で凱旋帰国を果たしたばかりか、この遠征でチーム力の強化が進みオーストラリア代表チームにも次々と選手が選出される様になり、後の西ドイツワールトカップ進出の礎となったらしい。この1974年のワールトカップには St.George Budapest から Warren を始め5人の選手がオーストラリア代表に選ばれている。この3カ国対抗戦で日本代表はB代表とはオウンゴールでようやく勝利を挙げた後の最終戦の Fern 戦を1-2 と完敗。当時3月と言えば日本リーグはシーズンオフの真っ最中。とは言え栄光のメキシコ五輪が過ぎ、代表強化の全く進まない長い長い暗黒の時代であった。

その一方で Culina 監督は希望していた豊田スタジアムでの名古屋グランパス8対浦和REDSの試合観戦が移動の問題で不可能になったので首脳陣の揃える最近の試合のDVDで分析するしかない、との事。おかしいなぁ?成田空港にはQF21は朝6時に着くからそこから日本の誇る鉄道網、成田Express と新幹線を乗り継げば充分に間に合うのに。本日午後2時からテレビ中継あるよ。そして良いアドヴァイスを。浦和駅の近くにある Red Voltage に行けばここ数試合のハイライトシーンが見る事が出来る。そして我が家に来れば息子がこの1か月のREDS のパフォーマンスを私の100倍は詳しく教えてくれる。勿論通訳は私が引き受ける。でもサッカーは世界の言葉。言語の違いは障害にならないか…….

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