Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

Wallabies リベンジならず

2007-10-08 | Weblog
現地時間の10月6日に行われた ラグビーワールドカップ の準決勝戦では世界ランク1位の New Zealnd そしれオーストラリアが相次いで敗れた。誰がこんな結末を予想できただろう?

England 12-10 Australia

78分 Stirling Mortrock がPGをセットする距離は48m、左タッチラインから5m中に入った位置だ。このPGが決まれば Wallabies は逆転だ。彼が蹴りあげた楕円形のボールはゆっくりと弧を描いてゴールに飛んで行く。
大会が始まりここオーストラリアでは Wallabies のメインスポンサーでもある Qantas 航空のCFを何百回もテレビで見たシーンを思い出す。PGを蹴った弾道が右にカーブを描く様に蹴った選手、観客席のサポーター、そしてテレビで見ている人たちが皆“ボール良右に曲がれ”とばかりに首を右に傾け、最後は Qantas の航空機が機体を右に傾ける。そしてボールはポールとポールの間を通過し見事にゴールが決まると言うシーンだが、恐らく多くの Aussie 達はこのシーンの様に首を傾けたのではないか…….. そして3分前にJonny Willkinson がPGを外した事を思い出した England サポーター達は首を左に傾けたか……
ボールはポールのわずか右側を通過し、England サポーター達の大歓声が上がった。それでも時間はまだ数分残っていたが Wallabies は追い付く事が出来なかった。
4年前のシドニーでは1つのドロップゴールが Aussie 達を悲しみの底に突き落とした。そしてシドニー時間の10月7日午前1時。今度は復活してきた Jonny Wilkinson の4つのプレースキックが再び Wallabies の野望を打ち砕いた。そして準決勝にはWallabies ではなく England が残る事に。そして Wallabies の George Gregan はテストマッチ139試合出場で膝の怪我でこの試合に出場出来なかった Stephan Larkin は102試合出場で Wallabies のキャリアーを終える事になった。
試合は開始7分に Mortrock のPGゴールで Wallabies が先制する。その2分前には PG を失敗していた Mortrock が今度は決めた。そして下馬評では優位だった Wallabies が先制した事によってさらに安堵をおぼえた Aussie 達は多かっただろう。14分にはこの日3本目のPGを Mortrock が決められない一方で、23分、26分連続して Willkinson が PG を決めてEngland が 6-3 と逆転をするが、まだ Aussie 達は余裕があっただろう。29分に Willkinson がPGをはずし、33分には期待の Winger, Lote Tuqiri がトライを挙げ、更に Mortrock がConversion Goal を決め、39分に Willkinson がPGを外し 10-6 で前半を終えた時、後半の Wallabies の猛攻そして勝利を期待した Aussie 達はかなりいたと思う。
しかし、歓声を上げたのはEngland サポーター達ばかりであった。50分には Willkinson のPGで10-9 と一点差に迫ると 59 分には Willkinson がこの日4本目のPGを決め遂に逆転をしてしまう。このPGは Wallabies ボールのスクラムから最後は England FW陣のプレッシャーからオフサイドの反則を取られ与えたものであったがこの試合の England のFW陣のプレスが試合の明暗を分けた一つの実例であろう。 Wallabies は 10-12 とリードされたがそれでも時間は20分以上残っていた。充分にチャンスはあると思われた。しかし England もタフだ。本当に南アフリカに 0-36 と破れたチームなのだろうか?確かにこの日は Willkinson ら6人の選手が南アフリカ戦には出ていないが。それだけ Willkinson は偉大な選手ということなのだろう。
オーストラリアの Guy Sherhardson と England の Andrew SheridanがそしてWallabies のMatt Duninng と England のMartin Corry がオフ・ザ・ボールになっても掴みあいをする。 Wallabies に焦りが出てきたのか?それとも England のプレッシャーが強いのか? Wallabies はボールが手に付かない、そしう England のターンオーヴァーが繰り返される。時は刻一刻と過ぎる 62分には Berrick Barnes がドロップゴールを失敗した後、交替選手を投入し現状打開をはかる。75分には Willkinson がPGを外してくれた Wallabies にはチャンスが残っているとまだ多くの人が思っていたはずだった……..
ターンオーバーは Wallabies の5に対して England は9。 Territory は Wallabie 55% に対して England は45% しかしボール支配率は Wallabies が48% に対して England は 52% 。 Wallabies の方が相手陣内にいる時間が長くてもそれがマイボールでは無かった時間も長かったと言う事かも知れない。
この試合の殊勲者でもある Wilkinson のプレースキックをする前の独特のあのポーズ。Aussie 達は悪夢の象徴として記憶に残り、England のラグビー少年達の間ではしばしはやりのポーズとなり、公園などで繰り広げられる草ラグビーで多くの子供たちがこのポーズをとるであろう……..
あぁ今もテレビでカンタス航空の宣伝が……

Flying Fiji Send Wales Home

2007-10-08 | Weblog
9月29日ナントのStade de la Beaujoire で行われた Pool B のグループリーグ最終戦。共にオーストラリアに敗れ、日本、カナダに勝利を収めた2勝1敗同士のウェールズとフィジーが直接対決した。この試合前までの IRB ランキングではウェールズが8位、フィジーが11位。そしてグループリーグでの試合結果を比較すると下記の通りとなる。                         
                               ウェールズ   フィジー    
対オーストラリア戦         20-32          12-55
対日本戦                     72-18          35-31
対カナダ戦                   42-17          29-16

それぞれの試合結果だけを見ると Wallabies 戦で接戦を演じ、日本、カナダを一蹴したウェールズが優位に立てると見られる。しかし直接対決となると解らないのがスポーツと言うものだ。だから非常に興味を持ってこの試合をテレビ観戦する事に、いやここオーストラリアにいたからテレビ観戦できたのだ。 試合は開始5分に Stephan Jones のPG でウェールズが3点を先制するも18分にフィジーの Vilimoni Delasau が二人のウェールズ選手をかわして逆転のトライを挙げる。実況アナウンサーも Incredible を連発する素晴らしいトライ。25分には Kele Leawere のトライ、Nick Little の Conversion がきまり 25-3 とフィジーがリードを広げる。しかしウェールズも45分から51分までの間に3連続トライを挙げるなど29-25 と逆点に成功。さすがはかつて5 Nations でグランドスラムを達成した強豪。だがフィジーは再び Nicky Little が連続してPGを決め再逆転。 71分にはウェールズ Gareth Thomas の突破をトライ寸前で Seremaia Bai がストップ。流れはフィジーに傾くかと思われたが73分に Martyn Williams がインターセプトからそのまま走りこんでトライを決め今度はウェールズが 34-31 と再逆転。しかし続く Conversion Kick をStephan Joes がゴールポストに当ててしまった。結果的にこの Conversion Kick が試合の明暗を分けた。5分後の78分には Graham Dewes が左サイドを突破する、そこにタックルが入るが Dewes がサイドラインを割りそうになる前にゴールラインを突破しトライをボールをグラウンディングした様に見えた。しかしトライかどうか、オーストラリア人の Dickinson主審は無線で確認を仰ぐ、なかなか判定がされない。実況アナウンサーも “ Hard Decision “ と言っていたが、結局トライが認められ再々逆転に成功。大喜びのフィジーフィフティーン。そして観客。判官贔屓とも言える Stade de la Beaujoire の観客の殆どはフィジーの応援だ。そして Little がこの日3つめの Conversion Kick を決めて 38-34 と点差を広げた。しかし残り時間はあと2分程度とはいえ、トライを挙げればウェールズは逆転となる。 Jones のキックオフからウェールズの選手達が一斉にフィジー陣内になだれこむ。しかしフィジーも必死の防戦。そして81分31秒、実況アナウンサーが “ Turn Over !! “ と叫ぶ。フィジーがボールを奪い返した瞬間だった。そしてホイッスル。これでフィジーの第1回大会以来5大会ぶりのベスト8進出が決まり、第一回大会で3位になり、ここ2大会連続でベスト8に進出していたウェールズは大会を後にすることとなった。最後の Conversion Kick が本当に勝敗を分けた。

IRBのランクではウェールズは第一グループ。そしてフィジーは第二グループだった。翌日の英国紙には “ どれだけの偉業を求めているのか?恐らくワールドカップ史上最高のゲームで、おそらくラグビーの最高の宴で、最高の攻撃のレベルで、恐らく最大の番狂わせ、そして恐らく、偉大なラグビーの列強国がフィジーの様なマイナーな国と自ら認める様な国が大会に波乱を起こしたと最後に言われる事となるであろう。この敗戦を受けてウェールズの監督Gareth Jenkins 氏は解任された。昨春監督就任以来の20試合でこのワールドカップでの2勝を含めてわずか6勝しかできなかったらしい。今大会はグループリーグを終えて南半球勢がベスト8に5カ国が進出。IRBの老舗8カ国以外のユニフォームは2色以上で1色なのは England をはじめ老舗8カ国のみ。 しかしフィジーは“第二グループ”とはいえ、第一回大会でベスト8に進出し、セブンズでも上位に入る実力国。そのフィジアンマジックを侮った訳ではないのであろうが…..
日本はそのフィジーと死闘を演じ惜敗した。この日のフィジーの戦い方がウェールズ等“第一グループ”への抗い方のヒントが隠されていると考えるのは早計か? このフィジーは決勝トーナメントで南アフリカと対戦する。この試合の結果よりも彼らがどういう戦いをしてどの程度やれるのかが、日本が世界の列強達と戦う参考になるのではと思うのだけど……

ワールドカップ準々決勝 England vs Wallabies テレビ中継は....

2007-10-06 | Weblog
ラグビーワールドカップは準々決勝に入り、これからいよいよ列強故国同士の直接対決が始まる。
残念ながら日本はこの戦いには今大会も加われなかった。昨年サッカーのワールドカップの時も決勝トーナメントに残れなかった日本を含むアジア勢は“まだ世界の戦いに加わる実力が無い。”と欧州のある専門家に言われてしまった。
近年まれに見ぬ順当な結果が続いたサッカーのワールドカップと異なり、ラグビーのワールドカップは乱のグループリーグとも言えた。IRB “老舗”8カ国の中で Ireland と Wales がベスト8に残れず南半球のアルゼンチン、フィジーがベスト8進出。英国勢の中でも Scotland は 6 Nations で 17-37 で敗れた Italy を 18-15 で降し、前大会の覇者 England はグループリーグ最終戦のトンガを 36-20 で破ってそれぞれベスト8進出を決めたが共に楽な戦いでは無かった。
特に England は初戦のアメリカ戦こそ勝利を収めたが続く南アフリカ戦は 0-36 の完封負け。英国紙には開幕戦でフランスを破ったアルゼンチンを引き合いに出し“ England はアルゼンチンを手本にすべきだ。”と書かれる始末。サモアを 44-22 で破り、最終戦のトンガを破ってベスト8を決めたがその試合内容も地元では評価はされてない様だ。
ある英国紙ではもし今大会が次回の様に出場国が16カ国に減らされていればトンガは出場出来なかった国でそう言う相手に互角に近い戦いをされたと書かれている。
開始10分に Pierre Hola に先制の PG を許すと32分に Jonny Wilkinson がドロップゴールを決めるまでリードを許す苦しい試合展開。逆転後はリードを広げ最後は72分にまたも Jonny Wilkinson のドロップゴールが決まり 32-13 とリードを広げたが、60分からノーサイドまでの約20分間は殆どトンガの時間であった。その猛攻を凌いで終了間際の Hale T Pole のトライまで凌いだFW陣はさすがであったが、序盤は攻撃力に乏しくEpi Taione と Sukanaivalu Hufanga には度々攻撃を寸断されJonny Wilkinson やOlly Barkley は何度もタックルのミスを繰り返した。そしてスクラム、ラインアオウトでも後手を踏んでおり、準々決勝のオーストラリア戦には楽観的な要素は全くないとの事。
確かに2003年大会の優勝以来 England は精彩を全く欠いており2006年にはトゥィッケナムでアルゼンチンに 18-25 で敗れた試合を含め史上最悪のテストマッチ7連敗を記録してしまった。
しかし Australia も2005年の TriNations では4戦全敗、そしてこの年は18年振りに Wales に敗れた試合を含めて同じく7連敗を喫した。だがその後の両国の立て直しそして今大会の戦いぶりを見ると、どちらが準決勝に近い位置にいるかは……..
England はAustralia 戦にNick Easter, Matt Steven, Mark Regan の大型FWを並べてスクラムを多用し Wallabies に対抗する。これは2005年のトゥィッケナムの戦いと同じ戦術だ。そしてトンガ戦で16得点をたたき出した Jonny Wilkins のキック。また Olly Barkley そして Andy Farrell の故障は癒えず36歳のベテラン Mike Catt がセンターのポジションでスタメン起用される事に。

一方の Wallabies は新鋭 Winger, Adam Ashley Cooper を起用しオープン攻撃を展開したいところか?
また大会を通して好調を維持している George Gregan, Matt Giteau そして Chris Latham も更なる好調が伝えられている。心配なのは Lote Tuquiri と Drew Mitchell . Mitchell は今大会これまで7トライとトライスコアーランクのトップを行くがこれまで Easy Mistake が多いらしくベンチスタートだ。

これまでの両国の直接対戦成績等は下記の通り。

対戦成績 Australia 20勝 England 13勝 1分

2003年以降の両国の戦績
England 44試合 19勝 25敗 1分   
Australia 49試合 30勝 18敗 1分

延べ起用選手数 
England 84 人 (バックス40人, フォワード44 人)
Australia 64 人 (バックス30人, フォワード34 人)

直接対決
2004年 6月 Brisbane Australia 51 England 15
2004年11月 Twickenham Australia 21 England 19
2005年11月 Twickenham England 26 Australia 16
2006年 6月 Sydney    Australia 34 England 3
2006年 6月 Melbourne   Australia 43 England 18

ワールドカップでの直接対決は下記の通り
1987年 Sydney Australia 19 England 9
1991年 London Australia 12 England 6
1995年 Cape Town England 25 Australia 22
2003年 Sydney England 20 Australia 17

England にとってワールドカップでは対オーストラリア戦2連勝中と言うのが一つの好材料か?
それと試合が開催される港町マルセイユに集結した England サポーター達も彼らの後押しをいくらかするかもしれない。
それにしてもこれからワールドカップが面白くなると言う時に地上波でテレビ中継が無い日本にいなくて良かったと思う。2015年にワールドカップ開催を目標にしているなら選手候補そしてファンの底辺拡大の為にこう言うトップレベルの試合を子供達に見せられる努力を惜しむのは得策じゃないと思うのだけど。

展示会も終わって一息ついて…..

2007-09-28 | Weblog
昨日27日シドニー Darling Harbor で開催された展示会が終わった。さすが大都市シドニーでの見本市は出展者数も入場者数も他の都市と比較して全く違う。第二の都市メルボルンと比較してもその差は目に見えて良く解る。
展示会の楽しみの一つは諸外国から参加する出展社の人達と親しくなる事。毎年、韓国、台湾の人達と展示会期間中、すぐに顔見知りとなり色々と話をする機会がある。我が社は食品加工用の機械メーカーなので自社出展機械で作った製品と他の出展社で作った製品をよく交換する。韓国の出展社からはキムチやブルコギそして韓国海苔をよくもらった。台湾出展社は自国のスナック菓子やちょっとしたつまみもの。そして香港の出展社からはお茶やインスタントラーメン(タイのもあったなぁ。)を分けて貰ったりする。 また地元オーストラリアや隣国ニュージーランドの出展社からはサーモンや肉類を。特に今年はラグビーのワールドカップが開催されているのでワールドカップ談議も。しかし彼らにとって1次リーグはまだまだ関心が低くスコアーを気にする程度。そして特にオーストラリアは9月30日にオージーフットボールのグランドファイナルがメルボルンで開催されるのでそちらの方に関心が向いているみたいだ。

展示会期間中は終日立ちっ放しの上、同じ機械の説明を訪問客に延べ何百回もするので開催時間が終わると本当に疲れてしまう。そして最終日は夜10時まで展示機械の梱包や後片付けなどに時間を取られる。 さすがに昨日、よる11時少し前にホテルに帰って来た時はもう疲れきってすぐにベッドに入った。 この展示会中の救いはラグビーワールドカップの日本の最終戦となったカナダ戦の劇的な同点劇。仕事が終わって着替えて食事に出かけるのだがその時はニュージーランドで入手したジャパンのユニフォームを着て街を闊歩する。ホテルで数人の白人(オージーかな??)がカナダ戦の事で声を掛けてくれた。さすがラグビー大国。

シドニーの街を歩いて思う事は “本当にここはどこなのだろう??” 街中を行くアジア系の特に若者は更に激増している気がしてならない。耳に飛び込んでくる言葉は韓国語や中国語が多い。英語はなかなか……. 一番の繁華街には China Town はともかく、ハングル文字の看板が本当に増えた。 夕飯は結局近所の何軒かある韓国風の定食屋で済ませる事が多かった。 中には日本語の日本食メニューもある定食屋もあり、カツカレーやかつ丼それにうどんも食べられる。味も決して悪くない。ウェイトレス、ウェイターそしてキッチンハンドには日本人のアルバイトもいる。 ただ値段が少し….. とんかつ定食は AS$12.00 ( 1,200円 ) カレーうどんは AS$8.50 ( 850円 ) ラーメンは AS$10.00 ( 1,000円 ) する。日本で1,000 円も出せばかなり高級なラーメンが食べられるが…… 原因は土地の価格高騰からくる家賃の上昇。中心街に定評の高い、人気の回転すし店舗があるのだがそこの家賃は銀座の一等地よりも高いらしい。 これでは日本の価格を持って来てはとても商売にならない。しかしこの1000 円のラーメンに850円のカレーうどん、そして1,200円のとんかつ定食のお店が実によく繁盛しているのだ。 展示会の最終日、後片付けを終えて着替えて夕飯をと思って外に出たのがもう午後11時半。この1,200 円のとんかつ定食のあるハングル文字の看板のかかった定食屋はまだやっていたのでそこに入った。このシドニー滞在中2回目の訪問だ。 周りは殆ど韓国人の若者達。恋人同士、友達同士そして数人の仲間連れも。一人で来ているのは私一人だった。 こういうのを完全アウェーと言うのか?? ちょっとちがうだろうな…..

すると奥から店のご主人らしき人が出てきた。一人でいる私に話しかけているけど韓国語なので何を話しているかは….. すると奥に引っ込んでしまった。悪い事をしたかな?しかし言葉わからんしなぁ…. そうしたらすぐに出て来て私の机にスープを置いた。そして一言 “サービス” と言った。私も“ Thank you 、カムサハムニダ。 I’m Japaese, イルボンサラムニダ”と言ったら、“あぁ、にほんじんですか??”と答えてくれた。 中国人と思われていたのかな?? 私が2回目に来た事を憶えていてくれてサービスでスープを出してくれたのだ。

あぁ、韓国語を話せればなぁ…….. 今度こそ勉強を始めよう。そしてこう言う時にコミュニケーションを取れる様になれば,もっと楽しめるのだから……



終了直前 炎の同点劇  ワールドカップラグビー 対カナダ戦

2007-09-27 | Weblog
時計の針はもう82分を指そうとしていた。ラインアウトから思い切ってオープンに展開。フランカー・マキリがインゴールへけり込んだ。ボールは右隅に転がる。FB有賀が追ったが、ボールはエンドラインを越えた。あぁもうこれで終わりやわ…と思った。しかし南アフリカ人の Jonathan Kaplan 主審がなにやら無線を通じて話をしている。テレビのレプレイには何度もマキリが蹴り込んだボールを追う日加の選手達が映し出される。広告看板に激突したカナダ選手もいたけど、怪我を心配するほどの事も無さあそうだった。すると主審はボールを追ったカナダ選手がボールをはじき出したとしての反則を取った。それを確認していた様だ。これはついていた。恐らく誰がボールを触らなくてもそのままボールはラインを割っていただろう。そしてそのままノーサイドとなっていただろう。
敵陣ゴール前5メートルライン上から九死に一生を得た日本が攻め込む。大観衆の声援に後押しされるようにしてFWがラックを連取。素早い球出しからSH金、マキリ、そしてCTB平とつながれたボールは、ついにゴールラインを越えた。ホテルで一人この試合中継をテレビ観戦していた私は思わずヨシ!! ヤッタ!ヤッタゾォ~!! と叫んだ。中継するオーストラリアチャンネル10のアナウンサーも “ Dramatic !! “ を連発する。



しかしまだリードされていたのだ。でももうなんだかそれで良いと思った。これで良いとも思ってしまった。しかしゴールキックをセットする大西が画面に映し出されると私は“大西、大西、大西”と何度も叫んだ。そしてゆっくりと時間をかけてこのキックに集中した大西が助走に入る。アナウンサーも“全ての日本のサポ―ターが見守る”と言葉を発する。カナダの選手達が突進をして来る中……. そういえば先制トライのあと、そんなに難しくないゴールキックを決められなかったなぁ..一瞬頭をよぎったけど



それよりも更に難易度の高そうな右タッチラインからほぼ5メートル内側のゴールキックはそのままポールの内側に吸い込まれ、同点に追いついた。
そしてノーサイド。 第2回大会のジンバブエ戦以来のワールドカップ連敗を13で止めた。あぁあれからもう16年が経つのか…俺はまだ20代だったなぁ………. 時計の針はもう午前4時近くになっていた。試合の余韻に浸る暇なく部屋の明かりとテレビを消して翌日の仕事に備えねばならなかった…….



日本を出発してオーストラリア入りして2日目の夜の“イベント”は ラグビーワールドカップ の日本対カナダ戦。Wallabies, Wales には歯が立たなかったが Fiji には健闘しただけに最後のカナダ戦には何とか….との思いが強かった。心配だったのはこの日本戦が現地で中継されるかということだったが、そこはラグビー先進国。日本対カナダ戦もしっかりとしかも地上波 Channel TEN で生中継されることに。キックオフは日本時間の午前1時。シドニーと日本の時差は+1時間だから午前2時試合開始だ。これが Wallabies のグループリーグだと現地時刻でのキックオフ時間が下記の通りになる。
初戦  9月  8日 日本   23:45  第2戦  9月15日 ウェールズ23:00
第3戦   9月23日 フィジー 22:00  第4戦 9月29日 カナダ   23:00  
これらの時刻は東部(シドニー)標準時刻なので西側のパースでは更に2時間早くなる。 また All Blacks の New Zealand は 下記の通りだ。
初戦   9月8日       イタリア 23:45  第2戦 9月15日 ポルトガル 23:00
第3戦 9月24日スコットランド 03:00   第4戦 9月29日 ルーマニア 23:00

試合時間も試合日程もかなり考慮されている気がする。まぁ試合日程はシード国だからかもしれないが Group A のイングランド、南アフリカ、 Group D のフランスよりも日程は恵まれているか????

選手達が入場する前にコイントスで日本が勝ったことが字幕に出て来る。これは縁起が良いか?そして日本の君が代が先に流れる。頼むぞ!!と思わず声が出る。日本のキックオフで始まった試合は前半12分に吉田のパスを受けた遠藤が40m の独走で先制トライを決めた。何度もRyan Smith と Adam Kleeberger そしてVan der Merwe を細かなステップでかわすところが映される幸先の良いスタートだ。



しかし以降は防戦一方。本当に足が徳俵にかかった状態が何度あったことか。前半の終盤に映し出さされたボールポセッションでは何と日本は36%しかなかった。 
前半を何とか無得点に凌いだもののこれは失点は時間の問題。その前にPGでもいいから何とか次の点を先に取ってほしかった。しかし49分に Pat Riordan にやや左側に同点のトライを決められてしまった。せめてあと5分持ちこたえてほしかったなぁ….しかしゴールキックは Ryan Smith がミスしてくれて同点どまり。まだツキはあるぞ….と思うもまだまだ防戦のシーンが続く。52分にはその前から目の上を切っていた相馬がベンチに下がる。相馬は英国紙には Key Player として名前が挙がっていただけに少し残念だ。 絶対絶命のピンチが箕内が身を呈して防ぐだシーンも…..
それでも60分過ぎに久々にカナダ陣内に侵入。ペナルティーを得てそれをコーナー付近に蹴り込みラインアウトからチャンスを伺う。ゴールラインまであと5mもない。しかし最後はバツベイの突進を押し返されてチャンスを生かせなかった。そして65分。遂に逆転ゴールを許す。ペナルティーを与えてしまい Morgan Williams の速いリスタートを直接左サイドに走り込んだ Van der Merwe に繋がれそのまま逆転のトライを許した。そして James Pritchard がゴールキックを決めて 5-12 とこの試合初めてリードを許した。しかし、ペナルティーとなったあの not release the ball の判定は少し疑問だ。その判定にブーイングも沸いたのだが。逆転されてからの日本は オープンに展開する様になりカナダ陣内で試合が展開されるようになる。76分過ぎには “ジャポン!ジャポン!!”の声援も沸く。これも体格で劣る日本への判官贔屓か?それともオープン攻撃を展開する日本への声援か? しかし試合時間は刻一刻と過ぎる。英国紙も書いていたなぁ

“体格がすべてでは無い。勇敢な Blossoms は大きなハートを持っている。しかし彼らの主な野望は2011年大会でのベスト8進出だ…。”

試合前の Channel 10 の解説者も

“日本が2015年にワールドカップを自国開催したいのであればこの試合は勝たねばならないだろう…”

あぁこれがワールドカップなのだろう。日本が“射程距離”と思う相手も“日本には勝てる”と思っているのだ。どんな競技でも………..

試合後のコメントは下記の通り。

Japan coach John Kirwan:
"恐らくこの試合は日本、カナダ両国にとってワールドカップの決勝戦の様なものであっただろう。40,000人の観衆はきっと満足して帰途についたであろう。この試合のパフォーマンスについては極めて平均的だ。実質的によくやれたとは思えない。もっとやれたと思う。引き分けに終わったのはほろ苦い結果だ。しかし我々はまさに最後まで意地を見せ続けられたと。“

Canada coach Ric Suggitt:
"我々は自分たちを見つめ試合に勝つためには何をすべきかを遂行せねばならなかった。我々は後半引き離すチャンスがあったがそれをしなかった。“

Canada captain Morgan Williams:
"ボールが最後にラインを割ったのは81分だった。そしてその後更に3分試合が続けられた。主審の時計が壊れていたのか目が見えないのか私は知らない“

Williams が語った様にこの試合のロスタイムの長さが物議を醸しており、“勝利を盗まれた”と言うカナダ人サポーターも。まぁそれを言うならあの not release the ball も議論してくれよ。最後にこの試合の中継で日本では問題が発生していたらしい。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070926-00000148-jij-spo

あぁあのシーンが中継されなかったのかぃ????? 日本のテレビ局は何をしているのだろう????この日、この試合をオーストラリアで見られた事に幸福を感じるよ。

ワールドカップ開催中なんだけど…..

2007-09-23 | Weblog
9月7日からフランスと英国で開催されているラグビーのワールドカップ。我がジャパンもアジア代表で参戦しているが、ここ日本ではなぜか全くと言っていいほど何も報道が伝わってこない。4年に一度開催されるラグビーでは世界最高の大会ではないのかな?? 日本でもラグビーは人気スポーツの一つだ。私が学生時代でもラグビーは大人気。私がしていた陸上競技なんて誰も見向きはしなかった。しかしよく考えれば昔から日本にあるラグビー人気は代表よりもむしろ学生ラグビーが主流だった気がする。それも関東勢の。結局テレビ局や政治家など世間に影響力を持つ人々が関東の“老舗大学”出身が多いのでそちらの方が主流なのだろう…..
今大会、大会開幕時は幸運にもオーストラリアに商用で滞在していた。おかげで日本の開幕戦である地元の Wallabies との試合は現地の地上波で観戦する事が出来た。第二戦の Fiji 戦。メンバーを替えて臨んだこの試合は激闘の末 31-35 で惜敗した。この試合の時は New Zealand の Christchurch に移動していた。
New Zealand と言えば All Blacks 。今大会は優勝候補で20年振りの優勝に地元も期待も大きく街を挙げて All Blacks に期待をよせているのがよくわかった。 Fiji との試合は現地時間の午前3時半キックオフ。しかし地上波で放映されるので是非見て下さいね、と地元の邦人の人に教えて貰いながら移動の疲れでこの試合を見逃してしまった。残念な事をしてしまった。 第三戦のウェールズ戦は日本時間の9月21日午前4時ごろから。この試合も出張の疲れで試合を録画して後に観たのだが、日本でテレビ観戦できるワールトカップは日本戦のみ。
もちろん CS放送 J Sports で全試合中継がなされているらしいが、どうもサッカーのワールドカップとはかなり報道に差があると思わずにいられない。 
昨年ドイツでのワールドカップでは連日日本選手の一挙手一挙動が非常に細かく伝えられたが、このラグビーのワールドカップでは何も報道されてこない。
また開幕戦はホスト国のフランスがアルゼンチンに 12-17 で敗れるという波乱のスタート。そしてグループリーグではベスト8を目指して連日熱戦が繰り広げられているが、さっぱりその様子が報道されてこない。
Group A では前回覇者の England が優勝候補の南アフリカに 0-36 で完敗するなど“予想通り”の苦戦。
28日にはトンガとベスト8を掛けてグループリーグ最終戦に臨む。
日本のいる Group B では Australia Wallabies が圧倒的な強さを見せ、2位を掛けて Wales と Fiji が 29日に対決する。 
Group C には New Zealand All Blacks が余裕の試合運び。2位も Scotland でほぼ決まりかもしれない。 Italy, Romaniaでは少し Scotland の相手にならないかも知れない。大会前日本にテストマッチで敗れたポルトガルは All Blacks 相手に13点を取って健闘した。
Gorup D は大波乱。地元フランスがアルゼンチンに敗れ一時はベスト8落ちも懸念されたが日本時間の22日にサンドニで行われたアイルランド戦で 25-3 と勝利を収め1次リーグ落ちは何とか免れそうだ。
こうした試合を思う様にテレビ観戦出来ないのは果たして今後のラグビー人気を考えたらどういう事かは言うまでもないと思う。 ラグビー少年達の心中を思うと…..
そうでなくても IRB は大会出場国枠を20から16に戻そうとしている。そうなると日本の出場の可能性は……
日本の報道陣にジャーナリズムはまだまだ宿らないね。俺がサラリーマンをしているうちは無理か?????

9月25日。我がジャパンはワールドカップ2勝目を目指してカナダ戦に臨む。
今大会はまだ3連敗中だけど選手達の奮起を期待する。

そして私は23日から再びオーストラリア出張に旅立ちます。25日はシドニーです。いきつけのバーでこの試合を観戦する予定。でも身体に発疹が出ない事を祈るよ……
でも日本が参加している大会をテレビ観戦するのでさえ国外の方が都合よく観られるなんて本当に日本のスポーツジャーナリズムはどないなっているのだろう??

オーストラリアにて Wallabies vs Cherry Blossoms

2007-09-09 | Weblog
Windy Wellington からカンタスのフライトで約3時間半、オーストラリアのシドニーに到着。そしてここから約140km離れた都市 Newcastle にやって参りました。 Wellington からタスマニア海峡を越えて Sydney までが飛行機とは言え3時間半。そして空港からシドニー中央駅で乗り換えて Newcastle までが電車で約3時間。本当に疲労が増す行程だった。その上車窓からは5分おきに大雨と晴天が繰り返されていた。この地域の特徴か?それとも…. しかし目的地のここ海沿いの街 Newcastle は晴天で Wellington の様に強風、冷風でなく非常に穏やかな天気であった。

到着した9月8日はラグビーのワールドカップがフランスで開幕した。日本は第一回大会から6大会連続出場。しかし世界の壁は本当に厚くこれまでの戦績は1勝15敗。当然世界の8強である IRB 加盟国 England, Scotland, Ireland, Wales, France, Australia, New Zealand, South Africa との対戦では勝星は無く、1995年大会は New Zealand ALL BLACKS に 17-145 とワールドカップ記録の得点差をつけられて大敗している。健闘だったのは 1993年大会の Ireland との試合でこの時は 16-32 であった。
過去の IRB 加盟国以外との対戦は下記の通り
1987 年 vs アメリカ         21-18
1991 年 vs ジンバブエ     52-8
1999 年 vs サモア         9-43
1999 年 vs アルゼンチン 12-33
2003 年 vs フィジー       13-41
2003 年 vs アメリカ         26-39

1991年大会でのジンバブエ戦以外は勝利を挙げられていないがそれだけあの1勝は価値があると言う事なのかもしれない。きっと我々が考えているよりかワールドカップで勝利を挙げる事はずっと難しい事なのだろう。
ニュージーランドでもオーストラリアでも優勝候補の国らしく連日テレビ、新聞の報道ではワールドカップ特集を組んでいた。そしてここオーストラリア、期待の Wallabies の初戦はなんと我が日本代表であった。 9月8日の地元紙には Wallabies ready to shake off the rust ( Wallabies rust ( サビ ) を払い落す準備に入る。) と言う見出しが。この rust は大会前の合宿で選手達がよく口にしていた rusty ( へとへとに疲れる ) と言う単語と掛けているのだろう。そして選手達は7月21日に Auckland で ALL BLACKS に12-26 と破れて以来約7週間ゲームから離れている事がワールドカップ開幕に向けて肉体的にも精神的にも不安視されているとの事であるが、それならジャパンはどうなのだろう? 6月24日に Jr. ALL BLACKS に 3-51と完敗してから中1ヶ月半をおいた8月10日、格下のアジア・バーバリアンズを69-10 で一蹴し、欧州遠征に向かい8月18日にイタリアに 12-36 で敗れて8月25日に最後の調整試合となったポルトガルに 15-13 と勝利を収めている。オーストラリアが試合をしない7週間の間に3試合行ったが、問題は南半球のオーストラリアはまだまだシーズン真っ最中で日本は既にシーズンが終わって何か月も経っていると言う事だろう。確かに南半球の国々とは比較できないが日本のラグビーシーズンは短過ぎ無いか?? 日本選手権を含め最後まで勝ち残っても2月までがシーズンで殆どのチームが9月から12月までのわずか3カ月の間でシーズンが終わってしまう。まぁ学生の場合はどうしても2月迄に全ての行事を終える必要があるから仕方ないけど…..

この日本相手に勝敗よりも50点差をつけてられるかが一つの観点とされたとか… 社説には日本はスピードがあり、構造化されておらず(おそらく型にはまっていないと言う事か)小ぶりだがそのスクラムは多くの人々が考える以上のものである、としながらも50点差の勝利は現実的な点差だろうと書かれている。

日本の事で書かれているのはこれくらいで後はメンバーの事に触れていた。 NO.10 の Stephan Larkham のバックアップとして Tommy Tourist に替って抜擢された Berrick Burnes のこの試合での出番はあるのか?彼の出来次第では準々決勝以降に備えて Larkham を良い状態に保てる、要するに1次リーグの試合ごときで Larkham が怪我などで調子を落とされてはと言う事だろう。 Connolly 監督としても出来るだけ多くの選手を起用したい旨のコメントが。優勝候補国の余裕だろう。新聞にもピークに照準を合わせるのは開幕戦でないとの事が書かれている。
しかしメンバーの事なら日本の方が深刻だろう。大畑、安藤がポルトガル戦で離脱。大会までの2週間でどれだけBKラインの再構築などを施せるのだろう… そして経験のある大畑の精神的支柱の役割は誰が代行できるのだろう…….

不安一杯の中でついにキックオフを迎えた。私はこの日はAuckland の ALL BLACKS SHOP で買った桜のジャージーで過ごした。昼間には何人かの Wallabies のジャージーを着た人から話掛けられる事も。しかしその日はワールドカップやアジアカップ期間中で中村俊輔のユニフォームを着ていた比では無かった。殆どの Aussie 達は日本ではラグビーなんかやっていないと思っている。日本人でさえ ALL BLACKS のユニフォームは知っていもわれらが Cherry Blossoms のユニフォームは知らないだろう。そんな状況を少しでも好転させてくれればと思いテレビの前に座った。(正しくは寝ころんだ。) 




試合開始前にJohn Kirwan ジャパン監督が映し出され、彼の事が解説者に紹介される。昨年のドイツでのワールドカップ同様代表監督の知名度が一番高いのだろう。君が代が流れるときは私も起立した。 誰も日本が Wallabies に勝つなんて思っていない。勝てるのはPlay Station の世界だけだろう。でもラグビーのゲームソフトはあったかな?ニュージーランドでクリケットの Play Station 用ソフトは見たけど…..

立ち上がりは日本も素早い動きでよく対抗していた。少しでも見せ場を作ってくれよと僅かに期待する。最初のラインアウトは相手にボールを取られなかった。Wallabies の突進を一人で止められなくても後に二人目、三人目と続いて突破を防ぐ。8分にはGeorge Gregan がモールの上から飛び乗り反則を取られるがそのプレーに怒ったジャパンの選手達が Gregan 達に詰めよる。ここで大人しく引き下がると後が舐められるので大いに怒って欲しいところでもあった。




しかしその直後に渡辺泰憲が怪我で一旦下がり、10分にはPG を与えそれを Mortlock に決められ先制を許してしまった。



それでもまだ持ちこたえ苦手のラインアウトでも互角に渡り合う。PGでも何でもいいから早く得点を返してほしかったが16分にラックの中のボールを手で掻き出したと言う反則を取られまたもMortlock にPGを決められ 0-6 とされた。そして更に2分後に Nathan Sharp にトライをき決められ 0-11 とされた。しかしジャパンは次第にエンジンを吹かし始めた Wallabies 相手に大崩れせず、前半終了小野がPGを決めて 3-23 で前半を終えた。 

この調子で何とか後半もと思うも 41分にRocky Elsom 46分には Adam Ashley Cooper に連続トライを決められ 3-37 とされてしまった。そして50分を過ぎると Wallabies は選手交代を始める。53分には Chris Latham にトライを決められ、Mortlock にまたも Conversion を決められ 3-44 とされると注目の Berrick Burns が Larkham に替って登場した。中継アナウンサーも少し声高に彼の登場を紹介した。



日本もニュージーランド育ちの小野晃征が随所に細かいステップなどを見せるが相手陣内になかなか入れない。あの120kg の侍バツベイのタックルでさえ Wallabies の選手は跳ね飛ばしてしまう。私も朝3時半起きであったのが徐々に堪えて来てうとうとと寝入ってしまった。何点取られてもいいから、1トライを返してくれと願いながら…… 最終試合結果を知ったのは翌朝であった。

…….3-91……

60点くらい取られたのは覚えていたけどその後どうやって30点も取られたのだろう…. 時間はそんなにあったかな….72分からの3トライ、ゴールを含めて結局10連続トライ68失点を喫したのだった。 地元ニュースでも Perfect Start と称賛と言うよりも当たり前、50点差どころか88点差もつけての余裕の勝利。交替出場の Burns もトライを決め、また Lathma も2トライ、そのうちのトライがサッカー選手のドリブルの様にボールを前にゴロで蹴り出してそのまま持ち込んで決めたものでその2つのシーンが何度もテレビに映し出された。



そして68分に途中交代出場をしながら僅か1分後に怪我でピッチを去ったMark Gerrard の事も。でも Gerrard がピッチを離れてジャパンを1人少なかった Wallabies に更に3トライを喫したのか….

オーストラリアの解説者は日本について“何とか、ようやく ”コメントをしている。日本の課題であったラインアウトで少し進歩が見られたことと立ち上がりの動きを少し賞賛していた。そしてKiwan 監督の事も。これまでワールドカップで1勝しか上げていない日本ラグビーにワールドカップ2勝目を挙げる為に12日の FIJI 戦には違ったメンバー、モチベーションで臨むだろうと…..

大敗の翌日も私はジャパンのジャージーを着続けた。負けて脱ぐなら初めから着なければ良いのだから…. たのむぞこの次は....


 
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まいったなぁぁ 

2007-03-21 | Weblog
Champions League の AC Milan vs Celtic 戦の翌々日、ようやく日本に帰国の途に着けると向かったスイスの ジュネーブ空港内で大事なパソコンと電子辞書そしてデジカメの入ったバッグを置き引きにあってしまい、大変な目に会いました。自慢じゃないけど海外は何度も商用で足を運んでいたのにほんの数十秒目を離した隙に…. 本当に不注意というか、迂闊というか、まったく自慢にならない失態。何とか気を取り直し帰国し、新しいパソコンを買ったのだが、調子に乗って? Windows Vista 搭載のものを買ってしまったのでこれまでとは勝手が全く変わってしまい、その間弊社が参加する最も大手の見本市が東京で開催され、出張の時差も取れないまま様々な事に忙殺されてしまい、きちんと使えるようになったのは購入後1週間も経過してから。そして今私は南半球のオーストラリアにいるのです。 今度こそトラブル無しで良い仕事をと気持ちを引き締めるも、最初に投宿するホテルで“まだ部屋が準備できておりません。午後2時に来てください。”と言われてしまった。ご存じの方も多いと思うが日本発のシドニー直行便は日本時間の夜に出発し、シドニー時間の早朝に到着する。機内であまり眠れなかった時に限ってこういう目にあってしまうのだ。
結局、私は今ホテルの近所のインターネットカフェから発信をしております。

ここでわかったのは重要なものの代理はなかなか見つかりにくいという教訓。
今の私はパソコンなしでは仕事も何も出来ないのが現状。それがなくなってしまうと、新しいパソコンを入手してもすぐに同じように機能しないということ。ましてや新しいパソコンには古いものの中に入っていた必要な重要なデータがすべて入っていないので。パソコン一つとってもそうなのだから人間なら尚更だ。スポーツのシーンでも、職場でも。 重要な人や牽引者等が退職したり怪我などで抜けた後の穴はなかなか埋まらない。いい例が2002年シーズン以降のジャイアンツだ。松井秀喜が New York Yankees に移ってしまったあと、本塁打50本の穴は未だに埋まらない。本塁打だけではない。外野の守備も。そして松井の前後を打っていた打者の成績も。もちろん色々な選手を連れてきてはいるがその結果はジャイアンツ史上初めて4年連続リーグ優勝のタイトルを逃したという事実が証明している。今の日本代表も、中田英寿無き後、どれだけ世界のいや、アジアの列強と戦えるだろう?

ここオーストラリアはさすがに南半球。蒸し暑い空気がでむかえてくれた。欧州が異常に暖冬だったので3月中旬の日本の寒さ?が堪えたところだったのでこの蒸し暑さは…..

幸い Champions League の観戦ノートは無事だったので? その試合のレポートはすぐにアップします。( と言っても誰も期待していないよなぁ….)
まずは寝かせて。先週の平均睡眠時間は4時間未満。週末に爆睡をしたのだけどまだまだ身体が完全でないそしてこの寝不足。 とにかく寝かせて下さい…..

異国にて ”ヨッシャァァァッ~日の丸飛行隊 !! "

2007-02-28 | Weblog
Gさん宅ではそば等をご馳走になり最近の日独事情の情報交換を。と言っても、あるある大辞典の納豆事件とか、(我が家は翌日から丁度2週間試した時に“やらせ”が発覚した。)とか、ハンブルグの日本人会事情とか..
でもこれは当事者には貴重な情報だったりする。

現地時間の午前11時、日本時間の午後7時頃には地元テレビ局で札幌からの中継が。ノルディックスキー世界選手権のスキー団体戦が始まっていた。今季、シーズン開幕からの6戦で3試合がキャンセルになる波瀾の幕開けのなかで現在W杯ポイント首位を行くのは、昨季までは格下のコンチネンタル杯7位が最高位出しかなかった22歳のアンデシュ・ヤコブセン(ノルウェー)、2位は1月に17歳になったばかりのグレゴア・シュリーレンツァウアー(オーストリア)だ。だが、ベテランのアダム・マリシュ(ポーランド)も1月後半から調子を上げており、2002年ソルトレーク五輪2冠のシモン・アマン(スイス)も今季は低迷を脱出して総合4位につけていて、若手の突出を阻もうとする。それに対する日本勢のW杯での成績は上がってはいない。前回の世界選手権ではノーマルヒル、ラージヒルとも団体戦は1本目8位以内に入れず、2本目へ進めないという屈辱を味わった。
前日(私の知らぬ間に終わっていた)ラージヒルではスイスの英雄、ソルトレーク五輪の二冠王シモン・アマンが総合飛距離では2位のオリ・ハリ(フィンランド)に1m及ばなかったが飛型点で上回り,わずか0.2ポイント差で金メダルを手中にした。3位にはノルウェーのヨケルソイが入りポーランドのマリシュは4位。ワールドカップポイント首位のヤコブセンは14位に終わり、好調のオーストリア勢はコフラーが8位、9位にコッホそしてシュリレンツァーは10位と意外な結果に終わった。日本勢は「スーパー高校生」栃本翔平の16位が最高でベテラン勢の岡部が21位、葛西が24位、そして伊東大輝は29位に終わった、ヘッドコーチのカリ・ユリアンティラは「名寄では不足していたジャンプ練習をジックリできた、と試合前には言っていたのだが。
“最近はドイツも低迷しているなぁ”とはGさんのコメント。かつてハンナバルトやシュミットが世界を席巻し、そして団体も常に北欧勢、オーストリアと優勝を争っていたのだが。昨年のトリノ五輪でも団体は4位、個人ではNHのウールマンの4位、ノイマイヤーの8位が目立ったところであった。今年の冬は寒くなくて過ごし易いとGさんは言っておられたが。これも暖冬の影響か?前日のLHでもリッツェルフェルトの15位が最高だった。(それでも日本よりは上回った。)しかし、ジャンプもそれまでの成績よりもその場の1発がより好成績に繋がる。この団体が日本にとってもっともメダルに近い種目と私は思っていた。

テレビでは丁度岡部の跳躍が始まろうとしていた。観客席からは多くの日の丸が打ち振られる。そして岡部のジャンプはK点を超える121m 参加13カ国中、二人目のジャンパーでK点を越えたのは岡部と シュリーレンツァウアー(オーストリア)の2人だけであった。二人目を終えてスイスがトップ。これはエースのアマン・シモンを1人目に飛ばせて、136mと言う大飛行を演じたからだ。オーストリアがそれに続き、日本は5番目だったかな?日本の3人目、伊東大輝は117m。K点は越えて欲しかった。他国の3人目ではオーストリアのコフラーが130mの大飛行でチームをトップに押し上げノルウェーのヤコブセンが122mでチームを2位に浮上させた。またLHで2位だったフィンランドのオリ・ハリが123m。しかし、1人目、2人目がふるわず、日本よりも順位は下だった。その一方でロシアのデニスが120.5m。1人目のディミトリが125.5mを飛んだので日本より上回っている。そして各国エースが登場する4人目が始まる。アルファベット順で飛ぶので日本は3番目。ここでエース葛西がK点を大きく越える128mを飛ぶ。ランディング後小さくこぶしを挙げて自分の飛行に満足な様子。映像からは観客の大喜びをする様子が映し出される。他の選手ではオーストリアのモルゲンシュテルンが126m, ノルウェーのヨルケソイが134m ポーランドのマリシュが133.5mを飛び、こちらもため息が漏れる。ドイツのシュミットも129m を飛ぶが二人目のボグナー、3人目のリッツァーフェルトが振るわないので日本を上回れない。トリノ五輪団体銀メダルのフィンランドも伸びなくて日本はオーストリア、ノルウェーに次いで3位に着けた。 “札幌は雪は問題無いみたいだね。”とGさんが尋ねる。“ここから豪雪が降ってくれて2回目がキャンセルになれば日本のメダルは確定するんですが。”と応えた。“これ生中継?夜に飛んでるの?”“やっぱり欧州の良い時間帯に合わせているんですかねぇ?夜だとランディングが怖いと思いますよ。”“あぁ、そういえばドイツで見るスポーツ店の看板が出ているよ。”
やはり世界は欧州中心に動くのか? そんな話をしているうちに2回目が始まった。日本は1人目の栃本が飛び出す、しかし飛行は低くK点のずっと前110m に終わる。すると後続が大ジャンプのオンパレードだ。ポーランドのストッホが120m, ロシアのディミトリーが何と130.5m, そしてスイスのアマンが“貫禄の”135m さらに上位2カ国ノルウェー(トムヒルデ130.5m ) オーストリア(ロイツル 135.5m ) とK点をはるかに越えるジャンプが続き日本は6位に落ちてしまう。“やっぱり厳しいなぁ”Gさんと2人でまたもや溜息が漏れる。ここでトップ8のみが競技を続けることとなり、順位の結果日本の岡部が2人目最初のジャンパーとなる。岡部の“ベテランのジャンプ”に期待をかけたいところ。岡部は期待通り2人目ただ1人K点ジャンプの120mを記録。さらに当面のライバルロシア、スイス、ポーランドは飛距離が伸びない。更にトリノ五輪NH銀メダルのハウタマキも109mと失敗ジャンプで3位争いは日本も含めて大混戦。さすが “ベテランのジャンプ”の岡部だ。こうなると伊東大貴に期待がかかる。何とかK点を越えてくれよと彼の跳躍を見守る、アプローチ、飛び出す、そして・・落ちない・・・落ちない・・K点を越えても・まだ落ちない、その場外満塁ホームラン級の大飛行は131.5m。大歓声の大倉山シャンツェ。ドイツのアナウンサーも大声を張り上げる。“何て言っているのですか?”とGさんに尋ねると“ Sensational ITOって言っているよ”と。 これで他の選手に大きくプレッシャーを与えたかポーランドのマテヤ、ロシアのコルニロフ、そしてスイスのランデルトらは相次いで失速。特に最後にマリシュの控えるポーランドはそのマテヤが94.5mと大ブレーキをしてくれた。トップを独走するオーストリアのコフラーの128.5mも霞んでしまう伊東のスーパージャンプだ。 “やりましたねぇ”“これで決まり?”“いや、最後に葛西が残っています。” 最後の4人目は再度跳躍順が変わり8位のドイツから飛ぶことになる。ポーランドのマリシュが131.5m のジャンプを見せるが総合で日本には届きそうに無い。マテヤの失敗が痛かった。フィンランドのアホネンが飛ぶ。フィンランドはLHではオリ・ハリが銀メダル、アホネンが6位、ラッピが11位と日本人最高順位の栃本の前に3人もランクインしており、メダルを争うと思われていたが今一伸びなかった。1997年トロントハイム大会 NH, 2005年オーベルシュタット大会 LH の金メダリストアホネンが135mの大飛行を見せれば次の葛西には相当なプレッシャーが掛かるところだったが、K点前の119mがやっと。そして葛西は落ち着いて“失敗しない”ジャンプ117.5m にまとめる。集計が出てこの時点で日本がトップ。そしてメダルが確定した。既に選手達は抱き合って喜んでいる。こちらも“良かったですねぇ”と安堵の雰囲気が。その後、ノルウェーのヨケルソイが126.5m オーストリアのモルゲンシュテルンが 125m のK点越えを見せる。“やっぱり強豪国が飛ぶときは風もいいなぁ”と苦笑しながた言うと “実力者は運も付いて来るんですよ。”とはGさんの解説だ。優勝はオーストリア、2位にノルウェー。そして日本は銅メダルを獲得した。
伊東の131.5mジャンプが大きかった。日本のマスコミは“日の丸飛行隊の復活”とか“次のノーマルヒルにつなげて欲しいですね”とか言っているだろう。しかし、それは冷や水を掛ける様だが胸算用だ。
同じ胸算用ならこの団体での各選手個人の成績を見れば良い。飛距離だけを見ると、1位がアマン・シモンの271m ( 2回足して) アダム・マリシュの265m で続き、ヨケルソイが260.5m で3位、続いてロイツェル、コフラーのオーストリア勢が共に251mで並ぶ。そしてオリ・ハリが258mで6位に。7位にロシアのディミトリーが入る。日本勢では大飛行の伊東が248.5m で11位に入るのが最高で245.5m の葛西が13位。ただ葛西は2回目のジャンプを攻めに言って結果が出ていればもっと上位に行っていたかもしれない。この団体の結果を見てNHはアマン・シモンの2冠達成を団体で優勝を果たしたオーストリア勢がストップを掛けられるか?と分析すべきだろう。何しろLH9位のコッホを外して起用をしたロイツェルが上記の様な結果をだすのであるから…..
6月にワールドカップで訪れたときは“日本戦の勝利を是非ここのベランダで祝いましょう”と前からGさんが言ってくれたけど日本は勝てなかった。その溜飲は少しは下げられたかな?

後は数時間Gさん宅で色々話してICEでフランクフルトへ向かった。日の丸飛行隊の好成績で次の訪問先、イスラエルへの行程は快適になりそうだった……

G さん宅にて ノルディック世界選手権

2007-02-27 | Weblog
今週よりイスラエルの首都 Jerusalem 入りしております。街は今のところ平和そのもの。詳しい報道は(誰も期待していないか??)は追って記載いたしますが、ここは今年も暖冬との事です……

2月25日、ワールドカップの時に大変お世話になったハンブルグのGさん宅にお邪魔した。いつもいつも手料理を振舞っていただき、特に仕事な合間に立ち寄ったときはこの上ないエネルギーを頂いている。ワールドカップ時にようやく許可がおりたレストランの2号店をなんとか起動に乗せるべく連日奮闘を続けておられる。Gさんも言っておられたが、レストラン商売もとにかく人材の確保が大切との事。よきにつけ悪きにつけ影響を与えるのは人材だ。俺はいい人材なのかな?????

今年札幌で行われているノルディックスキーの世界選手権。どうも日本ではさっぱり話題になっていなさそうだ。先週訪れたノルウェーはさすがノルディック王国、新聞でも連日地元の期待する選手を取り上げていた。そして1972年札幌五輪70m級ジャンプの優勝候補でもあった元ノルウェー代表のジャンパー、モルク氏の事も取り上げられていた。でも表彰台を独占した日の丸飛行隊の名前は… SAPPOROの地名は見つけたが。
今でも小学校の時にテレビでみた1972年札幌五輪70m級の表彰台独占は忘れられない。期待を背負った選手達が期待以上の活躍をしたのだから。以後、純ジャンプ競技は日本が欧州勢とちゃんちゃんばらばら、長い戦いが続く。1980年レークプラシッド五輪で八木弘和が銀メダル、秋元正博が4位に入って以来長い低迷期を送っていた日本ジャンプが、復活への勢いに乗ったのは93年世界スキーファルン大会(スウェーデン)での原田雅彦。ノーマルヒル優勝を果たしたのだ。前年のアルベールビル五輪ではわずか3.5点差で銅メダルを逃したその悔しさを晴らした。その後も世界選手権では1995年サンダーベイ大会ではNHで岡部が金、斎藤が銀。団体が銅メダル。1997年のトロントハイム大会では原田がNH銀、LH で金。そして団体が銀メダルで長野五輪の日本ジャンプ陣の快挙に続く。そして1999年ラムサウ大会(オーストリア)では団体が銀メダル。LHでは宮平が銅メダル。そしてノーマルヒルでは船木和喜、宮平秀治、原田の表彰台独占という偉業へとつながった。
しかしその後、成績は失速していく。2001年ラハチ(フィンランド)大会ではLH,NH団体で4位とメダルを逃すと個人でも原田のNH5位が最高の記録となりメダル無しに終わってしまう。そして翌年のソルトレーク五輪でも表彰台に立てなかった。翌年 2003年バルデフィエメ大会(イタリア)では五輪、世界選手権では結果が出せなかったベテラン葛西紀明が NH, LH 共に銅メダルと意地を見せ付け、団体でも3位に入ったが、2005年オーベストドルフ大会(ドイツ)で8大会ぶりの6位以内入賞者無しという結果に終わり、トリノ五輪でもいい結果がでなかった。
その原因は選手達には殆ど無いと言ってよい。ここで問題にしたいのはあの時のルール改正だ。小柄な選手は最高のパフォーマンスをしても、メダル争いには加われない。もはやスキージャンプは背の高い人たちだけが勝てる競技になってしまった。例えばオーストリアのトーマス・モルゲンシュテルンは181センチ。それに比べて、日本の岡部孝信はわずか165センチだ。スキージャンプでは、アプローチのスピード、空中で風を受けて浮力にするその表面積を考えると板は長い方が有利、その長さはルールで決められる。岡部は身長から76センチ長い、241センチのスキーを履かされているのに対し、モルゲンシュテルンは264センチ、身長から83センチも長い板を使っている。モルゲンシュテルンにならうなら、岡部は248センチの板を使ってもいいはず。長野五輪までのルールは、身長プラス80センチと、すべての選手に平等だった。岡部は245センチの板で飛んでいた。モルゲンシュテルンなら261センチになり、今より3センチ短くなる。現在は身長の146パーセント以内が、板の長さと決められるのだが、そもそもこの計算式は誰が何を根拠に生み出したのか、まったく理解できない。身長プラス80センチに、有利不利が生まれるかどうかは分からないが、日本が連勝するまではルール変更など提議されなかった。スポーツと言うのは定められたルールの中、練習で工夫、切磋琢磨して上を目指すものと考えているが、どうも欧州の連中はそうは考えていないようだ。彼らは日本製品が欧州市場に蔓延られる事を非常に嫌う。“欧州人は夏に1ヶ月程度休暇を取る中、日本人は三日しか休まず欧州市場に製品を売り込みに来る。だから労働時間を減らせ”と無茶苦茶な論理で日本政府に真顔で迫ってくる。欧州の人が日本製品を好んでくれるのはその性能、価格そして販売後のアフター体制が欧州企業では真似できないと言う事実は悔しくて触れられないのだ。彼らの倫理は“あの子は僕達が遊んでいる時に勉強をしているから成績が良い。それはアンフェアーだ。”と言っているのに等しい。この不思議なルール変更が行われている事をもっと世界にアピールせねばと思う。そういう意味では荻原健司氏がIOC選手委員選挙で落選したのは残念の一言。いや彼を入れたくなかったのかもしれない。私が不思議に思うのはJOCをはじめ関係者達が彼の選挙活動に全面的に支援をしたのかと言うことだ…..
ってしまったのだ。 続く…

捕鯨問題?マグロ問題??

2007-02-23 | Weblog
ノルウェーと言えば日本とならんで鯨を食する国。アメリカ、オーストラリアそしてニュージーランドの“反捕鯨提唱国”からは日本とならんで標的にされている。しかし、世界に与える影響を考えるとやはり矛先の多くは日本に向けられる。今回は鯨料理を食べる機会がなかったが、そもそもここノルウェーでもあまりがつがつと鯨を主食にしているわけでは無いらしい。同じことは日本でも言える。日本の捕鯨が本格的になったのは戦後GHQが日本の子供たちの栄養数値を高める為に当時はまだまだこう休職であった牛肉の替わりに鯨肉を奨励した為。1970年代、私が小学生の時はまだ給食に鯨の竜田揚げが出されていた。私の大好物であった。以降、鯨が絶滅の危機に瀕していると言う迷信を吹聴して回っているアメリカや Wheal Watching でけっこうな利益を上げているニュージーランドやオーストラリアらが音頭をとって商業捕鯨が中止されてしまったままだが、昨年からその“聖域”が徐々に崩れつつある。今日本が行っている捕鯨はあくまで調査捕鯨で、日本の鯨に関する科学的調査は世界でも定評がある。そしてミンク鯨は数が激増しており、今やオキアミだけでなくインドマグロやニシン等を餌として食べ、その量は人間の漁獲高の3~5倍と言われている。一方シロナガス鯨は成育に時間を要するので数が中々増えないが、それこそ西欧諸国が皮脂から油だけ採り、残りは捨ててしまい乱獲したのが激減の原因だ。 だが少し前になるが大変な事件が起こっている。
2月12日付のオーストラリア紙 Sydney Morning Herald によるとあの Sea Shepherd の Farley Moway 号が日本の調査捕鯨船かいこう丸に体当たりを食らわしたとの事。かいこう丸はSOS信号まで出していたらしい。 Farley Moway は最初氷山にかいこう丸を追い込み捕鯨をやめさせようとしたのだが、どうもタイタニック号よろしくその氷山との激突を避けて右舷に舵を切ったかいこう丸の船尾に Farley Moway がぶつかったらしい。しかし、同紙の記事を見るとむしろ Farley Moway の行動ばかり書いておりむしろ彼ら Sea Shepherd のここ30年の反捕鯨活動を掲揚している様だ。しかも Sea Shepherd のコメントを見ると、まるでかいこう丸が舵を切ったせいで“衝突事故”が起こったと言いたげだ。
翌日ニュージーランドの Chris Carter Conservation Minister ( 保護大臣 ? ) は Sea Shepherd の代表 Paul Watson に電話を要れ政府として日本の捕鯨を止めるからこれ以上過激なことはしないようにと注意を促し、報道されている日本の捕鯨船との衝突事故についての“事実無根”とする Paul Watson のコメントを信じると発表した。 しかし事はニュージーランド政府と Sea Shepherd のコメントの様には運ばない。Watson は嘘をついていたし、その嘘を Carter 大臣は鵜呑みにしていた。2月14日、日本政府はオーストラリア政府とニュージーランド政府に正式に救助を求めた。同じ捕鯨船団にいたにっしん丸が Sea Shepherd の投げた可燃物により炎上しているとの事で、27歳のマキタ・カズタカさんという乗組員の行方が確認されていないらしい。 後に日本でもSea Shepherd が火炎物を投げている映像がニュースで報道された。
Carter 大臣は記者会見を首都のウェリントンで行いにっしん丸の位置を発表した。Ross Sea からおよそ100海里の位置にあり、Ross 島の米国 McMurdo 基地と ニュージーランドの Scott 基地から約265海里の位置にいるとの事。乗組員の安全を最優先させると言いながらも報道された様に火災が船内の加工場に限られればにっしん丸は自力で近くの港に寄航できるだろうし、6日から6日半でニュージーランドからタグボートが到着するだろうと。オーストラリアからは更にその2日後に到着するらしい。(ずいぶんかかるなぁ)しかし、Carter 大臣の本音はにっしん丸に積載される約1000トンの燃料用の重油が漏れて環境を破壊しない事だ。この調査捕鯨団にはオーストラリアの Aurora Australia も南タスマニア海では同行していたが、この Sea Shepherd が引き起こした事故のあった海域はニュージーランドの領域とばかりにオーストラリア政府はコメントを控えている。
今や鯨は日本では高級料理、需要は70年代と比較しても激減している。それに鯨は完全に供給過多らしい。だがもっと疑問なのはこの事件をどのマスコミも大きく取り上げないこと。日本の船がおそわれとるんやで?

今月初めにはまぐろの漁獲量を抑える取り決めが締結された。現在、世界の商業漁業取引の11%がまぐろ漁業に占められている様にまぐろは金を生む魚とされている。地中海マグロの漁獲量は23%減らされることが決まったがこのEU諸国が主導とした決定にトルコ、リビアは不満を隠さない。この国での重要な外貨獲得の輸出産業でもあったからだろう。2002年の世界でのマグロの貿易取引高は26億ポンド(5720億円) Bluefin まぐろの2001年の築地市場での取引高は US$173,600 ( 約2,080 円 ) と報告されている。特に Bluefin まぐろは大西洋の南では生息が30年前と比較して8分の1になっているらしい。 今鯨に続いてマグロも日本が悪者にされつつあるが、今日本市場はマグロが供給過多になっている事実を世界は勉強すべきだ。例えば黒マグロの漁獲高が日本は半分に減らされ、オーストラリアと同じ3000トンベースとされてしまったが、オーストラリア国内で3,000トンも黒マグロの需要があるわけが無く、これらの殆どは日本向けだ。問題は世界中がマグロを日本に売り込みに来ている事で日本人が毎日マグロ料理をがつがつと食べていると勘違いしていることだ。また無知なマスコミは中国のマグロ需要が激増し日本にマグロが回ってこないなどとのたわごとを言っているが、中国でマグロ料理を楽しんでいるのは一部の金持ち層だけで、彼らが高級料理としてさしみを始め日本食を楽しんでいるので客単価が高く、買い付けるほうは高くても買えると言う事。日本は良質マグロを求めて買い付けのハードルが高いので品質管理の難しい日本より、高く買ってくれる中国に売りましょうと言う業者がでてきたというだけの話。今世界では寿司の人気が高くなりつつあるが、彼らの知っている寿司ネタはマグロとサーモンくらいでイカや蛸はほとんど食べない。それにひかりものの価値も知らなければウニは食べる人も出てきたがイクラは知名度が低い。要するにツナとサーモンさえあれば彼らは寿司をいくらでも食べると言うことでその二つが無ければ寿司にならないと言うこと。マグロの需要が激増しているのはむしろ欧州あたりだろう。EUのお偉方は日本に来て一度マグロとサーモン以外のネタを味わって見ることをお奨めするよ。そしてミンク鯨の激増がマグロの減少を含めた海洋の生態系を狂わせている事も学ぶべきだ。
それに日本のマスコミはもっともっと勉強….. するほど頭良くないわなぁ……

下記のサイトをご参照ください。一般化している捕鯨の知識がいかに間違っているかがわかります。

http://aikij.com/kujira/naka.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E9%AF%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C

http://www.athome.co.jp/academy/zoology/zoo19.html

将軍プラティニUEFA 新会長に その2

2007-02-06 | Weblog
ここまで書くと、まるでヨハンソン氏だけが“金の亡者”の様に聞こえるがブラッター氏はどうだっただろう。FIFA の歳入の99%はワールドカップでのテレビ放映権益からと言われている。 1990年代にはいってヨーロッパのサッカー界に巨大なテレビマネーが流入していることを見たFIFAは、それまで世界の公共放送連合に超安値で譲っていたワールドカップの放映権から、より大きな収入を期待できる時期であることを知り、ドイツのキルヒという会社とISLが組んだ提案を受け、2002年大会と2006年大会につき、それまでの5倍以上になる1000億円を超す契約を締結。そしてキルヒはヨーロッパへの放映権販売、ISLはその他の地域への販売と「縄張り」を決めまるが 2002年日韓大会を前にISL, キルヒ社は経営が破綻。その経営にブラッター氏が絡んでいたのではと言う疑惑は今や霧散してしまった。 Champions League で巨額の富を得たUEFAを横目で見たFIFA は同じ様に世界規模でクラブカップ戦を開催し利益を得ようとするが、2000年にブラジルで開催されただけでジュビロ磐田が参加予定であったスペインで開催予定であった第二回大会は中止になり事実上この大会は霧散してしまったがISLの破綻が、直接の、そして唯一の理由であることは間違いなかった。
また1970年ワールドカップメキシコ大会時のメキシコサッカー連盟のカニェド会長はテレビネットワークの“テレビサ”の経営陣であったが、欧州時間に合わせた試合時間の設定はこの時から始り“慣例”となる。
そういった金儲け主義体制をプラティニは是正したかったのではないか?“ Products ( 商品 ) の前にゲーム、マーケットの前にスポーツ、ビジネスの前にショー、我々は常に強者が弱者を助ける道を見なければならない。各国協会を恐れさす興味から守りましょう。”と列強以外の擁護発言を当選後に行った。しかし、弱者というよりも大票田からの支持を勝ち取り選挙を優位に進めることは当たり前の事で、アベランジェ氏がFIFA会長に就任出来たのも当時出場枠が1しか無かったアジア、アフリカ、北中米に出場枠拡大を口約して票を稼いだ為だ。プラティニは当選直後のスピーチでヨハンソン氏の就任中の功績を称え、UEFA 名誉会長に就任することを壇上で提案する。そのせいかは知らないが、後のヨハンソン氏の矛先は “私のUEFA会長職期間17年間の功績を称えていただいた FIFA 会長の言葉はありがたく受け止めるが、FIFA会長が UEFA 内で選挙妨害をすることは戴けない。決定を下すのはUEFAの議会であってFIFAでない。”とブラッターFIFA会長に向けられる。 そして“ Gered Aigner 氏と共に私は Champions League の父と呼ばれた。私は常に欧州の中小国を守ってきた。勝利チームを替えてはならない。そして私は勝利チームの監督だ。”と述べたが、これは部分的に納得できる。1996年イングランド大会より欧州選手権の決勝大会への出場国は2倍の16カ国に拡大されたが、もし8カ国のままであったらトルコ、ギリシャ、そしてエストニアと言った国々が欧州選手権の本大会に出てこられただろうか?
プラティニ新会長の口約はただ列強の出場枠を減らすだけでなく、ノックアウトステージへの進出数を16から24に増加させるという事も含まれている。それにサポーターへのケアーも含まれている。それは特にスポンサーチケットの削減だが、これはブラッター時代の悪の副産物だ。またブラッターFIFA 会長と同様ビデオ判定の導入には反対だ。その代わり両ゴール裏に一人副審を置く案を出したことがあるが、これはイングランドで受けていることだろう。第二のマラドーナを予防する為に。その案も含めて Arsenal のWenger監督は新会長を支持する。“私は30年来彼を知っているが彼はインテリジェンスに富み Football を愛している。元プレーヤーが会長職に就くのは初めてであるが、我々は通常選手が発言しない事に不満を感じるのだが、もうこれ以上不満を感じないだろう。漕ぎ出されたボートは正しい方向に進んでいると思う。”とコメントするが英国の新聞はこのコメントにフランス人擁護か?と シニカルだ。それは現在 Premiership で4位に着けており、このままの順位では来季の Champions League にでられないよ、同じフランス人の提案で。と言いたげだ。
77歳のスウェーデン人のヨハンソン氏は歳のせいか、また体調を崩したせいか、最近はあまりUEFA本部のあるフランス Nyon には姿を現さなくなった。それに対してブラッターFIFA会長は“私は FIFA の本部のあるチューリッヒに居を構えている。プラティニも Nyon に移り住むだろう。”と言うがこれにはヨハンソン氏も言い分はあるだろう。ブラッター 氏はスイス人でプラティニはフランス人。共に“職場”のある国籍の会長だ。
と、ここまで言及されるともう“泥試合”だ。 所詮 UEFA の会長選挙は部外者である我々アジア人にとっては口を挟めない事だろう。またそれは失礼な事かも知れない。 
しかし、FIFA がワールドカップでそんなに稼いでいるのなら、せめてワールドカップの時に一般観客に還元してくれないのかな? せめて競技場周辺の公共交通機関は入場チケットを見せると試合開催日は無料になるとか。移動の列車が特別料金になるとか。 UEFA も中村俊輔が出る試合は日本人にチケットをプレゼントするとか….
それは都合よすぎる相談だろうなぁ…….

将軍プラティニ UEFA 新会長に

2007-02-05 | Weblog
1月26日。ドイツの“日本人街”として有名な Dusseldorf で行なわれた UEFA の会長選挙で、ご存知の通り元フランス代表の“将軍” Mitchell Platini が現職だった Lennart Johansson 氏を 27-23 の僅差で破って新会長の就任が決まった。 
私が初めてプラティニの存在を知ったのはワールドカップアルゼンチン大会前の 1977年。3大会振りに出場を決めたフランス代表の若き“将軍”と専門誌で紹介された。当時23歳であった最初のワールドカップでは背番号15番を付けて初戦のイタリア戦、第2戦のアルゼンチン戦にフル出場。アルゼンチン戦では同点ゴールを決めた。しかし、フランスはこの2試合を共に 1-2 で失い、第3戦のハンガリー戦を待たずに1次リーグ敗退が決まった。彼のワールドカップでのハイライトは次のスペイン大会であっただろう。それでも地区予選ではベルギー、オランダ、アイルランドと同組になりそれぞれの試合毎に順位が入れ替わるデッドヒートを最後の2試合共にパリで行なわれたオランダ戦、 ( 2-0 ) キプロス戦 ( 4-0 ) で連勝し同勝点のアイルランドを得失点差でかわしてベルギーと共にスペイン行きを決めたのだった。そのスペイン大会では10番を背負ったプラティニだけでなく、ジャンビオン、トレゾール、ロシュトー、シクス、バティストンらアルゼンチン大会のメンバーを9名含んだフランスは初戦インゴランド戦こそロブソンの2発を含む 1-3 で沈んだが、以降は勝ち星を重ね準決勝では初の決勝進出を掛けて西ドイツと激闘を演じてPK戦で散ったのを憶えている人も多いだろう。2年後、地元開催の欧州選手権では更に輝きを増し、1次リーグでのベルギー戦、ユーゴスラビア戦の連続ハットトリックを含めた5試合全てに渡り9ゴールを挙げ文字通り欧州王者の称号が“戴冠”された。このころ、世界サッカー界の王様はマラドーナではなくプラティニであると言う人も多かった。しかし、悲願の世界タイトルを狙ったワールドカップメキシコ大会ではまたも準決勝でドイツに破れ、同大会でマラドーナ率いるアルゼンチンが優勝したことでマラドーナが真の王様に君臨することに。そして翌年でプラティニは現役を引退した。32歳であった。クラブシーンでも 1984-85 の欧州チャンピオンズカップではリバプールを破って欧州王者に就き、同年末に日本で行なわれたTOYOTA CUP ではアルヘンティノス・ジュニオルズを破り TOYOTA CUP 史上初めて欧州代表が勝利を飾った。あの“プラティニ、ゴール、スーパーゴール、ビューティフルゴール!!”の名台詞を覚えている人も多いだろう。しかし、ベルギーのヘイゼル競技場で行なわれた欧州チャンピオンズカップの決勝戦は死者39名を出す悲劇の決勝戦となった試合であった。 
所属クラブは Nancy, St-Etienne, Juventus の3チーム。最後のユーベントスでは5シーズン在籍をしたが、ここに時代の違いがあるのだろう。それでも 1983年から3季連続でバロンドールを受賞しているが3季連続はこれまでプラティニだけだ。
今回のUEFA 会長選挙は前会長のヨハンソン氏と現FIFA会長のブラッター氏との代理戦争とも言われた。ヨハンソンは1996年、当時絶大的な権力を誇っていたジョアン=アベランジェ氏の追い落としの為にUEFAを纏め上げ見事にその目的を達成したのだが、1998年ワールドカップフランス大会前に行われた FIFA 会長選挙では両者が立候補。 第1回目の開票ではブタッラー氏の111票に対してヨハンソン氏は80票。必要得票数の3分の2を共に獲得出来なかった為、再選挙が行なわれる直前にヨハンソン氏が自ら“ Game Over “ 宣言しブラッター新会長が誕生したのだが、それはヨハンソン氏には UEFA 会長と言う肩書きが既にあったからに他ならない。ブラッター氏リードを受けて勝ち馬に乗ろうと2回目の多くの票がブラッター氏に流れ、2回目の開票で大敗するとそれまでの UEFA 会長の政治生命も危うくなるのを避けたかったとの見方もあった。その際にもプラティニ氏のフランスはブラッター支持で、ベッケンバウアーのドイツはヨハンソン支持であった。
ヨハンソン氏はプラティニ氏と異なり、選手としての名声は低い。同様の事はスイス人のブラッターFIFA会長にも言える。一方でアベランジェ氏はブラジル代表で水球の五輪代表選手だ。そこでヨハンソン氏は UEFA に在籍するとむしろ“Show Business “ として利益を生む方向に腐心していた。欧州のカップ戦を Cup Winers Cup を廃止し Champions League を拡大、そして莫大な利益を生む大会に刷新し、今やワールドカップと同等の魅力的な大会となっている。しかし英国の新聞では”ブラッター氏の常套手段として側近は褒めたたえるが、サッカーを愛するものとしては、ECの政治的な事や、裁判、欲望から来るクラブの経営を脅かす様な脅威を切り離さねば成らない“とコメントされている。これはあのボスマン裁定の事であろう。ヨハンソン氏77歳はプラティニ氏51歳が生まれる前から芸術を学び、もし今のようなマスネディアの発達した時代であったらプラティニ氏の父親 Aldo Platini が Nancy でプレーをしていたのを看られただろう。後に Aldo 氏は Nancy の役員を務める事になるが、5年に渡り癌を克服しながら易々と公認を”若者に“託さず会長職に従事したが、それだけに自信の成し遂げた”偉業“に多大なプライドを持っていたことだろう。
“ピッチでプレーするのも Football そして異なった地域、言葉、観点を持つUEFA 加盟52の地域を世話するのも我々の任務。プラティニには前途がある、なぜなら彼は学びそして経験をできるからだ。しかし、まだそれは彼自身のものにはしていない。私は自分と仲間達で成し遂げた事を守らねば成らない。”とコメントしている。
確かに UEFA は巨額の富を得ただろう。そして建前はその富を他の地域への“草の根”運動にも費やしていると言うことだが、それがどこまで末端に浸透した?要するにモルドバやアルバニアの様な貧困でサッカー後進国のサッカー少年にどれだけサッカーボールやスパイクが UEFA から渡っただろう?おそらくその国の協会がポッポナイナイしているのではないか?また悪評高いアフリカの若い“少年選手”を買って使い捨てる事に費用を割り当てただろうか? 
 その点プラティニの“マニフェスト”は明らかだったかもしれない。イングランド、スペイン、イタリア、ドイツの国内リーグに与えられた Champions League 出場枠を1つ減らし、より多くの国にリーグ戦を戦ってもらうと言う事だ。
例えば Iceland 協会の Eggert Magnusson 氏は“プラティニが現役時代 Juventus の一員として レイキャビクに来て欧州カップ戦を戦った今や欧州クラブの列強は Iceland ではプレーしなくなった。プラティニはかつてそうであったようなカップ戦が本来の姿と思っているだろう。”とコメントするように、こういったビッグクラブとの試合こそそこに利益をもたらすと言う事だろう。カザフスタンが AFC から UEFA に乗り換えた様に。
“これは小国にとっての勝利だ”とコメントするのはTheo Zwanziger ドイツ協会会長。“喜んでいるのは100人以下の国ばかり。”しかし、そういう前に最近のブンデスリーガのチームの戦績を見た方が良いだろう。2001-02の C.L. で Leverkusen が準優勝以来、ベスト8に残ったドイツのチームは無く、ベスト16に2チーム残るのがやっと。そして今年はバイエルンミュンヘンのみがトーナメントステージに残った。また(イングランド)FA 会長の Geoff Thompson 氏は C.L. 枠の削減があってものプラティニ支持であったらしい。プラティニには責任が無いが”ヘイゼルの悲劇“で欧州カップ戦から締め出されたイングランドの復帰にも”居心地の良かったスウェーデン協会の座を降りてまで会長に就任し“奔走したと言われているのだが…. ドイツと同じ支持はいやなのかな?そういえばドイツはフランス人のプラティニを支持しなかったのだが….
プラティニを最大に支持するFIFAブラッター会長は“プラティニは UEFA と FIFA の間に大きな結束を求めている。私もヨハンソンもサッカーをプレーしたがプラティニは我々を足してもの以上だ。”と言ったのは彼に選手気質とビジネスマンのセンスを兼ね備えていると言いたかったのか?そしてプラティニの典型的なフランス人の disadvantage といわれている英語力も“数ヶ月前に食事をしたが、彼の英語は上達している。オフィスでのコミュニケーションも問題無い。”と援護する。 FIFA や UEFA で働けるなら俺だってもっともっと英語とドイツ語を磨くぜ。それと中国語と韓国語も。今の仕事のためなんかよりずっとモチベーションが上がるけど….. 

また FIFA, UEFA の目の上のたんこぶ団体 G14 Thomas Kurth 会長はこのプイラティニ氏の口約を C.L. Streamline ( 機械化政策 合理化と言う意味 ) と皮肉る。そして“ Champions League の決勝戦までのゲーム数が代表Aマッチが増えたことに伴い17試合から13試合に減らされたのは Pity である。”ともコメントしている。 しかし、創設時のメンバー、バイエルンが脱退をほのめかしたり、チェルシーが入れてもらえなかったりと足並みは揃わない。 それに創設時のメンバー、ドルトムントは経営が破綻し、オランダ勢、アヤックスも選手を切り売りしているのが現状。それにやはり選手達はワールドカップを第一においているやろなぁ…..
   次回に続く

中学時代の思い出

2007-01-21 | Weblog
昨夜、9年振りに中学時代の同級生と酒を酌み交わした。彼は大学を卒業後日本最大手の運輸会社に就職し転職もせずにその会社一筋20年以上。昨年2月から本社に“栄転”。今や誰もが知る大手運輸会社のしかも本社勤務の課長さんだ。こちらは大学卒業後、最初に就職した会社が倒産し転職先では気に入らない上司が原因でまた転職と流転を重ね、8年前に4社目となる民間企業に根付きようやく係長になれたが、毎日上役に文句をたれたり、平気で遅刻をしたりといつ解雇されてもおかしくないスチャラカ社員を続け、周りと家族を心配させる毎日。しかし、ずっこけた我が社の将来性は限りなくゼロに近い。まぁ立派な一流会社であれば私の様な人間は採用しないだろうが。
久々の再会にどこから話しを始めて良いか判らない。しかし、今の生活や中学時代のクラスの女の子(いまはおばさんか?)の事等話題を重ねるにつれて次第に中学時代にタイムスリップして行く様な気がした。中学時代の彼はサッカー部員。前のブログでも書いたが私の通っていた高槻市立第九中学校サッカー部は、私が2年生の時と3年生の時に連続して全国大会に出るほどの強豪。そして全国大会には出られなかったが2学年上の先輩には後にU-20日本代表候補になる様な選手もいた。(私は中学を卒業してからその人の事を知った。)
大阪府高槻市は70年代からサッカーの非常に盛んな街で私が中学1年の時も全国大会への出場権を得たのは高槻市立阿武野中学。そこには後に我が母校京都西高校に進学し日本代表のゴールを守った松井清隆先輩がおられた。(しかし、後に阿武野中学は全国大会出場を辞退したとか?だれかご存知の方はご一報を。) 子供の時は原っぱや校庭では草野球よりも草サッカーに興ずる子供が圧倒的に多かった。当時、もう少しサッカーの施設が揃え、公立高校も多かった高槻市が市を挙げて強化に取り組めば静岡のどこかの市の様にサッカー都市としてもっと栄えただろうが、日教組色の強い高槻の教育者連中は平等平等、平均にしましょう、平らに耕しましょうと、そこらへんに力をいれさせなかった。 

はっきり言って中学時代の私はサッカーが大嫌いであった。それはサッカー部の快進撃にメガトン級のねたみを持っていたからに過ぎない。花形スポーツクラブと言えば野球部と連想されるが、中学の野球部は皆目弱く (それでも投手や主将はもててたなぁ)話題は99.99%サッカー部が独占していた。俺だって当時は水泳部で頑張って学校の誰よりも速く泳いでいたのに(当たり前か?)誰もすごいなぁと言ってくれない。1年上の先輩が全国大会に出場し、同級生達の全国大会出場が決まった時にサッカー部の顧問に“ちぇっ、おもんないなぁ”と毒づく最低な中学生であった。親父にも“人の成し遂げたことにけちをつける奴は最低な人間だ。”と叱られた。それは当たっていたが、“小学校の時俺にサッカーなんてさせてくれなかったじゃないか。”と心の中で叫んだ。 

そんな話をすると、友人は“俺は全国大会に連れて行って貰った。”“全国大会の試合に出たかったなぁ。”と言った。全国大会1回戦で千葉県の宮本中学に敗れ、彼はベンチにいて起用されなかったらしい。しかし、その後の近畿大会では決勝戦で起用され、決勝ゴールを決め近畿大会優勝に導いた。それは1年上の先輩でも成し得られなかった快挙だ。球技の様な団体スポーツの栄誉は個人にのみ与えられるものでは無いが、友人が言った“全国大会に連れて行って貰った”と言う意味は直ぐに解った。同じ学年には目茶苦茶にサッカーが上手い奴が二人いた。その二人は2年の時からレギュラーで全国大会も2年連続で経験したらしい。高校は共に摂津高校に進み、インターハイにも出て大阪選抜にも選ばれていた。そのうちの一人は超がつくほどサッカーが上手かった。サッカーだけでない、全てのスポーツ競技が上手くてしかも勉強も出来、更に技術や美術もこなせる“非の打ち所の無い”奴だった。大阪選抜では主将も努めていた。(1度京都高校選抜との親善試合を見に行った事があり、PKを蹴っていた。) 
自分の高校生活は灰色と言うよりも暗黒の時代で、楽しかった中学時代を思い出してはため息をつく毎日。高校になっても続けた水泳はさっぱり駄目でインターハイなんて夢の夢、全国大会に出ることがいかに偉大な事かがわかり、中学時代はあれだけ妬んでいたサッカー部であったが、むしろ母校のサッカー部が全国クラスだったことに誇りさえ感じた。また在学中にワールドカップアルゼンチン大会がNHKでテレビ中継された事もあり、サッカーに興味を持ち始めた。高校の時は彼と同じ中学と言う事で同級生や後輩たち(サッカー部員だけど)が彼の中学時代を訊ねてくるほど。そんな彼でも町でばったり会ったらきさくに声を掛けてくれ、けっして奢った所は無かった。憶えているのは3年生のときに全国高校サッカー大阪府大会での北陽高校戦で完全なオフサイドをゴールとされ試合に敗れて“腹立ったぞぉ。”と話してくれた時の事。高校2年の時も決勝戦で北陽高校に破れ、高校生活では“全国高校サッカー”には出られなかったとも言っていた。でもその口調は決して下品なものでなくさらりと不快感を残さない口調で別れを告げた。こちらは受験で進路を悩ましている時に彼の元には色々な大学から勧誘され本人も驚いているとも言っていた。後に彼が筑波大に進学した事も他の友人に教えて貰った。 あぁやっぱりあいつはすごい奴なんだなぁ。俺もあいつみたいになれないかなぁ?と思った。

大学に進学後、私は陸上競技部に入った。といっても体育系大学と異なりスポーツなんてまったく力を入れない大学。自身も入部当時は“全国クラス”になれるとは想像しなかった。しかし、元来走る事が好きだった私はとんとん拍子に記録が上がり、関西インカレでは優勝を争い、西日本インカレで上位入賞をするほどの選手になり、日本インカレ、中学時代に憧れ妬んだ“全国大会”が見えてきた。 そして国立競技場で開催されたインカレの出場権を得た。その時に思った。

“やっと追いついた。中学校のサッカー部に追いついた。あのすごいあいつにも追い付いた。”

それがとても嬉しかった。 そしてそのすごい彼にいつか会ってお前に追い付いたぞ、と言いたかった。近いうちに会えないかなぁ?と楽しみにした。 しかし、インカレから半年を少し過ぎた頃

“自殺したんだって.....” 

次に彼の近況を知ったのが上記の台詞だった。
信じられなかった。大学進学後サッカーを辞めた事は聞いて知っていた。だけどそれで私の中での彼の“偶像”はけっしてかわらない、いや、彼に近づいた自分を誇りにさえ思った自分を“引き上げてくれた”彼に何としても御礼を言いたかった。 
彼の自殺の原因を私は知らない。80年代中頃、日本サッカー界はプロ化なくして強化策無しの声はあったがプロリーグ発足を期待出来る状況では無かった。もし、プロリーグ発足が10年早ければ彼もあんな事にならなかったかもしれないなぁ、と酒を呑みながら友人と話したが友人は“いや、そこまでサッカーに執着する奴でもなかったから、いくら能力があっても次にやりたいことが見つかったらその時にプロリーグあってもそっちに行ったかもしれないぞ?”とも言っていた。実際にサッカーを辞めた後は芸術方面に進んでいたらしい。 

だけどこれだけは言える。自分が陸上競技で頑張れたのは彼や昨夜呑んだ友人達が中学時代にサッカーですばらしい快進撃を見せ付けてくれたおかげだ。また、前のブログでも書いたが1500mが早かった中学時代のバスケ部の友人も。要するに周囲の同級生達に恵まれたと言う事だ。 そして中学校時代のサッカー部の栄光がなければワールドカップも貯金をはたいて観戦に出かけるほど興味を持てただろうか?

そういう意味で俺は誰かにいい影響を与えたのかな?????

旧友と呑んだ時間はあっという間に過ぎ、近いうちにまた再会することを約束して家路についた。 あいつも白髪が増えたなぁ。 そして俺は体重が増えたなぁ。 次はいつ会ってどんな話をしようかな? 

次に会うときは課長命令で部下の女子社員を連れて来てくれ。一流会社なら美人ぞろいやろぅ….楽しみにしとるで。 やぱっり俺はいい影響を与えない人間なのかもしれない。

はるかなる思い出 ハンドボール部に入りたかった日

2007-01-16 | Weblog
少し前の話になるが、昨年バンコックに商用で訪れた時にドイツのスポーツ週刊誌 Sports Bild を購入した。バンコックは今や世界中のバックパッカーのメッカ。スックンビット通りには白人の老若男女が目に付く。そしてこちらとしてはありがたいのは、現地のコンビニエンスストアーでドイツやイタリアそしてフランスにスペインの新聞や雑誌が手に入ることだ。ドイツサッカー週刊誌 Kicker 誌に有名なピンクの紙面イタリアのガゼッタデルソポルティボ紙。価格は Sports Bild 誌が定価1.20ユーロ( 約190円 ) が250バーツ( 約750円 ) おそらく現地人は買わないだろうが、こちらはこの程度ならと思う価格だ。 

そこで買った Sports Bild 誌12月6日号の後ろの方に気になる見出しが飛び込んできた。
“ Japaner wollen Kretzsche „ 直訳すると“日本人が Kretzsche を望む“ とでも言う意味か?
記事の内容は2008年に設立を目指す日本プロハンドボールリーグの看板選手にとドイツのハンドボール選手 Stefan Kretzschmar がオファーを受けているとの事。このプロリーグは 2012 年のロンドン五輪出場に向けて韓国等のライバルに対抗する為の強化策の為とこの記事には書いてある。Stefan Kretzschmar とは現在ドイツブンデスリーガ1部のチーム SC Magdeburg に所属するドイツと言うよりも欧州ハンドボール界ではカリスマ的存在の33歳の男子選手。 今のクラブとの契約が2008年で終わるのでその後に日本へと言うオファーを貰っているとの事。
(ハンドボールはまだまだ勉強中なので、 Kretzschmar の詳細はオイローパさんが開設するブログ、 Hurra! Handball in EUROPA をご参照ください。 http://blog.goo.ne.jp/europahand )
サッカー界で言うなら、70年代に学研の“学習”で見た “日本でプロサッカーリーグが設立され、ペレがやって来て釜本と対決する。”と言う初夢が現実となると言ったところかもしれない。 日本のハンドボールファンからすればKretzschmar の来日はともかく、日本でのプロリーグ設立自体、しかも2年後に、気配が感じられないらしい。そして記事にある Kretzschmar のコメントを見ると日本からオファーを提示されはしたが、74歳になる父親と、愛娘の事もありまだ回答はしていない様だ。 

1996年のアトランタ五輪で男子サッカーがメキシコ五輪以来28年ぶりにアジア予選を突破し、以降3大会連続五輪に出場しているが、他の球技は反対に凋落している。かつて金メダルも勝ち取った事のある男子バレーボールはそのアトランタ五輪から3大会連続アジアの壁に跳ね返され、1970年代まで五輪、世界選手権では3位以下になった事の無かった“東洋の魔女”こと女子バレーは五輪出場権を勝ち取ってマスコミが騒ぐ始末。NBAのテレビ中継などで競技人気の高まっているバスケットボール、男子は1976年モントリオール五輪以降五輪には出てこられず、アジア予選を突破して世界の舞台に出てこられたのは1998年の世界選手権だけ。ハンドボールでは女子は最初に五輪種目に採用されたモントリオール五輪には出場を果たしたが以降出場権は勝ち取れず、男子が最後に五輪に出たのは1988年のソウル五輪。以降は韓国の軍門に降っている。水球は大麻事件のあったロス五輪以降、ソ連邦崩壊でカザフスタンがアジアに回ってきたこともあり五輪にはご無沙汰だ。頑張っているのは女子のバスケットボール(1996年、2004年五輪出場)と女子ホッケー(2004,2008年五輪連続出場)そして最近新設されたソフトボールと野球程度だ。 先のアジア大会では男子は6位、女子は銅メダルを勝ち取った。しかし五輪に向けて視界は良くないようだ。五輪出場の為にはプロ化が必要とJリーグ設立前の日本サッカー界と同じような“スローガン”がハンドボール界でも渦巻いているのだろうか? だが本場欧州でも全てのプロ契約選手がハンドボールだけで生活費を賄えているのでは無いらしい。だとしたら日本では??そのありも協会はアイデアがあるのか?確かに今の選手達の中には所属先の実業団とプロ契約をしている選手もいるらしい。サッカーの日本リーグでも晩年はライセンスプロと言って、例えば木村和司なんかは日産自動車とプロ契約していた。最初の年棒は確か600万円だったかな?

年頭に放映されたテレビ番組“筋肉番付”にハンドボール界から出場した宮崎大輔を番組内で紹介されているのを看た。試合後のサイン会の様子やハンドボールをメジャー化したいという思いが伝わってくる。こういうデモンストレーションは選手個人に頼るのでなくもっと協会挙げて出来ないものか?Jリーグ発足後かつて宮崎県のハンドボール国体選手だったそのまんま東さんを広告塔に“Jリーグに続け”とハンドボール協会が宣伝に力を入れたことがあったが人気はそれほど上がらなかった。やはり五輪に出なければならないか?しかし今の川淵三郎キャプテンが80年代末に、プロ野球ニュースに出て“みなさんどうぞ、サッカーの日本リーグの試合に来てください。先着1000名様にサポーターマフラーをプレゼントしています。”とお願いしていた。そして無知な女子アナが“サポーターって何ですか?それ包帯ですか?”って訊いていた。川淵キャプテンにとってはさぞ屈辱的であっただろう。何故マスコミはサッカーを知ってくれないのかと。現在他の球技協会でここまでする役人はおるか? 
今の日本スポーツ界のレベルアップは何十年に一度生まれる天才の出現を偶発的に同時期に数人出て来る偶然を待つか選手個人の血の滲むような努力と犠牲でしか生まれないのだろうか??? 
そして今欧州で活躍する日本人ハンドボール選手は一人や二人ではないらしい。そして男子のみならず日本女子選手も頑張っているのだ。 2000年には沖縄出身の田場裕也選手がスペインのバルセロナでプレーし、その後もハンドボール列強のフランスリーグで活躍を果たし、昨年から沖縄にプロハンドチーム設立の為に尽力されているが、そういった事を、世に宣伝するだけでもハンド人気は上がると思うのだが。
また今月19日からドイツで男子の世界選手権が開催される。アジアからは韓国、カタール、クウェートが出場。残念ながら日本は出場権を獲得出来なかった。2005年チュニジア大会にはアジアを勝ち抜いて世界選手権に出場したのだが。

中学を卒業した私は高校に入ったらハンドボール部に入ろうと思っていた。私の出身地、高槻市は当時70年代後半から末期(今は知らないが)日教組が蔓延っていたおかげで高槻市内の公立高校で野球部を持つ高校は島本高校しかなかった。従って地元の公立高校に進学する野球部員のほとんどはハンドボール部に入部すると言っていた。その上、中学校の野球部は練習試合、公式戦で勝ったことが無いチームだったから高校に進学して野球を続けたのは一人だけであったが。体育の時間では1年の時から毎年ハンドボールがあった。そして3年の時私はゴールキーパーをやりけっこうシュートを止めたりして体育の先生から“おい、行けるぞ。”と言われてその気になったのだ。 しかし、進学した京都西高校にはハンドボール部は無かった。これが高校生活の躓きのはじまり。結局中学時代に続いて水泳部に入部(中学時代の水泳の戦績も悪くはなかったので。)したが、どの大会にでも決勝に残った事は無かった。たまに、“ハンドしたいなぁ”と思ったことも。卒業後付属の大学に進学したが、何と入れ替わりに大阪体育大学からハンドボールの先生が入ってきてハンドボール部が設立された。そんな殺生な…とショックだった。 しかし、大学に入って陸上競技で頑張って、その先生が話しかけてくれたりする機会にも恵まれ、“先生、何であと3年早く来てくれなかったんですか?”とか、大阪府の教員で形成されたハンドボールチーム“大阪イーグルス”の話をしてもらったりした。 そして先生と大学のカフェテリアで話しているところをクラスの女の子に目撃され“スポーツ選手同士が話しているみたいで格好良かった。”と言われた。(スポーツ選手なんだけど。) しかし、先生の話を総合すると身長180cmに満たなく、しかも決定的にてのひらの小さな私はハンドボール界に進んでも大成はしなかったと思う。でもスポーツを通じてようやくハンドボールにありつけた気がその時はした。だが1997年に熊本で開催された男子ハンドの世界選手権はBSチューナーが故障して満足に看られなかった、と言うよりももっと地上波でやれよと思った。同じ思いは昨年の世界バスケでも。
少子化とは言われるが、日本の子供人口は欧州よりも多いと思う。まだまだスポーツに触れていない子供がいるんじゃないかな? 子供たちよもっとスポーツを楽しもう。小学校5年生で身長が155cm近くある息子に親父の出来なかった夢を託す….. のは完全な親ばかだなぁ…… でも宿題はしたか??


宮崎選手のブログは下記まで。
http://blog.livedoor.jp/m_daisuke7

そしてかつてスペインのバルセロナでもプレーした日本人 田場裕也選手のブログは下記。
http://tabayuya.president-blog.jp