Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

北海道洞爺湖サミット閉幕  ここで決まった事は………

2008-07-10 | Weblog

7月7日、日本の多くの幼稚園そして小学校低学年それから付き合いだした若いカップル達がお願い事を短冊に書いて笹に吊した出した日に開幕したG8北海道洞爺湖サミットは本日最終日の7月9日は中国、オーストラリア、ブラジルそしてメキシコと首脳会談が行われ、議長国である福田首相の議長会見が行われ閉幕した。
各国首脳は帰国の途に着き、報道関係者は早い人で9日の夜にこの留寿都の International Media Centre から札幌に脱出し帰国をする人、東京や京都に向かう人とそれぞれの行程を行くこととなる。私はここにもう一日留まり、“支援後”の後片付けをして自宅のある関東地方に帰る予定だ。
それにしてもこのサミットにはどれだけの日本国民の税金と一般企業の協賛が投入されたのだろう………. IMC 内にあるレストランは前のブログでも書いたとおり Press 関係の ID カードがあれば誰でもいくらでもフリーで飲食が出来る。その食材は最高級とまではいかないが中国産等でなくほぼ全て日本国産が使われている。
レストランのコックさんや調理師そしてホールに従事する人達はそれを食べることが出来ない。自分もそのレストラン支援でここに来て食べられないのだが、まぁ腹の立つのは日本の報道関係。 ある和食レストランでは寿司が振る舞われたのだがウニ、トロ、イクラの前は黒山の人だかり。それらなければ“ウニを握って”“トロを持ってきて”と厚かましいことこの上ない。 遠路はるばるやって来た外国人ならともかく、開催国の日本人がただ飯を食っているのにこの態度。Pressと言ってもジーンズにTシャツそして野球帽を被ったどう見てもAssistant Director 風情の若い奴らほどウニの前から離れない。 A.D. が悪いと言っているのではない。ただ飯を食うのが悪いとも思わない。だけどタダなんだからウニやトロを心行くまで、外国人がいてもお構いなしに根こそぎ持って行くその振る舞いは見てて“お前ら報道のはしくれだろ??”と言いたくなる。 

  

時間があったので IMC 内に行ってみた。そこはまさに憧れの世界。世界中のメディアブースがあり、PCは繋げ放題、またフリーのPCもありアクセスも自由。コピーや FAX も使い放題。私が訪れたのは夕方だったので世界中の報道関係者が原稿を本国に送っていた。そして様々な言語が聞こえる………あぁ俺もこういう世界で実力を発揮したかったなぁ…….AD崩れが寿司をがっつくのを思い出すだけで腹が立つやら情けないやら… きっとワールドカップのメディアセンターはもっと凄いんだろうなぁ……….
 ここでも何人かの海外報道関係者と立ち話をする機会に恵まれた。はっきりいって彼らには日本の事がさっぱりわからないらしく、主な情報は日本に長年住む母国人からのものに頼っているらしい。そしてサミットに関する日本との温度差はかなりある様だ。たとえば環境問題、原油価格はそれほど興味がない様に見え、むしろ食糧問題には抜本的な解決策をこのサミットから見出そうとしていたみたいだ。それでも成果があったようには感じていなかった。ロシア人関係者が多かったのが非常に目立ったが、サミット二日目からはアフリカからの報道関係も増え、この日はナイジェリア、セネガルそしてザンビアの人達と話をした。特にザンビアからの人達は女性で“日本の人にザンビアを覚えてほしい….” と言っていた。1988年ソウル五輪のサッカーでザンビアは1次リーグでイタリアを4-0 で撃破した。イタリアは五輪チームとは言えメンバーにはタッコーニ、デ・アゴスティーニ、フェッラーラ、カルネヴァーレら2年後のワールドカップメンバーが含まれていた。その話をしたけど、彼女はよくわからなかった様だ。20年も前の話……

センター内の Refreshment Corner にも飲み物やカロリーメイト、サンドイッチそれからおにぎりが置いてありフリーで飲食できるがそこには“ Press 関係者以外は御遠慮下さい……” ってな注意書きが。別に手をつけてもばれそうにはなかったけどそのまま踵を返した。

 

そして北朝鮮の拉致、日本の拉致家族の現状を示すべく資料やDVDがフリーで持ち帰れるように置いてあったが、もっと目立つ所に置かないと誰もわかりそうにない陳列だった。 本当に日本政府はこの問題を世界に訴える気があるのかい??? 
私はさっそく英語、ドイツ語、ハングル語でかかれた資料をもって帰り私が知る人達にだけでも送ることに…….. 政府がやらなきゃ俺がやる……でも効果は…….ゼロじゃないぞ…….

レストランでは最終日最後の晩餐を楽しむ?海外メディアの人も多かった。最終日が一番多かったのではないかな?? 
インドネシアの人とは“お米の輸出を止めないでください。オーストラリア、ニュージーランドで寿司が食えなくなります….” というと大いに受けた。 
オーストラリアの集団との話題は尽きない。 隣国 New Zealand からWallabies の監督に就任した Robbie Deans 新監督の手腕はいかに……花が特に咲いたのは今行われている Tri Nations 。 Kewell がガラタサライに入ったぞ……サッカーはこの人たちはあまり無関心だったなぁ…… 英国人、ほとんどはロンドンから来ていた。 EURO2008 はどうした?今大会 Premiership でプレーする登録メンバーは42選手。これは Budesliga の57人に次いで2番目だ。なのにどうして England は予選落ちを….. 小柄な女性記者は大きな目を見開いて一言 “ Lavish !! “
ドイツ人の記者たちとも EURO2008の決勝戦の話題を。結果には満足はしていないが決勝進出には評価をしているみたいだった。 決勝戦では Ballack, Lehman のプレーを評価。でも2年後のワールドカップには自信がありそうだった。ドイツはワールドカップで実力を発揮する…….それにしてもここの寿司はうまいなぁ……..だって。
数人であったスイス人。でもドイツ語で話しかけても”私はジュネーブから..." みなジュネーブからさすが政府関係者?
残念ながらスペイン関係者とは会えなかった。イタリア人に言わせれば“まだフィエスタの真っ最中…..” だそうだ??

G8も一つのフィエスタなのかもしれない。みな言っていた。 IMC からG8会場の洞爺湖まで遠すぎる…….
他国で開催されるサミットはどうなのだろう?“首脳”と“ Press “ はもっと近い関係に位置できるのか?? ただ飯をいくらでも提供してくれるのか………..

そのフィエスタにつぎ込まれた税金の元を取ることはできるのだろうか??  
ニセコの露天風呂で夜空をみながらでそう思った。 

はやく週末がこないかな?? 

その前に札幌で旨いラーメンを楽しむ時間があることを祈るよ。 

 


G8のG8によるG8の為の…….洞爺湖サミット 

2008-07-08 | Weblog
a title="サミットの町、七夕開幕に繁盛願い 洞爺湖温泉 記念グッズで盛り上げ(産経新聞) - goo ニュース" href="http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/e20080707008.html" target="_blank">サミットの町、七夕開幕に繁盛願い 洞爺湖温泉 記念グッズで盛り上げ(産経新聞) - goo ニュース

昨日7月7日、日本では5回目となる先進国首脳会議(今はこういういい方するのかなぁ??)所謂G8洞爺湖サミットが開幕した。6月29日にスタジアム観戦した EURO2008 の決勝戦の余韻に浸る暇もなく翌日は Salzburg, 翌々日にはスカンジナビアのスウェーデンの首都ストックホルムに飛び、1泊してフランクフルト経由で日本に帰国。その翌日には北海道に飛ぶ羽目となった。 ひょんなことからうちの会社がサミットに支援をする事となりこのわたくしめに白羽の矢が立ったという訳だが、ほかに人がおらんかったんかいな??というのが本音。
それでも一生にそう何度もチャンスがある訳ではないので(欧州選手権の決勝戦もそうなんだけど….) サミット開幕の3日前から現地入りし準備等の支援に入っていた。
開幕前日の7月6日から各国首脳が続々と北海道入りしてきた。その様子が International Media Center 内に数ヵ所特設されているモニターに映し出されるのだがさすがにアメリカ、ブッシュ大統領が到着した様子が映し出されるとモニターの前を通りかかった人達は一斉に足を止めて画面を覗き込む。さすが合衆国大統領。
私の注目はドイツのメルケル首相。EURO2008 の準決勝戦ではプラティニUEFA 会長と何語で話したのか…
決勝戦では Ballack と何を話したのか……まぁそんなこと直接尋ねることなど出来ないけど…当り前か…..

それにしてもここ International Media Center は何でこんなに金をかけているのだろう…..取材記者章があれば飲食はほぼ完全無料。アルコールは飲み放題。そして余った食材はどんどん廃棄。 ECO も何もあったもんじゃない。記者章のない私はその恩恵にあやかれなかったが食事には不自由しなかった。ただその分一日12時間以上働きづめだけど…….
海外のメディアで目立つのはロシア人記者達の多さ。そしてけっこう日本語を理解するロシア人も目につく。そのうち半数は在留で通訳代りに登用された記者達だろうが……..少し前までは G7プラス1 のそのプラス1だったのに。1975年に第一回サミット、先進国首脳会議、当時はG7といったけど、その当時から比べると本当に隔世の思いだ。あの時は先進国で難題となっているオイルショック、エネルギー問題について話し合いましょうということだったけど議題はあまりかわらないなぁ……

そしてここでの日本人のスティタスは外国語がどれだけ話せるか…の様だ。ロシア語を始めイタリア語、フランス語そしてドイツ語は専門の通訳を雇用及び登用している海外メディアが多いが帰国子女的な特に日本人女性がめにつく。まぁ彼女達はそれを鼻にかけてはいなさそうだけど、日本人の記者、マスコミ関連は英語を話せることを自慢したいようだがそのお手並みは軒並み下手くそだ。それでいて話せる気になっているのがおめでたい。 中には IMC の中のスタッフの女性にいいところを見せようとしているのが見え見え。そして英語はヘボヘボ。私自身、もっともっと上手になりたいと思っているのになぁ…..ちょっとおちょくってやろうと思い、首尾よくイギリス人とドイツ人、スイス人と一緒になった時英語とドイツ語で話を弾ませたときのあの驚きと悔しさをにじませた顔つきを見た時は “人間の価値は本人そのもの。所属先の規模とはちゃうんやでぇぇぇ。”という私の心の叫びをきいてくれたかぃ?? 
でももっともっと語学を勉強しておかねばとも痛感したよ….これが私の向上心??

しかしこの北海道洞爺湖サミットは何をもって“成功裡に終わったとできるのだろうか……” そもそもこれだけ時間と予算と人をかける意味はどこにあるのだろう……..このサミットの重要議題は思いつくところ下記の点だと想像する。

原油高、食料費用高への取り組み
地球温暖化防止に向けての環境問題の改善
アフリカ諸国への支援
非加盟国との関係拡大

そのどれもがサミットで解決しそうな議題ではなさそうだ。
まず原油高、食料費用高だけどこれは世界中の投資家を抑えないと解決不可能な問題で彼らに“値段下げろ”と言っても大金を投入して投資しており今さら降りられるわけではない。いくら各国首脳が話し合っても無駄な事と思う。もっとも“投資分の補填をするから….” とも近ければ別だろうがその補填はだれが出すのか?ATMと言われている日本に間違いはなさそうだ。
環境問題はある意味ブッシュ大統領の発言は合っている。いくらわれわれ日本人がスイッチを消してもアイドリングを止めても中国とインドでまき散らし、垂れ流しを続けている限りは無駄だ。私はそれに加えてタイとインドネシアも加えたい。バンコック、ジャカルタの乗用車の激増、好景気からくるショッピングモールの建築そしてガンガンきいているエアコン。こりゃ気温も上がるわ…… 一度訪れた人なら誰でもそう思うだろう…..しかしもっと問題なのは今起こっている現状をそういった国々の人々は全く知らなければ関心もないことだ。でも永遠に私はこのまま無知で終わると思う……
アフリカ8カ国首脳との会合が終わったらしいが、早い話が日本からの支援をたかるのがその目的だ。しかしアフリカ大陸への支援ははっきりいって欧州のかつての宗主国の仕事だ。かれらが植民地にした大陸の支援を何故日本がせねばならない??100歩譲って支援を決めてもいいがまず時の元首達の“財源”にしかならないことを覚えておくべきだ。さらにアフリカで多発する紛争は80%以上が国連常任理事国が輸出する武器、弾薬。その後処理を日本がする必要はない。ナイジェリアの様な産油国、または地下資源を持つ国にはどんどん“投資”すべきだが、それをより効果的にするには中国への円借款等の経済援助を打ち切ってから始めるのがより効果的だ。
それにより中国政府はアフリカに金をばらまくことが不可能になる。 
非加盟国との関係拡大…….7月7日夜、中国の国家主席が来日した。潘基文国連事務総長の姿もあった。
もうお祭りやなぁ……… どの国とどう付き合うかはその国の国益次第。日本の場合は政治家たちは日本の国益よりも自分の利益拡大の為に日本国益をないがしろにしてきただけ。 そんなことサミットで話すことかぇ?????

サミットというフィエスタはあと二日間残っている。個人的にはEURO2008の話を欧州からの記者と話し込んだりして楽しんではいるが、彼らはどういう記事を本国に送るのだろう……. 彼らは一様に言う。ここは環境は良い。IMCから洞爺湖まで遠くて不便だ。サミットが終わってトウキョウやキョウトに早く行きたい……….

まぁ早く終わって俺は週末に爆睡したいよ……….

日韓学生対決 隔世の思い

2008-04-19 | Weblog

1971年9月ソウルで開催されたミュンヘン五輪予選。大方では日韓で出場権を競うものと予想されていたにもかかわらず日韓揃ってマレーシアに敗れ出場権を逃したその結果を鑑み日韓両国のレベルアップの為に始まったと言われる定期戦は1991年長崎で開催された第15回日韓サッカー定期戦を以て終了した。
この代表の試合の“前座”として日韓の学生代表の試合も行われていた。1984年ソウルで行われた定期戦では日本はユニバーシアードチームを派遣したがその試合は韓国学生代表に逆転負けを喫している。そればかりかこの定期戦では確か日本学生代表は引分が数試合あるが1度も韓国学生代表には勝っていないはずだ。
当時の日韓戦を解説した岡野俊一郎氏は 

“学生が勝てないから代表も勝てないのです。”

と言っていたのを思い出す。Jリーグの発足する前の時代だったので学生レベルの強化は今以上に大切な時代であった。恐らく80年代まで学生の方が代表以上に日韓のレベル差があったのではないかと思われる。
1988年国立競技場で開催された日韓定期戦をスタンドで観戦したが、私にしては珍しくスタジアム入りしたのが早く“前座”の学生代表戦がまだ終わっていない時間に到着した。そしてその試合は引き分けに終わった。後でもっと早く来ればよかったと後悔した。
日韓学生のレベルが激変したのは何と言っても日韓対決となった1995年福岡で開催されたユニバーシアード決勝戦。日本は純学生代表。韓国はOBも含めた陣容。しかし結果は 2-0 で日本が快勝。試合内容も終始優勢で2年前に発足したJリーグと高校サッカーの狭間でスポットの当たらなかった学生サッカー関係者は大いに溜飲を下げたに違いない。 以降2001年から3大会ユニバーシアード3連覇を飾っている。 
学生の日韓戦に就いては自動車部品の開発で有名なデンソーがスポンサーとなり1997年からワールドカップ日韓大会の開催を記念して「日韓大学対抗戦」と銘打って開催されるようになった。2004年からは1年おきに日本と韓国で開催する定期戦(原則春季の3月、ないしは4月施行)として開催されているが、竹島の日に絡む日韓関係の緊張から2005年の開催(韓国ホーム)は一時凍結されていたが、12月に開催された。そして今年2008年は3月23日に東京国立競技場で大学日韓定期戦が開催された。 

当日は好天に恵まれしかも暖かい陽気で絶好の観戦日和。しかしながら観客席はぱらぱら。開放されたのは正面とバックスタンドの両面のみ。井原正巳と洪明甫が“親善大使”として招かれ、試合前にサッカー少年の質問に応えるアトラクションをするもあまり人は入らなかった。
ここ国立競技場の日韓戦では日本は良い成績を納められず1979年の日韓定期戦で2-1と勝利して以来勝ち星がない。そう思った矢先の開始57秒。DF金泉遇のスローインからFW金孝基が抜け出しフリーになったところを後方からのタックルで倒してしまいPKを取られる。これをMF権純亨が決めてあっさりと韓国が先制をした。両チームのフォーメーションを観る間も無いまま1点ビハインドの立ち上がり。あぁ日韓対決では国立に魔物が舞い降りるのか…. 
その後も韓国が攻勢に出る。4分には権純享が、7分にはMF趙梁鍋がそれぞれ左からミドルシュートを撃つ。 10分には左サイドバックの金泉遇が上がりクロスを入れると染谷(流通経大)に競り勝った金孝基が頭でおたした所をFW高敬旻がアクロバティックな態勢でシュートを撃つ。12分には権純享のスルーパスからMF金泰賢に渡るがシュートはGK東口(新潟経営大)がブロック。東口は今回の日本チームの中では唯一昨年も選ばれたメンバー。(昨年は出場機会は無かった。)15分には金孝基が右から入れたクロスに高敬旻がヘッドを狙うが185cmの長身CB 中山(駒澤大)が競り勝ちシュートを打たせない。29分には金泰賢がミドルを正面やや右から放つがこれはバーを越えた。韓国はミドルシュートを打ち込んで来たりロビングを放り込んできたりと日本のDFを前に出させその裏を取ろうとしている。また最終ラインの上がりが早く前線との間をコンパクトにしボールがある周りには常に数的優位を作る。そして30分を過ぎると今度は金泰賢がドリブルを使って攻め込む様になる。日本は前線の二人、渡邉(早稲田)と伊賀(静岡産大)の二人が孤立してしまいそこにボールが出ない。ゴール前にハイボールを入れようにもCBの二人、李庚が192cm 李龍起が189cm なのでそう簡単に放りこめない。
しかし35分を過ぎると日本のMFがボールをキープできる様になりまた中盤の押し上げも出て来てボールが繋がる様になる。37分には伊賀が右サイドをドリブルで上がりクロスを入れるがGKがキャッチ。初めて韓国ゴール前にボールが入った様だった。そして2列目右の伊藤大介(順大)がドリブルで右サイドを突破するシーンが続く。38分には逆サイドの平木(流通経大)に折り返しシュートを導き、40分にはスルーパスを三門(流通経大)に通しそこから平木に送るがわずかに届かない。
そしてその直後に同点ゴールが生まれる。伊賀がペナルティーエリア内で粘って渡邉に送り渡邉がそのまま韓国ゴールに捩じ込んだ。ようやく前線の二人がバイタルエリアでボールをキープ出来たので生まれた得点であった。伊賀はロスタイムにもドリブルで持ち込んでシュートを放つ。これは得点にならなかったが前半の終り頃になって伊賀のみならず日本選手にようやくエンジンがかかって来たようだった。

後半になると日本は見違えるように最初の1歩が非常に速く鋭くなる。韓国選手は中盤ではボールにほとんど触れ無い。52分に渡邉の放ったミドルシュートはGK朴俊五の正面に。そして56分三門のスルーパスが韓国CB李龍起の裏に走り込んだ宮崎(流通経大)に通りそのまま宮崎は韓国ゴールに蹴り込んで逆転ゴールを生む。三門、宮崎共に流通経済大の選手。ここはあうんの呼吸か、見事なスルーパスのタイミングであった。この日のスタメンは4人が流通経大の選手。GK東口(新潟経営大)、FW伊賀(静岡産業大)以外は全て関東学連の選手。関西勢は3人選ばれたがベンチ入りしたのはMFの大屋翼(関西大)一人だけであった。ここで韓国ベンチはMF高敬旻に替えて昨年もこの日韓戦に出場した権景昊を投入する。
その前に投入された権亨宣も前年の学生選抜に選ばれたらしいがベンチ入りは出来なかった様だ。
更に2列目の趙傑鎬に替えて尹大根を投入する。日本も66分に渡邉を下げて池田(延べ5人目の流通経大選手)、平木に替って島田(駒澤大)を入れる。
さすが権景昊は昨年の経験者。ボールキープ力がありチャンスを作る。69分にはGK東口がパンチングしたところをそのままボレーで狙うがここは宮崎がブロック。70分には右サイドをドリブル突破し鄭赫にスルーパスが通るがフリーでシュートを放つが外してくれた。完全に同点ゴールかと思ったのだが助かった。試合を決定づける為にも追加点が欲しい日本は72分交替出場の島田が左サイドから入れたところを伊賀が撃つが韓国の左サイドバックの金泉遇がブロック。その後の宮崎の入れたCKのこぼれたところに詰めた染谷(流通経大)が撃ったシュートはクロスバーを越える。74分には右サイドから入れられたゴロのセンタリングをフリーでシュート体勢に入った伊賀が空振り。それでもボールは左に転がり島田が走り込んで撃つがゴールの枠を捉えられない。83分には韓国ゴール前の混戦から最後は池田圭が至近距離から撃つがGK朴俊五がパンチで防ぐ。残り時間が少なくなってきたとはいえ粘り強い韓国の事だからこのまま容易に逃げ切れるとは思えない。しかし85分、韓国ゴール前の混戦からこぼれ球をしぶとく拾った伊賀が3点目を叩き込み試合を決定付けた。
最後は三平(神奈川大)が右サイドで何度もドリブル突破を見せた伊藤大介に替って投入される。私の隣に座っていた家族づれの中の子供が “大ちゃ~ん”と叫ぶ。どうやら身内だろう。母親と思われる人に “14番、ドリブル良かったですね。”と言うと丁寧に “どうも応援ありがとうございます。”と言われた。
そしてタイムアップ。初めて日韓戦で日本が勝った試合を観戦出来た。スコアーは 3-1 だったが、権景昊が投入されてからピンチを何度か招き、それを決められていたら勝敗は替わっていたかもしれない。しかし韓国学生選抜は思っていたほど激しくは来なかった様に見えた。また1対1の局面では日本がほぼ優位だったと思う。
この中からJリーグ、代表入りする選手も出て来るかも知れない。韓国の方も代表入りする選手が出て来るだろう。 これからまたどこかで彼らが違ったユニフォームを着た時に見る事を楽しみにしながら帰途についた。

あぁ俺がこの国立競技場で走ってからもう20年以上が経ったなぁ………

  


無念の敗退 五輪出場ならず、でも俺はそこで観たかった…….

2008-04-18 | Weblog
マイナースポーツなんて誰が創った言葉なのだろう?? 
やっている本人や関係者達はマイナーもメジャーもへったくれもないのだ。皆全身全霊、力のある限り自分の取り組んでいる競技に打ち込んでいるのだ。
私は兼ねてから日本ほど先進国の中でスポーツ後進国は無いと思って来た。それは五輪のメダル獲得数や世界選手権やアジア大会での結果を比較しているのではない。その価値観の低さである。恐らく人気のある芸能人やアイドルタレント、お笑い芸人の方が世間一般で上に看られているのではないだろうか? 
大学時代の事だ。当時日本マラソン界は瀬古利彦選手と中山竹通選手の二人が日本のみならず世界のマラソンを牽引する選手で陸上競技の現役選手であった私はいつの日か彼らみたいになりたいと(その時は)本気で練習に没頭していた。(結果はさっぱり届かなかったけど。) 
東京国際マラソンの表彰式の模様が述べられた記事を専門誌に見つけた。当時の司会は後に癌で亡くなった逸見正孝さん。そして記念品のプレゼンターは当時全盛期だったおニャン子クラブの中でも一際人気の高かった国生さゆり。彼女も結構陸上競技をやっていた時期があったのはその当時から知っていた。
中山選手が国生さゆりから記念品を受け取り握手を交わした様子がその記事に載っていたけど、私はそれを複雑な気持ちで読んだのを覚えている。

“中山くらいにならないと国生さゆりと握手出来ないのか………” それだけ世間では国生さゆりの地位が高いのか、陸上選手を誰も知らないのか…….

4月13日午後2時5分。私が子供の時から変わっていない御馴染のNHKのスポーツ中継のテーマ曲が流れて来る。 1985年10月26日、サッカーのワールドカップ予選の中継がこの曲と共に始まった時 “あぁ、サッカーの日本代表の為にこの曲が流れた。”と思い、そして今 “男子ホッケーの為にこの曲が流れている。”と思った。この日の関東地方は曇り時々雨、試合のあった岐阜のグリーンスタジアムの天気はどうだったのだろう。スタンドはほぼ満員だ。全国から熱心にホッケーを愛する人たちが多くやって来たのだろう。この競技場も立派だが、マレーシアの Bukit Jalil 競技場の様にもっと観客の入る競技場であればこの試合を完全に“ホームゲーム”に出来ただろうに….と思うのは私だけか?? それでも試合開始前からここに集った人達は精一杯の声援を “さむらいJAPAN” に送る。
赤堀主将がホッケー人生を賭けてこの試合に臨むと試合前に話していた事がテレビを通じて紹介される。私も 
 “マイナー競技が何だ、オリンピックは出たもん勝ちじゃ。出場権を勝ち取って鼻をあかしてやれぃ !! “
と勝手な意味のない声援をテレビに向かって送った。そして。NHKのアナウンサーの “歴史的な日に出来るでしょうか。” と言う言葉と共に古里のセンターパスで試合が始まった。このアナウンサーなかなか言うじゃないか….. しかしフィールドの上もなかなかだ。坂本、古里が積極的にドリブルで仕掛ける。これまでドイツは5戦全勝。そして得点30、失点はなんと0だ。勝つ為には得点が必要だ。いやそれよりも失点しなければ良いのか?それにしてもドイツのレベルの高さはホッケー素人の私でも一目了然。先週のスイス、ポーランドはおろか前日のマレーシアとも格段の違いだ。まずロングパスが非常に速くて正確だ。あれだけ身体がでかいのに動きは早い上に小回りが利く。スティック捌きも違う。そしてあれほど有効だった片山や小澤のドリブルも簡単に行かせてくれない。 特に小澤にはマンマークがついていて自由にボールが出せないしもらえない。
それでも最初の絶好機は日本だった。11分に伊藤満が左サイドを上がりゴール前に入れたパスがドイツGK Ulrich Bubolz を破り坂本がフリーで飛び込むがスティックに当たったボールは浮いてしまいゴール枠を外れる。少しスティックの角度が違ったらそれこそ歴史的なシュートになっていたかもしれなかっただけに本当に惜しいチャンスだった。
その後は目を醒ましたのか、本気モードに切り替えたのかドイツの怒涛の攻撃が始まる。13分にFlorian Keller がワンハンドドリブルで持ち込みサークル内に打ち込めば15分にはFHから Niklas Meinert が打ち込みそこに Oliver Korn が飛び込むが必死の防戦で得点を許さない。 だが16分に Matthias Witthaus がセンターライン付近でパスカットをするとワンハンドドリブルで一気にサークル内に入って来てそのままリバースショットを左から右に放つ。これを走り込んだ Keller が合わせてあっさりと先制点を許してしまった。 勝為には絶対に先制点を…と思っていただけにこの失点はショックだった。
しかし、選手達はそんな事で怯んではいなかった。19分には小野からボールを受けた小澤が右から打ち込みボールがサークルの左に出たところを坂本が拾ってドリブルで粘る。そこにフォローに穴井が入りパスを受けるが穴井は上手にドイツ選手のキックを誘いPCを得る。予選リーグのドイツ戦では1つもPCを取れなかったが大事な決勝戦で技ありのプレーが出た。このPCのチャンスに山堀が放ったドラッグフリックはGK Bubolz のファインセーブに阻まれる。昨日のマレーシア戦からPCからの山堀のシュートはGKのファインセーブに阻まれっぱなしだ。その後ドイツはスクープからカウンター攻撃に転じ最後は Tobias Hauke からパスを受けた Korn がシュートを放つがバーの上を越えてくれた。その後も波状攻撃を受けるがGK三好が最後は足でクリアーしピンチを凌ぐ。22分には穴井がゴール右上にシュートを放つがまたも Bubolz がセーブ。その際に伊藤亮が Bubolz と交錯して倒れる。35分今度は片山がドリブルで持ち込みサークル内に侵入。そこから坂本がシュートを放つがおしくもゴールの右に外れる。この時点のシュート数はドイツ4に対して日本が6。これは日本の優勢かと思った32分、Zeller Christopher がドリブルで持ち込みサークル内に侵入したところを穴井が倒してPCを献上する。ここは穴井が行かなかったら Zeller にシュートを許していただろう。だがこのピンチは Zeller のシュートを坂本が跳ね返して凌ぐ。そして日本は攻勢に出る。右サイドを坂本が突破しサークル内に打ち込んだ所を片山が合わせに行くがここは防がれる。終了直後にはFHから片山が撃つがコーナーへ。坪内のFHからまたも片山がサークル内で粘るがここもクリアーされ、前半を 0-1 で終えた。シュート数ではドイツの5に対し日本は7で数では上回った。後はそのシュートをゴールに入れるだけなのだが…….. 

 

ドイツのセンターパスで後半が始まる。次に先に1点を取らないと….. と思った開始4分、PCを与えてしまい、Zeller に決められ追加点を奪われる。この追加点は痛いと思った。さらに47分にもPCを献上。今度もZeller が一旦他の選手にパスを出して坂本の動きを外して壁パスの様に戻って来たところを撃たれて3点目を喫する。残り時間は20分以上あるとはいえ、この時点で北京への路は閉ざされたのかも知れなかった。あぁ前半の最初のチャンスが入っていれば.......
日本は前半に比べると明らかに運動量が落ちた。それに気が付いたのかドイツはロングパスを多用しだし日本をさらに揺さぶる。前半は日本に攻めさせてスタミナ切れを狙ったのか……. そんな中気を吐いたのがGK三好。66分には Witthaus のシュートをファインセーブで防ぐ。しかし時間は過ぎる。日本はシュートサークル内に入れ無い。よしんば侵入してもドイツはゴール前に多くを配置しシュートを撃たせない。 それでも日本はドイツがカウンターに転ずれば必死に戻る。 
残り時間が10分を切ったあたりから私は涙が止まらなくなってきた。 ここにいる選手達だけではない、北京五輪出場を目指して来た関係者達、かれらの心中を察すると涙が止まらない。ホッケーだけじゃなく一度でもスポーツに取り組んだことのある人ならわかるはずだ。“マイナースポーツ”と言われてどんなに悔しい思いをしただろう。 アジア大会で中国がパキスタンに勝ってしまった時、欧州選手権でドイツがまさかの4位に終わった時、なんと不運が降りかかるのだろう…. と思った事だろう……. 68分にPCのピンチから今度は Draghun Sebastine に決められ予選リーグを同じ 0-4 のスコアーとなってしまった。
しかしまだ試合は終わっていない。最後に一矢報いてほしいと思った。1点を取って欲しかった。ホッケーをしている少年達に、これから目指すであろう子供達に意地の1発を….. と思った。そして終了直前にPCを得る。大歓声が起こる。
さぁ見せてやれ、 世界1位に日本の力を見せてやれ…………..

残念ながらこの決勝戦もドイツから得点を挙げる事が出来なかった。 ドイツの選手達は憎らしいほど勝って当たり前と言った表情。後半のシュート数は日本の2に対してドイツが9.最後に本領を少し発揮したと言ったところか…… 

 

大会期間中はグリーンスタジアムも多くの観客が詰めかけたらしい。特にマレーシア戦、決勝のドイツ戦はほぼ満員だったそうだ。遠くからここに駆けつけたホッケーファンも少なく無かったらしい。私もそこに居たかった………

夜のNHKスポーツ番組で山堀主将が “期待にこたえられなくて申し訳ありません。”と涙ながらに記者会見で語っていた様子が伝えられる。 貴方はちっとも詫びる必要はない。選手、関係者達には敬意を表する。五輪出場はならなかったが多くの人がこの大会を通じて日本選手の事、世界でもトップクラスのドイツの選手を知る事が出来た。私もその一人だ。 

ホッケーの試合のテレビ中継なんて五輪予選くらいしか無いのかもしれないがこの大会を中継したNHKにも敬意を表したい。そして民放は相変わらずくだらない春の特別番組ばかり垂れ流している……… あぁ日本が真のスポーツ大国になる日はいつなのだろうか…….. 

 

届かなかった北京五輪….. しかし強化は続けてくれ

2008-04-14 | Weblog


残り時間35秒。右サイドから塚田の放ったシュートはドイツの選手の足に当たりPCを得る。日本は最後のチャンスと言うよりも最後のプレーだ。北京五輪への可能性は全くない。センターサークルに戻ったドイツの選手達はもう五輪出場権獲得を喜んでいる。それはゴール前でスタンバイしている選手も同じだ。私の目からは涙が溢れている。

“決めてやれ。ここで一泡吹かせてやれ。あのGKから1点取ってやれ。そしてホッケーを目指す子供達に見せてやってくれ………”

もう時計は残り時間0秒だ。坂本がボールをセットする。そして撃つ。小澤がボールを止める。主将の山堀が渾身の力をこめて放ったシュートはゴールの僅か右に外れる。 40年振りの五輪出場を賭けた日本男子ホッケーの挑戦はここで幕を閉じた……….

フィールドホッケーは欧州では大変人気があり商用で出かけた時に現地にスポーツチャンネルでよくワールドカップや世界選手権が中継されそれをテレビ観戦をするのも楽しみに一つだ。ホッケーはマレーシアでも盛んで地元紙に紙面を大きく割いて国内リーグや国際試合の報道が掲載されているのをよく見る。ホッケーをやっていた人や長年応援して来た人には失礼であるが残念ながら日本ではホッケーはどちらかと言うとマイナーな部類だ。最近では女子の代表がアテネ五輪に出場を決め、タレントがスポンサーになったりして話題になり2006年12月のアジア大会で2大会連続五輪出場を決めた。 しかし男子は1968年メキシコ五輪以来出場出来ていない。1972年のミュンヘン五輪は参加資格がありながらエントリー忘れで出場出来なかったとある人から聞いた事があるけど……

ホッケーもサッカーを除く他の殆どの競技同様オリンピックが最もその存在価値を示す種目と思われる。
五輪種目に採用されたのは1908年のロンドン大会からと歴史も古い。ただその時は England, Ireland, Scotland, Wales と英国4協会が参加する形。1928年アテネ五輪でインドが金メダルを勝ち取りインドの時代が始まる。1885年にインドで最初のホッケークラブがコルコタで結成され1926年ニュージーランドと最初の国際試合が行われた。そのアテネ五輪の英雄 Dhyan Chand はインドと言うよりも世界でも伝説の選手で(ペレみたいなものかな?)後のインドの名手 Balbir Singh は“現代の Dhyan Chard “ と呼ばれパキスタンの名選手 Habib-ur-Rehman は”パキスタンのDhyan Chard “ と呼ばれたらしい。だが戦前は大英帝国の植民地でユニオンジャックの下でのプレーを余儀なくされた。以降インドはメルボルン五輪まで大会6連覇を果たす。特に1948年のロンドン大会は独立を勝ち取ったばかりでなく宗主国の地で地元英国を決勝で 4-0 で破り金メダルを勝ち取ると言う快挙に国民は狂喜したらしい。そのインドの連覇を止めたのがパキスタン。メルボルン五輪では決勝でインドに 0-1 で敗れるもその時のメンバー6人を擁して臨んだローマ五輪の決勝戦ではインドを 1-0 で破り雪辱。そしてその次の東京五輪では今度がインドが決勝でパキスタンを 1-0 で破り再リベンジを果たす。そして日本が最後に出場したメキシコ五輪では準決勝でインドはオーストラリアに 1-2 で敗れて決勝に進めなかったが予選リーグでもニュージーランドに 1-2 で敗れ、五輪史上初めてインドが2失点を喫した試合であった。尚このグループリーグで日本はインドと対決。 0-0 の55分インドにペナルティーストロークが与えられた事に腹を立てた日本選手達がフィールドを後にしてしまった。メキシコ五輪の決勝戦はパキスタンがオーストラリアを 2-1 で降し2大会ぶりの金メダルに。しかしインド、パキスタンで独占し続けた金メダルは続くミュンヘン五輪で途絶える。地元西ドイツが決勝戦でパキスタンを激戦の末 1-0 で破り1920年アントワープ大会以来52年振りに欧州に五輪タイトルを持ち帰った。そして世界のホッケー界は激変する。ミュンヘン五輪以降公式戦は人工芝で行う事が義務付けられスピード主体の欧州勢が台頭する事に。この影響か1976年のモントリオール五輪ではニュージーランド、オーストラリアのオセアニア勢が1,2位を占めパキスタンが何とか銅メダルを勝ち取った。大学の時にインド人の留学生がこの件に触れていた。
“あの決定は欧州人の陰謀だ。インドやパキスタンのテクニックに対抗する為にボールの良く走る人工芝を義務付けた。大体あれだけインド中にあるホッケー場をどうやって全部人工芝に張り替えるんだ……”
1980年のモスクワ五輪でインドが16年振りの金メダルを勝ち取るがこれは有力国の多くがソ連軍のアフガニスタン侵攻に反対して大会をボイコットした為でエントリーした国も6カ国しかなかった。続くロス五輪では共産陣営がボイコットした中パキスタンが決勝戦でドイツを 2-1 で破りミュンヘン五輪決勝戦のリベンジを果たし16年振りの金メダル。パキスタンの役員が“欧州の女性はパキスタンの男性よりも早く走る。だから我々はホッケーで勝たねばならない。”と言ったのが印象的だった。
ここでもインドは5位に沈む。2年前のニューデリーでのアジア大会決勝戦では地元開催にも関わらずインドはパキスタンに 0-7 で大敗した。この時既にインドの凋落は始まっていた。
1988年ソウル五輪英国が決勝戦でドイツを 3-1 で降して68年振りの金メダルを勝ち取りオランダが銅メダル。1908年大会以来初めて欧州勢がメダルを独占した。1992年バルセロナ大会ではそれまで2大会連続銀メダルのドイツが決勝でオーストラリアを 2-1で降しミュンヘン五輪以来の金メダルを勝ち取る。パキスタンがオランダに4-3で競り勝ち銅メダルを勝ち取ったが、これがパキスタンが最後に取ったメダル。そして世界のトップは欧州、オセアニア勢にとって代わられている。アジアでも勢力図に大きな変化がある。これまでインド、パキスタンの2強時代が長く続いたが1986年ソウルでのアジア大会決勝で韓国がパキスタンを破って以来徐々に力をつけた韓国が今やアジア No.1 の実力を誇るらしい。2000年のシドニー五輪では決勝に進出。オランダとの激戦は Penalty Shootout にまでもつれ込み惜しくも敗れ銀メダルに終わったがこの結果を聞いた時。

“一体日本は韓国に勝てる球技は何があるのだろうか…….” と呆然としたのを覚えている。

この五輪最終予選、欧州選手権の3位決定戦でドイツが格下のベルギーに敗れ最終予選に回って来たのだが関係者はその結果に愕然としたらしい。ドイツは世界ランク1位。何でここに回ってくるのよ…….私でさえそう思った。ドイツのこの予選の戦いぶりを見ても他国との実力差は明らか。欧州勢を1つでも五輪に出したいからわざとこの予選会に回って来たんとちゃうか……とさえ思えた。
リーグ戦でも日本はドイツに 0-4 で敗れている。 しかしドイツとて同じスティックを持った同じ人間。試合が始まる前から諦める理由は何もない……そう思いながらテレビの前で試合開始を待った………………. 続く

がんばれ男子ホッケー...... !!

2008-04-13 | Weblog
4月12日 vs マレーシア(世界ランク14位)

残り時間は2分。日本はこの試合4回目のペナルティーコーナーのチャンスを掴む。しかしこれまで3回のPCのチャンスには得点を挙げられていない。坪内が入れたPCを小澤がストップミスをして後ろにそらす、あぁこのチャンスも…と思うが小澤はすぐに拾う。そこにバルジットシンが詰めるが小澤はシンの左を破ってゴールの左に強いボールを送る。そこに坪内が身を挺してスティックを投げ出しボールを中に入れたボールは弾んでゴール前に。そこに吉田と片山が雪崩込み最後は片山が押し込む。私は思わず“やった~。入った。”と叫ぶ。NHKのアナウンサーもそう叫んだ。
しかしオーストラリア人のグライムアンパイアがもう一人の英国人のハミッシュ=ジェームソンアンパイアーに確認に行き正式にゴールを認める。日本がついに同点に追いつき決勝進出に大きく一歩前進した瞬間だ。 

 

ここでマレーシア選手達がアンパイアーに詰め寄る抗議を始めるボールが弾んだ時にシュートに入った片山の足に当たったとの抗議だが判定は覆らない。 Kumar S Sathis マレーシア監督も納得がいかない表情でアンパイアーに何が言っている。マレーシアの選手達がフィールドから引き揚げて来る。役員達も出て来て最後は Sathis 監督に促されるように選手達はピッチに戻る。試合は5分程度の中断を経て再開となった。残り時間は1分47秒。この時間を凌いで日本は明日、ドイツとの決勝戦に駒を進める事が出来た。

2006年12月ドーハで行われたアジア大会。日本男子ホッケーは準決勝に進出するも準決勝で韓国に 0-2 で敗れ3位決定戦では強豪パキスタンに山堀貴彦の得点で先制するなど健闘するも 2-4 で敗れ、北京五輪出場権は2008年4月5日から岐阜で開催される最終予選まで持ち越しとなった。この予選は参加6カ国が総当たりで順位を決め上位2カ国で決勝戦を行いたった1つの出場枠を争う。世界ランク11位の日本は世界ランク1位のドイツには勝てなくても14位のマレーシアには勝って決勝進出を果たしたいところだ。
これまで日本はドイツに敗れたものの3勝1敗。マレーシアは世界ランク37位のイタリアに引き分け2勝1敗1分け。この日本戦に勝って2大会ぶりの五輪出場に望みをつなげたいところだった。
アジアカップが開催されたマレーシア、クアラルンプールの Bukit Jalil National Stadium 。ここは色々な競技場が集まっている Sports Complex になっておりフィールドホッケーの立派なスタジアムもあった。マレーシアではホッケーは人気のスポーツ。地元紙でも結構国内リーグを報道しており、アジア大会ではメダル獲得の有力種目。そして数少ない五輪出場が期待できる種目でもある。2007年12月にはオランダやニュージーランドを招いて国際大会も開催した。最近ではインドから“経済的な理由で”マレーシアにやってくるホッケー選手も少なくないらしい。
マレーシアは日本が最後に五輪出場を果したメキシコ五輪の次のミュンヘン、モントリオール五輪では8位に入っている。以降ロス五輪では10位、バルセロナ9位、アトランタ11位、シドニー11位の成績を残している。アジアホッケーでは日本とは長年のライバル。お互いに世界の舞台に出るには直接対決で破らねばならない相手。
2000年大阪で開催されたシドニー五輪予選では先制しながら 1-2 で逆転負けを喫し五輪出場を阻まれた。最近ではドーハのアジア大会では山堀の2得点で2-2 で引き分け準決勝進出を果たした。

この北京五輪予選のマレーシア戦は大会前の予想通り決勝戦でドイツへの挑戦権を得る為の試合となった。イタリアに勝っている日本はこのマレーシア戦引き分けでも良かった。試合は開始からマレーシアの攻撃時間が長く優勢に試合を進める10分にはマレーシアの波状攻撃をGK三好が何とかゴールラインの外に出してピンチを防ぐがマレーシアはペナルティーコーナーのチャンスが続く。マレーシアはこのチャンスに最後は長身のチュアが決めて先制ゴールを挙げる。チュアはアジア大会の日本戦でも得点を決めている。日本はスイス、ポーランド戦に続いて先制点を許す事になった。先制後のマレーシアはゴール前を堅めカウンター攻撃に出る戦術を取るがこの戦術は世界的にも定評があるらしい。そしてこれまでの対戦国とはスティックさばきが異なる事は一目了然で前の3試合では相手国が誰も触れられなかった坪井のドリブルにもしつこく食い下がって来る。それでも日本は21分坪内の右からのフリーヒットに小野と交替で入ったばかりの伊藤亮が合わせて同点に追い付いた。
しかし同点に追い付くと勝たねばならないマレーシアは積極的に前に出て来る。25分にはモハマッドマズリのフリーヒットからピンチを招くが何とかクリアー。しかし26分にはカウンターに転じたジウロンのドリブルを小澤がファールで止めしかもイエローカードを受けてしまい5分間の退場となってしまった。このチャンスをマレーシアが見逃すはずもなく攻撃に人数を賭けて来る。28分には果敢に日本ゴール前に攻め込み決定機はGK三好がセーブ、そのこぼれ球も拾われまたもピンチを招きシュート体勢に入ったイスマイルに伊藤亮が体を寄せてファールを取られPCに。そのPCからクヴィンダーシンが撃ったシュートをフィールドプレーヤーの吉田が足で止めて今度はペナルティーストロークに。そのPSをジワが右隅に決めて 2-1 と勝ち越される。その直後に小澤が戻って来て人数が揃うがマレーシアに追加点を許してしまう。後方からトゥンクダジュディンに渡りピンチを迎えたところを倒してフリーヒット。そのフリーヒットのクリアーボールが浮いてしまい丁度クヴィンダーシンの前に落ちてそのまま押し込まれ 1-3 と2点のリードを許してしまった。
これは苦しい展開になった。しかし日本はすぐに1点を返す。坂本が右サイドをドリブルで破りファールを貰ってフリーヒットのチャンスを掴むと伊藤亮が入れたFHに小野が合わせて得点を決めて 2-3 と1点差に。前半終了18秒前の貴重なゴールであった。
後半は立ち上がりからマレーシアが攻撃に出て来る。2点差にして安全圏に逃げたいのだろう。しかしフリーヒットからのピンチ等を凌いで10分を過ぎると日本が主導権を握りだす。48分には坂本のドリブルが相手の足にあたりFHのチャンスを得る。坪内のFHがマレーシア選手の足に当たってPCを得る。しかし山堀のゴール左隅に飛んだシュートはGKクゥマールがセーブし同点ゴールが割れ無い。すると53分今度はマレーシアにPCを与えてしまうがここはアズブンのシュートを三好がファインセーブで防ぐ。55分、坪内のFHがクヴィンダーシンの足に当たってPC。しかしこのチャンスは小澤がストップに失敗してシュートに至らない。57分にもFHを得て坪井が坂本繋いで中に入れるがここはマレーシアDFが分厚い守り。 そして残り時間10分を切るとマレーシアも守備を固めカウンター攻撃に転じるしかもカウンター後の戻りも早い。66分には片山の左サイドに切れ込んだドリブルからこの試合3つめのPCを得る。しかしここからの坂本のシュートもGKクゥマールがファインセーブ。GKクゥマールはこの大会最優秀GKに選ばれた。 残り時間が刻一刻と過ぎ日本にとっては苦しい時間が続く。 67分日本は最後のチャンスを作る片山がドリブルで持ち込み倒されてFH.サークルトップからの坪内のFHからのシュートはまたもGKクゥマールにセーブされサークルの外にクリアーされるが、その前にマレーシア選手の足に当たったとの事でPCを得る。残り時間は2分。最後のチャンスになった。坪内がボールをセットする。明日ドイツへの挑戦権を得る為のラストチャンスになると……..

まさに起死回生の同点ゴールだった。マレーシア関係者はFHI 国際ホッケー連盟に抗議文書まで送ったがもちろん判定は変わらない。このメンバーは違う。かならず何かやってくれると期待させられると思った……

   

4月5日 VS スイス(世界ランク33位)
岐阜県各務原市の岐阜グリーンスタジアムで開催された北京五輪最終予選。たった一つの出場権を求めて6カ国が集った。40年振りの五輪出場権獲得に向けて日本の初戦はスイスだった。試合は開始から世界ランクの差がそのまま出た様な内容。運動量、テクニックで日本が上回る。古里、田中がチャンスを作るが最後のシュートサークル内でパスが通らない。開始4分には片山がフリーでシュートを撃つがGK Eglof がストップ。その後PCのチャンスから山堀が撃ったシュートはゴールの左上に外れる。結局前半スイスにシュートを1本も撃たせなかったが日本も無得点に終わり 0-0 で前半が終わった。
この競技場はホッケー場が2面並んで取れるが横の面に仮設スタンドを建設し3,000人の観客が入れるようにしたらしい。日本も早くマレーシアの様に専用の立派なスタジアムを造ってほしいのだが…….

前半は初戦の硬さが目立った日本だが後半は何と先制点を許してしまう。38分、左サイドを上がる Bergmann のドリブルを尾藤がファールで止めてPC. Kloter がいれたショットからのシュートを一旦はGK三好がストップするもボールが Kloter の前に転がりそのまま押し込まれて先制されてしまった。
しかし3分後に日本は同点に追い付く。ロングパスがゴール前の川上に送られるが僅かに長すぎてコントロール出来ない。そのこぼれ球をGK Egloff が足でクリアーそのこぼれ球を今度は坂本が拾ってドリブルで右から入れたセンタリングに片山が合わせて同点ゴールが生まれた。 満面の笑みを浮かべる日本選手達そして日本ベンチ。この同点ゴールで硬さから解放されたか日本がほぼ試合を支配する。そして59分小澤のドリブルから入れられたセンタリングを一旦は外に出るが中に再び折り返し中に入れたところGK Egloff が故意にボールを覆い隠したとしてPCを貰う。 この坂本が入れたPCを小澤が止めて山堀がフリックシュートを決めて逆転。 日本がようやくリードを奪った。残り時間10分。スイスは打ち込みから日本のシュートサークル内に侵入するチャンスが2度ほどあったがシュートには至らずそのままタイムアップ。結局スイスの撃ったシュートは前半の得点に結びついた1本だけであった。
五輪出場を目指す日本は何とか白星スタートを切った。試合終了後の長屋監督の表情も嬉しさよりも安心感が漂っていた。

  

4月6日 vs ポーランド 世界ランク21位
日本の2試合目は翌日のポーランド。世界ランクは日本より下であるが、初戦のマレーシア戦を 1-2 で逆転負けしている。日本と同等の世界ランク14位のマレーシアに健闘した事で日本も射程距離と見積もられている事だろう。そしてこの試合に負けると決勝進出が絶望的になるのでこう言った時のポーランドは要注意だ。開始5分、日本は小澤が起点となり右サイドからボールを繋ぎ最後は小澤に戻りそのままドリブルでシュートサークルに迫ったところファールを貰ってPCを得る。しかしそこからの山堀のショットは GK Matszak がストップ。9分にはFHのチャンスを掴み坪内のショットからゴールを割り先制点と思わせるもその前に日本のファールを取られノーゴール。先制の好機を立て続けに逃した10分。ポーランドに攻め込まれ Rachwalsky のシュートをGK三好がスティックで邪魔したとペナルティストロークを与えられ Dutliewicz が右隅に決めて先制を許す。
これで開幕2試合連続先制ゴールを許す事に。更にセンターパスの直後もカウンターを許し最後は Rachwalsky にシュートを撃たれるがここはGK三好が足でセーブし追加点を阻む。その後も日本は攻めはするが同点ゴールが生まれない。15分には坪内のドリブルに振り切られそうになった Siejkowsky が足を出してファール PC を得るが山堀のショットは右上に外れる、1分後の山堀のドリブルシュートがまたも右に外れて行く。しかしその1分後の25分に同点に追い付く。坂本のドリブル突破を最後はプッシングで止められこの日3回目のPCを得ると山堀が撃つと見せかけ伊藤亮が撃ったシュートが同点ゴールとなった。どうやらこの試合展開に焦っているのは私だけの様だ。その後も運動量で上回る日本がポーランドゴールに迫る。28分、31分連続してPCを得るが山堀のショットはGK Matszak のファインセーブもあり逆転ゴールに結びつかない。前半もこのままで終了かと思われた34分。小澤からボールを受けた坪井が右サイドから切れ込みサークル内に入ったところでPCを貰う。そのチャンスに吉田が決めて良い時間帯で逆転をし前半を終えた。 ただ山堀がPCから決められないのが気になったけど……
後半、試合の主導権を握る為にも先に得点を挙げて2点差にしたいところであった。開始から運動量とスピードでポーランドを圧倒しゴール前に迫る。そして45分右サイドで小澤からボールを受けた穴井がセンタリング。伊藤亮のスティックに当たって大きく跳ねあがったところを片山が落し込んで3点目をゲット。これでこの試合の主導権を完全に握った。そしてPCからでない得点が大きかった。52分にはスクープから坂本を経て穴井に繋がれ、Malecki, Juczczak をかわしてそのままシュートを決め 4-1。坂本、穴井は共に天理大学の学生。お互いをよく知るコンビネーションか。
負けたらあとが無いポーランドは54分にPCを得る。そこからのシュートチャンスも伊藤がブロックし、次のPCは三好がファインセーブで防ぎ3連続目のPCからの Juszczak のシュートは右に大きく外れ2点目を挙げられない。
そして60分に日本はカウンターから古里、小野と繋ぎフリーで抜け出た小野をGK Matszak がファールでストップ。ペナルティーストロークが与えられそれを山堀が決めて 5-1 。63分にはまたも古里、坂本で縦に突破し最後は坂本が押し込んで 6-1 。最後まで走力の落ちない日本は更に坂本がフリーで持ち込むなどチャンスがあったが 6-1 のままタイムアップ。ポーランドにシュート15本を浴びせ欧州の代表相手にこれだけ差をつけられる球技が野球以外に何かあるだろうかと思いながら余裕を持ってテレビ観戦が出来た。

このチームを五輪に行かせたい…..心の底からそう思っていると決勝戦のドイツ戦の放映開始時間が来た…….




惜別ワンシントン 有終の美

2008-01-02 | Weblog
12月16日。久しぶりに小学校6年生の息子とテレビ観戦はFIFA Club World の3位決定戦。試合はPK 戦にもつれ込む。画面には浦和の4人目磯貝が映し出される。

“磯貝が決めたら大きいゾ”
“え?何で?”
“磯貝が決めれば次のエトワールの選手が失敗したらそれで終わりだし、例え決められてもREDSの次の選手が決めればREDS の勝ちだ。”

磯貝はそのPKを決めて、エトワール・サヒレの4人目、ボランチのトラウイがスポットに向かう。REDS サポーターのブーイングの中トラウィが蹴ったボールは右に倒れ込んだGK都築が足で止め、浦和 REDS がこの大会の3位を決めた……

AC Milan に敗れたものの浦和にはまだ3位決定戦が残っていた。3位決定戦というものはサッカーのメジャーな大会では五輪以外あまり重要視されているとは思えない。UEFA現会長のミシェル=プラティニ氏は現役時代2度経験したワールドカップの3位決定戦には出場をしていないし、欧州選手権では1984年大会から3位決定戦が無くなってしまった。しかしそれは裏を返せば欧州のサッカーの世界の事なのかもしれない。この日の対戦相手はアフリカ大陸王者の Etoile Sportive du Sahel 。彼らとて3位決定戦に低いモチベーションで臨んでくるとは考えにくく、そのぶん締まった試合が期待できそうだった。エトワール・サヒレのあるチュニジアとは代表レベルでは日本はまだ負けた事がないがそれは対戦が1996年以降に限られているからだ。1978年ワールドカップアルゼンチン大会ではメキシコを逆転で 3-1 で破りアフリカ勢初白星の快挙を成し遂げた。日本がまだまだワールドカップを遠くから眺めていた時代だった。その後ワールドカップでは1998年大会から3大会連続して大陸予選を突破しており、2004年には Africa Nations Cup でも優勝を納めた。エトワール・サヒレはそのチュニジアきっての名門チーム。2004、2005年のCAF Champions League では決勝戦で涙をのみ、今回は大会2連覇中のエジプトのアル・アハリを2試合合計 3-1 で降し2年前の雪辱を遂げ Club World Cup 出場を決めた。 1998年のワールドカップフランス大会には10人の選手がエタワール・サヒレに所属しており、欧州クラブがアフリカ選手を多く登用する様になって以降でも2002年大会では3人、昨年のワールドカップでも1人ワールドカップメンバーに名を連ねている。
この日のスタメンは準決勝のボカ・ジュニオルズ戦で起用された左サイドバックのヘジャウィに替ってメリアフが、ナリー1人のワンボランチにトウライを加えて2ボランチにし、トップ下のガルビを外しFWはシェルミティとベンディファラー。シェルミティは身長176cmだがスピードがあり今年6月のチュニジア代表デビュー戦ではゴールを決めるなど次第のチュニジアを背負う存在の19歳。(大会終了後20歳に)。エタワール・サヒレはシェルミティ以外は全員が180cm以上の身長でそのフィジカルは大きな壁となった事だろう。
一方の浦和は闘莉王が怪我で離脱したのでCBには阿部が入り鈴木、長谷部のボランチ。トップ下には山田がスタメンに名を連ねると言う ACMilan 戦の闘莉王が怪我でベンチに下がった直後の布陣だった。

エタワール・サヒレのキックオフで始まった試合は開始から浦和がエタワール・サヒレ陣内に入りこむ。2分には永井が右サイドからゴロのセンタリングを入れるがコーナーに。3分には山田が左サイドから入れるが右サイドバックのフレジュに当たる。3分には細貝が右サイドから入れたクロスを永井と競ったフレジュがコーナーに逃げ、そのCKにネネが飛び込むが体に当たっただけでシュートにまでは至らなかった。そしてそのこぼれ球を拾われカウンターから右サイドのメリティが一旦ボランチのトラウィに下げそこからロングフィードが前線のシェルミティに送られる。その流れ玉を一旦は坪井がコントロールしたかに見えたがクリアーを誤りシェルミティに拾われそのままドリブルで浦和ゴールに突進する。そこを坪井が後ろからタックルに入りシェリミティを転倒させてしまう。

     

ニュージーランドのピーター・オレアリー主審はすぐにPKスポットを指さし、坪井にはイエローカードが出される。シェルミティはメリティと抱擁してこの判定を喜んでいる。そのPKをフレジュが落ち着いて決めた。GK都築もボールが飛んだ右方向に飛び手に当てたもののボールはそのままゴールネットに吸い込まれた。
      
      

FIFA Club World Cup ではこれまで逆転勝利の試合は無いらしい。エタワール・サヒレより短い中2日で試合に臨んでいた浦和にとっては痛い失点であっただろう。 その後も浦和は相手陣内に攻め込むがシュートまで運べない。クロスはあげられCKまでは取れるのだが攻撃時には5~6人で中を固められる。左サイドの相馬にはフレジュとメリティのいずれかがしっかりとマークに付く。またボランチの二人の攻守の切り替えが早くDFラインの上げ下げも正確で速い。ワシントンにはCBの189cmゲザル、186cmファルヒがしっかりとマークに付いている。24分には中盤でボールを拾った永井がドリブルシュートを放つ。これがこの試合浦和の初めてのシュートであったがGKバルブーリに脅威を与えるものでは無かった。その直後に今度はエタワール・サヒレが分厚い攻撃を見せる。左サイドのメリアフがクロスを上げ相馬がヘッドでクリアー。それをベンディファラーに拾われシェルミティを経由して右サイドのメリティから入れたクロスはネネがタッチラインに逃げる。フレジュが入れたスローインをメリティが再びフレジュに戻して右サイドから入れたクロスは都築がキャッチした。攻守に早い切り替えで人数をかけるエタワール・サヒレに対し後手に回っていた浦和だが35分にこの試合2本目のシュートが同点ゴールとなる。右サイドから山田が入れたクロスはファルヒがヘッドでクリアーを。その弾んだクリアーボールをメリティーが蹴りだせず後ろの相馬に。相馬が入れたクロスに長谷部が飛び込んできたが更に右にいたワシントンがファルヒを押しのけるように合わせたヘッドはそのままエタワール・サヒレゴールネットを揺さぶり試合を振り出しに戻した。

                             

ワシントンの突破も見事だったがもう一人のCBゲザルは長谷部の動きに目を奪われワシントンにまで注意が行かなかった。そしてメリティのクリアーボールのコントロールの誤りもラッキーだった。これで両チーム相手DFのミスから得点を決めたことに。そしてこの同点ゴールを境に浦和がシュートにまで持ち込む様になる。38分には相馬からボールを受けたワシントンがケザル、ファルフィ、トラウィを背負いながら長谷部に戻してミドルを誘う。39分には右サイドを上がった山田がオフサイドギリギリのポジションにいた永井に送り一旦は永井の踵に当たったがそれをうまく拾って入れたクロスは長谷部にあたり角度が変わりワシントンに。フレジュ、ケザル、トラウィ、ナリーが一斉に飛び込むがその前にワシントンが放ったシュートは惜しくもポストを叩いてしまった。前半の途中からトップ下に長谷部を配し山田を右サイドに回し細貝をボランチに下げるというポジションチェンジが功を奏した。長谷部は飛び出しが良いし、山田は突破力があり磯貝は元々ボランチの選手。前半は浦和が良い形で終え、後半に期待を抱かせる展開であった。

後半は立ち上がりからエタワール・サヒレの攻勢が続く。47分にはトラウィがミドルを放ち、48分には右サイドをフレジュがネネを振り切り啓太と阿倍がマークに来たところを中に入れナリーがシュートを放つ。58分にはフレジュとメリディに右サイドを破られ中のジェルミティがネネのマークが入る前にショットを放つ。ネネのいる浦和の左サイドを突き、またロングボールをどんどん放り込みそのこぼれ球を拾われる。58分にフランス人ベルトラン・マルシャン監督はメリティに変わってボカ・ジュニルズ戦に続いてジウソン・シウバを投入し左サイドに入れアリナフハを左から右に回す。60分には右サイドからのメリアフのFKにフレジュが飛び込むがシュートはバーの上に。61分には左サイドをメリウフにドリブル突破を許すが入れられたクロスには誰にも合わなかった。62分には波状攻撃に会い、66分には右サイドをフレジュがシェルミティとのワンツーで抜けられるが啓太が戻ってカット。68分にはカウンター攻撃からアリナフハの突破を許し入れられたクロスは山田がコーナーに逃げる。そのファーサイドに送られたCKにファルヒとフレジュが飛び込むが坪井がクリアー。 
立ち上がりから劣勢を強いられた浦和だが70分逆転ゴールが決まる。左サイドから相馬が上げたクロスがフレジュの肘に当たってFK. その永井が蹴った低い弾道のFKをまたもワシントンが今度は身体をかがめて頭に当てエタワール・サヒレゴールにねじ込んだ。ワシントンより前の位置には細貝と長谷部がいてネァーサイドにはネネ、山田がいた。CBのゲザルは細貝と長谷部の動きに気を取られておりワシントンはノーマークだった。 ゴールを決めたワシントンはそのままゴール裏に陣取る浦和サポーターの前に駆け寄りユニフォームを脱ぎサポーター達の前にひれ伏した。
    
         

感動的なシーンだった。 これで後半最初のシュートが得点にそれも逆点ゴールに結びついた。この逆転ゴールを機にエタワール・サヒレは更にペースを上げる。71分にはメリアフの上げたクロスがフリーのベンディファラーを狙うがベンディファラーはヘッドを空振りしてくれた。75分には右サイドをシェリミティがドリブルで切れ込みネネがチェックに入り転倒するもノーホイッスル。しかしボールはそのままこぼれ阿倍がマークに入り続きもこぼれ球を拾いに来るが立ちあがったシェルミティは一旦都築が抑えたボールを蹴りだし、そのまま浦和ゴールにけり込み同点に追い付かれてしまった。
     
         
都築にすればキーパーチャージと思ったかもしれないがゴールインの判定は覆らなかった。同点に追いついたエタワール・サヒレは浦和ゴール前に張り付いた長身187cm のFWベンディファラーにロブやクロスを放り込む。83分にフリーで撃たれたベンディファラーのヘッドシュートはGK都築の正面に。86分にはCKから頭で合わされるがワシントンに当たってコーナーに。そのCKからファーサイドにいたベンディファラーがヘッドを撃つがこれも都築の正面。もしベンディファラーが本調子なら逆転ゴールを喫していたかもしれない。そのベンディファラーが下げられベンスナルが投入され、91分にはGKバルブーリに変わって2002年ワールドカップではチュニジア代表として来日したベテランGKアハメド・ジャウアチが投入されPK戦に備えられた。
そして行われたPK戦。浦和1人目のワシントンが決めたあとエタワール・サヒレのアリナフハのPKは左ポストを叩いた。以降浦和は阿部、永井そして細貝が決め、ゲザル、ベン・ナスルが決めたエタワール・サヒレは4人目のメジディ・トラウィを迎えた。同点ゴールを許した都築は右に倒れたがボールは………

   

浦和は大会3位となり有終の美を飾った。しかし他の大陸のクラブチームを破る事は出来なかった。(PK勝は公式には引き分け)2008年も日本で開催される FIFA Club World Cup 。我々が世界に誇れるのは大会運営力だけでなくJリーグもあるのだと言う事を少しは示せたと思う。年末に再び日本のクラブチームがアジア王者としてまたこの大会に参加している事を祈るよ。 でも1年経つのは本当にはやいなぁ………

      

浦和REDS精一杯の“惜敗”

2007-12-30 | Weblog

FIFA Club World Cup の準決勝戦の行われた12月13日はミラニスタ、イタリアサッカー関係者には極東の島国のクラブチームが例えアジア王者とは言えイタリアの偉大な AC Milan が負けるなど考える事もなかっただろう。しかし我々から見れば “日本サッカーの存在”を世界に知らしめる絶好のチャンスであった。もし万が一浦和 REDS が AC Milan を破ってくれたら……

今から16年前の4月。生まれて初めて訪れた海外(といっても会社の業務命令の出張だった。)はポーランドの見本市で有名な Poznan市。当時はワールドカップイタリア大会の1ヶ月半前。ホテルで初めて視た EURO SPORTS CHANNEL では連日ワールドカップの歴史や前年行われたワールドカップ予選の再放送をしていて“さすが本場欧州”と当時の“ワールドカップ”と言えばバレーボールと言われていた日本との違いを感じた。ある日上司や駐在所長らがカジノに出掛け、一人ホテルに居残った夜、欧州 Champions Cup の準決勝戦 AC Milan 対 Bayern Munchen のゲームがロビーの大型テレビに映し出され、その前に5~6人の人集りが出来ていたのを見つけた。イタリアやドイツそして地元ポーランドと言った欧州人ばかりでビールや水割り等アルコールを片手に談笑とテレビ観戦を楽しんでいた。そこに“アジア人”の私が入って行ったのだ。まだビジネス英語半人前だったが毎月(当時のサッカー専門誌は月刊誌ばかり)サッカー雑誌を隅々まで読んでいたのでサッカーの知識なら、と彼らの輪に加わった。ワールドカップの話や欧州のカップ戦等の話をして楽しい時間を過ごした。やがてAC Milan が1-2 で敗れたもののアウェーゴール数でバイエルンを降し決勝進出を決めた試合の中継も終わり、そろそろ宴も潮時と、お互いに握手をして別れたが、その際に一人のイタリア人が私にこう言った。

“日本人なのに随分サッカーに詳しいなぁ。日本にもサッカー選手がいるのかぃ?” 

彼に悪気が無いのはよく解っていたがはっきり言ってショックだった。1968年にメキシコ五輪で銅メダルを獲得した事や70年代から80年代中盤にかけて奥寺が Bundesliga で活躍した事…….なんてしらなかっただろうなぁ……..

それが当時の世界のサッカー界における日本の地位であった。こあれから時は過ぎ、日本代表はアジア王者、ワールドカップの出場を果たし、日本はワールドカップのホスト国にもなり着実に“日本サッカー”は前進を続けている。そしてこの AC Milan 戦は“日本サッカー”がどれだけ世界に近づいているかを測る絶好の機会でもあった。 70年代に来日した海外のクラブチームの中には羽田空港に到着しそのまま国立競技場に直行して試合を行うという条件下でも日本代表を破ったと言うチームがいくつかあった。しかし、AC Milan はこの大会の為に UEFA にChampions League の日程変更依頼をしてまで最初の試合の1週間も前から日本入りをした。時差対策も専門医と相談し来日前の11月30日から調整して来たらしい。これで日本の数少ないアドヴァンテージが一つ減った。

12月1日には Serie A で Juventus と 12月4日には UEFA Champions League で Celtic との試合を こなし、そのメンバー構成を見てもこの大会と言うよりの浦和戦に照準を絞って来たのが想像できた。 GKはCeltic 戦で起用された元オーストラリア代表GKカラッチのスタメンかとも思ったがジダ。アトランタ五輪の日本戦ではアウダイールと交錯して日本に決勝点を献上する原因を作ってくれた。この試合ではどうだろう? 4バックのDF陣は左サイドバックがJuventus 戦でも Celtic 戦でも起用されなかったヤンクロフスキ。CBは右がネスタで左がカラーゼ、右サイドバックはオッド。中盤は左がアンブロシーニ、真中がピルロ。右にはガットゥーゾ。2列目はセードルフにカカー。この5人は Juventus , Celtic 戦共にスタメンで起用された。ただ Juventus 戦ではカカーとジラルディーノが2トップでセードルフがトップ下だった。そしてジラルディーノのワントップ。 Celtic 戦でワントップに起用されたインザーギはベンチスタート。一方の浦和は三日前の Sepahan 戦と同じスタメンだった。

歴史的な試合はキックオフの直後から浦和が攻勢に出た。開始直後には長谷部と細貝が連続してサイドからクロスを上げる。 Milan の選手がボールを持つと周囲を素早く囲み込み前に出させない様にする。4分には阿部がミドルを放つ。6分にはネスタからジラルディーノへのパスを闘莉王がインターセプトし攻撃に転じようとするところを闘莉王の右足首を後方からネスタが反則タックルで止め、イエローが出される。7分には右サイドで長谷部からボールを受けた細貝が粘り再び長谷部に繋ぎシュートに持ち込む。その直後にはピルロからカカーへ渡ったところをネネが奪い取る。カカーだけがこの試合のブラジル人選手ではないんだぞと言う意地もあるのか? 8分には細貝からペナルティーエリア内のワシントンに渡るがトラップが少し大きくシュートは撃てなかった。10分にはカカーがドルブル突破を図るがネネと阿部がストップ。大歓声に後押しされた浦和が立ちあがりいいリズムで Milan と渡り合うが
15分を過ぎるとそれまでは様子見に徹していたのか Milan が主導権を握りだす。
23分にはカカーが中央からドリブルで上がり阿倍とネネを引き付け右から上がって来たセードルフが闘莉王がマークに入る前にシュートを放つがGK都築がキャッチ。26分には相馬がピルロへのファールでFKを与えヤンクロフスキが撃ったFKは都築の正面に。27分ネスタからボールを受けたカカーが左サイドをドルブル突破。闘莉王、細貝、啓太がマークに入るが逆サイドに走り込んだアンブロジーニに渡り、中のジラルディーノに折り返されるが足下に入りすぎてコントロール出来ずGK都築が掴む。 40分には左サイドをヤンクロフスキ、アンブロジーニのパス交換で突破され中のカカー、ジラルディーノの待つゴール前にクロスが入るがここは坪井がヘッドでクリアー。Milan はロング、ミドルのパスそしてダイレクトパスを多用し、そして両サイドが高い位置に張り出してくるので細貝、相馬が押し込まれてしまう。
そんな中でも奮闘したのが阿倍。何度もカカーと対等にボールを奪い合い、32分と37分にはカカーが阿倍にファールで止める。

            


そして細貝が前に出られないとなるや永井が右サイドに流れてそこにボールが出ると長谷部が上がって来る。41分には浦和に良い形が出来た。ワシントンが中盤からドリブルで右から左へ斜めに上がる。ガットゥーゾ、オッド、カラーゼの3人がマークに着くがそのままキープし長谷部に下げる。長谷部から右サイドに流れた永井にクロスを入れ永井が頭で落とした所を啓太がボレーで撃ったが弾道はそれほど勢いがなくGKジダの正面に。そしてロスタイム1分を経て前半を無失点で終えた。前半32分に出たボール支配率では Milan の63% に対し浦和は 37% であった。浦和としてはワシントンが前半最後の攻撃で起点になった様に何とか良い位置でワシントンにボールが入れば…と後半期待する。

しかしながら後半は立ち上がりから Milan が更なる攻勢にでる。 48分にはカカーが右サイドを突破し、一旦後方のガットゥーゾに下げそこから逆サイドのヤンクロフスキに渡りダイレクトで撃たれるがファーサイドを狙ったシュートは僅かにポストの左に外れてくれる。50分には波状攻撃が浦和ゴールを襲う。ガットゥーゾからボールを受けたヤンクロフスキがアンブロジーニとのワンツーで抜け中のジラルディーノが撃ったシュートは戻ったネネが何とかブロック。そのこぼれ球を拾ったヤンクロフスキが再び中に入れるがフリーのセードルフにはオフサイドのホイッスルが鳴る。中2日での試合に浦和イレブンの動きが徐々に鈍ってきたのかそれともMilan がさらにテンポアップして来たのか。後半は開始早々からヤンクロフスキが高い位置に張り出して来る。そして1対1では競り負け、クリアーボールを高い位置に出て来たDFラインが容易に拾う。
それでも55分、ボールが Milan ゴール前に進む。左サイドを相馬が突破し阿倍に繋ぐ。阿倍はセードルフ、ガットゥーズをドリブルで振り切りオッドの来る前にシュートを放つ。そのシュートはGKジダの正面に飛ぶがジダは一旦前に落す。しかし永井が詰める前にカラーゼがジダとの間に入る。まだまだ阿倍の突破力は威力が残っているか?その間に何とかチャンスをつかめぬものかと思う。しかしその直後からも Milan の攻勢が続く。56分にはピルロからボールを受けたアンブロジーニが入れたロブをセードルフが胸でワントラップして相馬がブロックに入る前に放ったショットはサイドネットに。58分には坪井がチェックに入る直前にカラーゼがアンブロジーニに渡し、更に中のジラルディーノに渡るもそこからのシュートは大きく外れる。アテネ五輪では日本相手にアクロバティックなゴールを決めるなど2ゴールを決めたジラルディーノは当時パルマに所属していた。アテネ五輪の日本戦にはピルロもオーバーエイジ枠でエントリーされ出場した。浦和では闘莉王、阿部、小野そして田中達也がイタリア戦に出場し阿倍はゴールも決めた。ジラルディーノはその後 AC Milan に移籍しワールドカップ予選では8試合に出場し2得点。試合出場数ではルカ・トニに並んでFW選手では最多タイだった。2006年のワールドカップでも決勝戦こそ出場出来なかったが5試合に出場し302分間プレーした。この数字もワールドカップでもFWではルカ・トニに次ぐ数字。出場時間で言えばデルピエロやインザーギよりも長かった。しかしこの試合では思う様なパフォーマンスを披露出来なかったか62分にインザーギと交替でベンチに下がった。相手のワントップに仕事をさせなかった事は浦和イレブンに勇気を与えたか、65分には啓太からボールを受けた闘莉王が前線の永井にドンピシャのロングパスを送る。永井が入れようとしたクロスはネスタがコーナーに逃げる。67分には啓太からボールを受けたワシントンがアンブロジーニ、カラーゼの前でミドルを放つがジダがキャッチ。まだゴールは遠いが何とか先制点の希望が少し出て来る。しかし67分にはカカーが右サイドをドリブルで坪井、永井を振り切り中へ切れ込みシュートを放つ。これは戻った坪井がカバーに入りゴールインを防ぐが、その直後の68分、今度はカカーが左サイドを突破し坪井、闘莉王がマークに入るがゴール前に入れられ、走り込んできたセードルフがそのままプッシュし遂に先制ゴールを割られてしまった。

          

セードルフにボールが入る前に先にゴール前にいたインザーギにネネと相馬がマークに入りセードルフがフリーになってしまった。勝つためには絶対に先制ゴールが欲しかったのだが、そうさせないのはさすがに世界の Milan だ。
劣勢の中先制ゴールを許した浦和に更に追い討ちをかける様に76分には闘莉王が太腿を痛めたらしく山田と交替を余儀なくされる。

             

この交替はオジェク監督には痛かっただろう。小野伸二の投入時機がこれで遠のいてしまった。阿部が左のDFに入りネネがCBにそして長谷部がボランチに入り山田がトップ下に入った。阿倍が後方に下がったのは痛かったが、山田が投入直後に魅せる。都築からのフィードを頭で永井に落しそのまま右サイドからワシントンにクロスが入るがその前にカラーゼがクリアー。その直後にも相馬からボールを受け、左サイドを突破し切れ込んでシュートに持ち込むがコーナーに。10月28日の名古屋戦以来1カ月以上試合から遠ざかっていた山田だったがなんとかこの大会に間に合った様だ。
80分に Milan ベンチはヤンクロフスキに替えてマルディーニが投入されるがこれは想定内か想定外か? 81分には平川が相馬に替って投入される。なんとか同点ゴールをと思うが今季の Milan は残り10分で失点したの試合は Serie A でのパレルモ戦と Champions League のベンフィカ戦とセルティック戦の3試合あるが…..
しかしクロスは上げられるのだがなかなかシュートにまで至らない。ロスタイムの3分も過ぎようとする93分、カカーのスルーパスをカットした坪井がそのままドルブルで持ち込み山田を経由し細貝に。中に入れたクロスをカラーゼがヘッドでクリアーするがそれを平川が拾い山田に繋いでまたも右サイドの細貝に送られたところで無情のホイッスルが吹かれた。

やや安堵の表情を浮かべたが Milan イレブンではあったが、やはり“勝って当たり前”といった表情。カカーは“先輩セレソン”に敬意を表してかワシントンとユニフォームを交換していた。一方の浦和イレブンは無念の表情が消えない。

          

しかし前半は浦和の守備が機能していた。これは個々の能力がある程度のレベルの達しているからで1対1でまったく話にならない程個人差に開きがあればいくら守備が組織化されても機能はしない。個人では阿倍がミラニスタ達に印象を残したのでは無いか?前半はカカーと対等に競り合うシーンも。

          

ポンテがいればなぁ~、小野が万全の状態だったら、達也の怪我がなければ……そう言う思いが消えない。最後はカカーの個人能力1発にやられた様な結果だったが、全体では埋められない差が随所に合った様だ。浦和が三日前に試合をしていると言うエクスキューズがあるもののもし Milan が2点を挙げる必要があれば2点を取っていたかもしれないし、それ以上の得点が必要だったらその通りになっていたかもしれない。 Milan 相手に一人で状況を打開出来る選手はワシントンだけ。やはり日本人には難しいか?と思うもカカーもブラジル人だったっけ…….

翌日の新聞には“惜敗”の文字が躍っていたがそれが精一杯の報道だろう。この試合で少しはイタリア人に日本にもジョカトーレがいる事を示せただろうか………
だがサッカーは世界中にある。今度はアフリカ王者にアジア、日本の存在を示す番だった…….


浦和ドリームマッチを目指して vs Sepahan

2007-12-25 | Weblog
12月1日は我が親子にとっては “ Black Saturday “ であった。
12:00 Kick Off の J2 最終節で愛する京都サンガは草津相手にロスタイムで同点ゴールを喫し最終戦を白星で飾れずJ1昇格は入れ替え戦までお預けとなり、14:30 Kick Off の J1 最終節で浦和 REDS はJ2降格と最下位が決定している横浜FCにキングカズの“魂のクロス”に沈み手中にしかけいていた2年連続のJリーグタイトルを逸してしまった。この日失ったものは息子の応援する浦和の方が大きかった。
京都の方は対象チームの札幌が勝てばその時点で入れ替え戦に回る事となっており、結局札幌は逆転で水戸を降したのでその時点で京都の自動昇格は消滅していた。そして翌週のサンフレッチェ広島との入れ替え戦を制して見事にJ1復帰を果たしてくれた。
一方の浦和 REDS は11月14日さいたまスタジアム2002 でイランのSepahan を降しACL王者に戴冠して以降は11月28日に行われた天皇杯4回戦では愛媛FCに 0-2 で敗れるなど4試合では勝星は無くJリーグに関して言えば10月20日、第29節の千葉戦で 4-2 で勝って以来3分2敗。得点も11月11日の川崎戦でワシントンが決めたゴールのみだった。思い出したのは2002年の第二ステージ。第9節さいたまスタジアムでの名古屋戦、福田、トゥットのゴールで逆転勝を納め首位に躍り出て以降6連敗、しかもゴールもわずかに1得点のみで結局5位に沈んでしまった。 Jリーグ連覇を逃した悔しさを FIFA Club World Cup で“補填”出来るかは REDS サポーターでない私は解らないが、サッカーを30年以上観て来た私にとって公式戦で日本とアジアを代表する浦和 REDS が欧州王者の AC Milan とどういう試合をするのかは絶対に観てみたいものであり、こう言う機会を逸するといつまた巡って来るかわからない空前のチャンスでもあった。だが AC Milan と公式戦を行いたいのは浦和REDS だけではなく世界中に散在しており、この日対戦したイランの Sepahan も同じ思いである事はよく解る。それだけでなく ACL で浦和REDS に敗れたその“リベンジ”を果たす絶好の機会でもあり、12月10日の浦和戦に勝つ事が出来ればACL 決勝戦での敗戦を埋めて有り余る価値がある。
3日前の Waitakere United 戦を 3-1 と快勝した Sepahan の先発フォーメーションは11月14日のさいたまスタジアムでの 4-4-1-1 と異なりその前週のホームでの 4-2-3-1 と同じ布陣。そしてメンバーも替えて来た。Waitakere 戦も 4-2-3-1 のフォーメーションであったがトップはカリミでは無く Waitakere 戦では2列目の右であったイラク代表のエマド・モハメド。この日の浦和戦ではその位置にはガーナ代表のベロが起用された。モハメドはアテネ五輪のベスト4のメンバー今年のアジアカップでは最後にメンバーから外れた。怪我でもしていたのかな? しかし2000年のアジアカップではイラク代表入りを果たし、2000年 AFC U-19 では決勝の日本戦では延長Vゴールを含む2ゴールを決めて優勝の立役者となった。その時ゴールを決めた日本チームの選手が我が愛する京都サンガの田原豊であった。その後はAC Milan にスカウトされ契約締結直前まで行ったらしいが当時の独裁者サダム=フセインの長男ウダイの一声で Milan 行きを断念せざるを得なかったとの噂がある。そういえば何年か前に AFC の Web Site でイラクの選手が AC Milan と契約締結直前という記事を見つけたことがあった。だから彼も AC Milan と戦いたい選手の一人との事らしい。
GKはACL の浦和戦で起用されたアバス・モハマディではなく198cmのモハマド・サハリ。モハマディも 190cm だけどこれはワシントンの高さ対策か? 長身選手を揃えるWaitakere 戦もスタメンはサハリだった。4バックのDFラインは右サイドバックがACL決勝戦ではホーム、アウェーともにサエイド・バヤトだったがこの試合では Waitakere 戦と同じハジ・ジャファリ。CBのモーゼン・ベンガーとアジアカップイラン代表ハジ・アヒリィは共に191cmの長身DF。この二人はSepahan のCBを4年間務めているとの事。左サイドバックはグルジア共和国のジャバ・ムジリ。ジャファリ以外はACL決勝戦と同じDFライン。ボランチにはハジサフィとバハドラニ。17歳のハジサフィはACLの浦和戦でも同じポジションで起用された。ただ11月14日のさいたまスタジアムでの試合ではDFの前には4人の“中盤”ラインが並んでいた。バハドラニは浦和戦初出場だ。1トップのエマド・モハマドの後ろには右サイドにベロ、真中にイラク人のアルハイル、左サイドにACLでは5得点のサレヒが配置される。アルハイル以外はACLの浦和戦では登場しなかった。1トップのモハメドは11月7日のホームではWaitakere戦同様右サイドを、11月14日のアウェー戦ではこの日と同じ1トップのポジションを担った。 Sepahan は来日してからインフルエンザに襲われたらしいが昨年のワールドカップメンバーでもあったナビドキア(出場機会は無かったが) がベンチスタートなのはその影響か?だが足の故障が完治しないカリミまでベンチスタートとはクロアチア人のブナジッチ監督も頭が痛いか?イランサッカー界はクロアチアスタイルを師と仰いでいるのか昨年のワールドカップでも監督はクロアチア人のブランコビッチ氏で、その前任のブラセビッチ氏もクロアチア人だった。
  
      

一方の浦和REDS は闘莉王がCBに戻って来て坪井(右)ネネ(左)とDFラインを組み、闘莉王の替わりにCB等のポジションを担っていた阿部がボランチに入り鈴木啓太と組む。ACLではボランチの位置にいた長谷部が怪我で離脱中のポンテに替わってトップ下に。そして阿倍がACL決勝では2試合とも入った右サイドには磯貝が。左サイドには怪我でベンチスタートの平川に替って相馬が起用され、2トップはワシントンと永井。田中達也が怪我でベンチからも外れたのは痛いが、小野伸二そして山田がベンチに控えている。ACL決勝戦とはメンバーが変わっているのに戸惑ったのは浦和のオジェク監督でなく Sepahan のブナジッチ監督の方であろう。浦和は Sepahan がこの日とほぼ同じメンバーで3日前に Waitakere と戦ったのを観る事が出来たと言うアドヴァンテージもある。

Sepahan のキックオフで始まった試合は開始から浦和が試合を支配する。その起点となったのはCBの闘莉王と磯貝、相馬の左右の両サイド。開始7分には長谷部のスルーを受けたワシントンがアギリと競りながらしぶとくCKを得て、そのCKにはネネ、闘莉王がペナルティーエリアに入って来る。その間は啓太と阿部が守備に入る。啓太と阿倍のバランスも良い。啓太が11分に右サイドからクロスを上げると中で競る闘莉王とベンガーを越えて逆サイドのワシントンがジャフリの直前でヘッドで狙うが惜しくもポストの右。15分には永井のCKから闘莉王が折り返しネネがヘッドを撃つがGKサバリの正面。そこからSepahan がカウンター攻撃に転ずるが細貝、啓太そして阿部がカバーに入る。またこの日の REDS の選手は21分にはサレヒからアルハイルに出したパスを啓太がインターセプトで奪いそのままミドルを放つなど一歩の出だしが早く、Sepahan は前にボールが運べない。22分には永井がバハトラニと競り合いながらヘッドで落とした所をワシントンがアギリーら Sepahan 3人のDFをかわしてシュートに持ち込み、22分には阿部がアギリーからアルハイルへのパスをカットしそのままワシントンへ送るとスライディングをして来たベンガー、そしてハバトラニをかわしてドリブルシュート。その弾道は惜しくも右上コーナーポストの僅か上に外れて行った。浦和のボランチの阿部、啓太、サイドの相馬、磯貝そしてトップ下の長谷部の5人で構成された前線とDFの間の5人の攻守の切り替えとバランスが良く、またDFラインも押し上げが早くフィールド選手の10人がコンパクトな間で前後に動くので常に数的優位の場面が作れる。この良い時間帯に先制点が欲しいと思っていたら27分に Sepahan が浦和ゴールに迫る。CBのアギリーが入れたロブをベロが闘莉王と競りながらも落としアルハイルへ繋ぎ、右サイドに上ったエマド・モハマドに浮玉のミドルパスを出すとモハマドは足を一杯に伸ばしてゴールラインの直前でこのボールをコントロール。そしてゴール前に走り込んだ中のベロに低いライナー気味のクロスを送るとそこに坪井とネネが雪崩込む様にマークに入ったのでボールはベロには当たらずそのまま逆サイドに抜けて行った。REDSサポーター達が最もひやりとした瞬間では無いか???この攻撃を機にゴール前であわやのシーンが続く。30分には阿倍からボールを受けたワシントンがDF3人を引き付け左サイドの相馬に送る。相馬は絶妙のクロスを入れ永井が落とした所を走り込んだ長谷部が全くのフリーで放ったショットはクロスバーを大きく越えてしまった。そのゴール裏のREDSサポ達の落胆の声が響く。31分今度は Sepahan が浦和ゴールに迫る。中央からアルハイル、サレヒと繋がれ後方から上がって来た左サイドのムジリにスルーが送られるがここはオフサイド。リプレイを見るとムジリが入り込んでくる直前にネネがポジションを上げてムジリをオフサイドトラップに掛けたものであった。
この息詰まるゴール前の攻防戦の後に浦和が待望の先制点を挙げる。32分、阿部、長谷部と繋ぎ左サイドの相馬に渡り相馬はゴール前に早いグラウンダーのクロスを送るとCBベンガーとアギリーの間に割って走り込んだ永井が合わせて Sepahan ゴールネットを揺らし、11月14日ACL決勝戦での Sepahan 戦以来5試合ぶり411分間の空白を埋める得点が決まった。

      

このコンビネーションは見事であったがペナルティーエリア内に侵入したワシントンが一旦下がりCBのベンガー、アギリーの位置を僅かだが一旦下げさせた動きも上手かった。三度浦和に先制を許した Sepahan は前半途中からベロを上げてエマド・モハマドと2トップを組ませてアルハイルを右サイドに回し浦和の両サイドが上がった裏にロングボールを入れる様になったが阿倍と啓太の戻りが速いので決定機を多く作る事は出来ないまま無得点のまま前半を終えた。

後半に入って Sepahan ベンチはついにカリミをベロに替えて投入してワントップに。そしてエマドモハドは右サイドに回り右サイドバックをジャフリに替えてACL決勝では2試合ともこのポジションのスタメンを任されたバヤトが入った。もう一人サブにいるナビドキアの投入はあるのだろうか?47分に Sepahan はバハトラニからアルハイド、ハジサフィに繋ぎ右サイドに来たカリミに。カリミはバヤトにはたきそのバヤトから入れられたクロスは一度は闘莉王にクリアーされるがそのこぼれ球をそのままハジサフィーがダイレクトで右に送るとそこにはエマド・モハマドが。モハマドが坪井のタックルが入る前に放ったショットはポストの内側を叩いた。後半開始から Sepahan はツータッチそしてダイレクトのパス回しが増え、左右に大きく動く前線のカリミにボールを集めてそこを起点にする様になる。54分のハリサフィーのミドルシュートも左に回ったカリミからのボールを受けてのものであった。
Sepahan に主導権を握られそうな54分。左サイドの相馬から啓太を経由し阿部に渡り、逆サイドに走り込んだワシントンにミドルパスが通る。ワシントンはハジサフィをかわし、角度の無い所から放ったシュートはチェックに入ったアギリー、ベンガーをあざ笑うかの様に Sepahan ゴールに突き刺さり貴重な2点目が入った。

   

大柄なワシントンはその体格を生かしたポストプレーや空中戦が得意だがこのゴールやACL準決勝戦の城南一和戦でのゴールの様に器用にゴール前でボールを操る事も出来る。その見事な個人技からの追加点であった。 Sepahan は中2日。一方の浦和はJリーグ最終節以来9日振りの実戦。その違いも影響しているかもしれない。だが 残り時間は30分以上ある。しかも2点差が一番危険な点差とも言われている。58分には右サイド、バヤトが入れたクロスを一旦は都築が弾き出すがサレヒが拾ってハジサフィーに坪井、長谷部がマークに入る前に放ったミドルはポストの左に外れる。64分にはハバドラニのFKに191cmの長身CBベンガーが飛び込むが闘莉王、ネネそしてワシントンも自軍ゴール前に戻る。カリミのキープそしてサイドチェンジ、更に Sepahan 選手達の柔らかいトラップが目立ちだす。そして後半から入った右サイドからMFのエマド・モハマド、サイドバックのバヤトがよく上がってきて相馬の上がりを抑える。
しかし71分にはこの試合を決定づける3点目を“貰う”事に。ワシントンからボールを受けた相馬が上げたクロスをムジリに競り勝った永井のヘッドのクリアーを試みたアギリーのヘッドがそのまま自軍ゴールに飛び込んでしまった。
       
         

呆然とするアギリー。歓喜に沸く REDS サポーター達。いよいよ AC Milan との決戦が現実味を帯びて来た。このプレーで肩を少し痛めた永井は小野伸二と替ってベンチに下がった。小野の怪我の具合はどうなのだろう?AC Milan 戦では是非出場して欲しい選手だが。 78分にアルハイルに替って3人目の交替選手ロビニアンが投入される。ロビニアンはACL決勝の 1st Leg ではバヤトに変わって交替出場で、2nd Leg ではスタメンで2列目の右サイドで起用された選手だ。ロビニアンが右サイドに入りエマド・モハマドは再び右サイドからトップに戻りカリミと2トップを組むことに。
80分にハジサフィーからの縦パス1本がカリミに通りカリミは意地のドリブルシュートを決めて一矢を報いた。

                    
90分に長谷部に替わった岡野が入る。多くのイランサッカー関係者は岡野が1997年ジョホール・バルでのワールドカップ予選で決勝のゴールデンゴールを決めた事を未だ記憶しているらしい。あれから10年が経ったが当時浦和 REDS が AC Milan と公式戦を行う事を誰が想像しただろう…….. ロスタイム3分も過ぎタイムアップのホイッスルが鳴り響く。多くのサッカーファンが楽しみにしていた AC Milan との公式戦が実現した瞬間だ。Jリーグタイトルを逃し、この Sepahan 戦も苦戦は免れないと危惧する人も多かっただろうが、Jリーグ終盤の不振が嘘の様な快勝であった。三日後の13日がいよいよ楽しみになって来た……….

            

Club World Cup 2007 Final

2007-12-20 | Weblog
3回目を迎えた FIFA Club World Cup の Final は大方の予想通り、南米代表の Boca Juniors と欧州王者の AC Milan との間で行われた。
2003年の TOYOTA CUP 以来4年振りの顔合わせにマスコミはその時のBoca Juniors のPK勝を引き合いに出し “ AC Milan が借りを還すか?”との“リベンジ劇”を煽る。きっと日本を含めた(日本だけ?)多くのマスコミからこの様な質問されて閉口していると言うのが選手を含めた Milan 関係者の本音かもしれない。 
AC Milan のスタメンは準決勝の浦和 REDS 戦でサイドバックを担ったヤンクロブスキとオッドが外れ替わりにマルディーニが右に左にボネーラがそれぞれサイドバックで起用され浦和戦で途中出場のインザーギがジラルディーニョに替ってワントップを張った。
Boca Juniors は準決勝の Etoil Sahel 戦にボランチで起用されたバルガスが外され、そのポジションには中盤の右サイドで起用されたバタグリアが入り、 AC Milan 戦の右サイドにはゴンザレスがスタメン入りした。 
AC Milan アンチェロッティ監督のマルディーニ、ジラルディーニョのスタメン起用はこの大会の“決勝戦仕様”と対戦相手のBoca Juniors より“休養日”が1日短かった事とは無関係ではないだろう。この試合でも多くの人はカカーに注目した様だが私は“ベテラン”インザーギに注目をした。今季セリエA では AC Milan は13試合を消化してインザーギ自身のスタメン出場は3試合のみ。途中出場を含めた出場試合合計8試合を通じて得点はまだない。ただ UEFA Champions League ではスタメン3試合を含め4試合に出場し4ゴールを決めている。
Boca のミゲル・アンヘル・ルッソ監督がバタグリアをボランチで起用したのはカカー対策とEtoil Sahel 戦で起用されたバルガスのパフォーマンスを観ての事だろう。Boca Juniors ではバタグリアだけが4年前の AC Milan 戦に出場経験があり、 Milan では GK ジダをはじめ、ネスタ、マルディーニ、セードルフ、ガットゥーゾ、ピルロ、カカーの7人がその時のBoca Juniors 戦のスタメン。そしてアンブロジーニ、インザーギは途中交代出場であった。その試合での2トップはシェフチェンコとトマソンであった。

持ち味を出して同点で終えた前半

開始早々相手ゴールに迫ったのは Boca Juniors 。1分には トップ下バネガのCKからボネーラ、セードルフの間をぬうようにパラシオがヘッドを放つ。2分にはFKからパラシオが右サイドを上がったところを Milan の CB カラーゼがボールを奪い攻撃に転じるが今度はセードルフがボールを奪われ、バネガに繋がれる。バネガがボールを受けた自軍ゴール前では相手3人に囲まれるが上手くすり抜けドリブルで前線へ。バネガからのフィードは一旦はカラーゼに跳ね返されるがそこから攻撃に転じたマルディーニからゴンザレスがボールを奪い再びバネガへ。そしてバネガのドリブル突破をガットゥーゾがチェックに入る。 そこから前線に繋がれたボールはピルロに渡りゴール前へロブを言えたところを今度はCBのパレッタがカット。一連の攻守の切り替えの早さに思わず唸らされる。5分にインザーギがこの試合68,232人の観衆を最初に沸かせる。右からパレッタを振り切ってシュートを放ち、対角線上にゴロで撃たれたシュートは惜しくもゴールポストの左側を通過して行った。インザーギがシュートを放てば今度はマルディーニが Boca 右サイドバックのイバーラへ猛然とタックルを入れ、これを機にマルディーニが左サイドの高い位置に上がりチャンスを作る。7分にはカカーとのパス交換で右サイドを上がったマルディーニが中のインザーギにクロスを入れるがパレッタがヘッドでクリアー。8分にもマルディーニが起点となりインザーギに繋がれる。そこにBoca CB のマイタナがマークに入り、インザーギは一旦カカーに戻すとカカーは Boca DF 陣5人に囲まれながらもボールをキープしセードルフに。更にピルロ、ガットゥーゾそしてボネーラと右サイドに繋がれボネーラはそのままダイレクトで前方のカカーに。カカーはドリブルで上がりゴール前で待つインザーギにクロスを送るが今度はマイタナがヘッドでクリアー。さすがにカカーがボールを持つと複数のBoca 選手が囲む。ブラジルのエース、カカーをアルゼンチン勢が止めると言う構図だ。 マルディーニが前に出て来てから攻撃に転じられない Boca Juniors は11分バネガのボールキープから左サイドのガルドソに渡る。ガルドソのクロスは中で競り合うパレルモとマルディーニの頭上を越し右サイドを走り込んだゴンザレスがダイレクトでファーサイドにシュートを放つがポストの左に。 Boca としては Milan DFラインが上がった時の裏をとりたいところだが、 Milan DFの戻りが速いので縦パス1本で大きく前に出れなかった。
19分から試合は更に動いて行く。右サイドにいたカカーにボールが入るとパタグリアがしつこくマークに入るとカカーはボネーラにいったん預け、ポジションを変えても一度右サイドライン沿いでボールを受けライン沿いにドリブルで上がりピルロに。ピルロは逆サイドのインザーギに送るとインザーギはシュート気味に右サイドのカカーへ。カカーのシュートはパレッタのスライディングに阻まれる。その直後今度は Boca パラシオがドリブルで左サイドを上がりクロスを入れる。そのクロスは戻ったアンブロシーニに当たるがこぼれ球をパレルモがリフティングをしながら後ろに下がり放ったショットはジダが左に倒れこんでキャッチ。その直後のジダのゴールキックをインザーギがヘッドでカカーに落としカカーは中央をドリブルで上がりドリブルシュート。一旦はマイタナの足に当たるがボールはカカーの前にこぼれ、カカーが右に送ったボールはマークに入ったモレルの足下を抜けてカカーがドリブル突破を試みた時にその前を横切る様に右サイドへ走り込んだインザーギに。フリーでカカーからのパスを受けたインザーギは難なく Bocaゴールネットを揺さぶり AC Milan が先制点を挙げた。



いつもながらゴールが決まる時はシンプルに決まるものだけどこう言う舞台でゴールを決めるインザーギもさすがだ。そしてカカーも見事なドリブル突破であった。しかしその1分後、 Boca が同点においつく。左サイドを上がったバネガからガルドソに送られるがボネーラがカットしてコーナーへ。ガルドソのショートコーナーを受けた左サイドバックのモレルがゴール前にクロスを上げるとパラシオがジダの守る Milan ゴールネットにヘッドを突き刺した。

   

このパラシオの動きは正に“南米らしい”振舞い。ガルドソがショートコーナーを出しても“我関せず”とばかりにMilan ゴールに背を向け、モレルがクロスを入れる瞬間にネスタ、ボネーラの間にさっと入り全くのフリーの状態でヘッドを放った。失点後のネスタ、ボネーラの唖然とした表情にこの試合を Buenos Airs のパブリックビューイングで観戦していた Boca サポーター達はさぞかし“してやったり”と思った事であろう。何しろワールドクラスのDFを欺いたのだから。
すぐさま同点にされた Milan はアンブロジーニが左へ、ボネーラが右に大きく開いた位置に張り出し、ガットゥーゾが積極的にドルブルで上がる様に。25分にはガットゥーゾのドリブル突破からゴール前のセードルフに送られるが僅かに合わない。しかし26分にはガットゥーゾのドリブルがカルドソに奪われクロスを上げられゴンザレスにヘッドを撃たれるがゴールには至らなかった。この時間帯からカカーのドリブル突破も顕著になるが、こちらは簡単には止まらない。28分にはセードルフからボールを受けたカカーがドリブルシュート。これはパレッタがブロック。30分にはマルディーニからボールを受けたカカーのドルブルからチャンスを掴み最後は右サイドのセードルフからのダイレクトパスにインザーギがシュート体勢に入るがパレッタと交錯し転倒。インザーギはレフリーにPKをアピールするがノ-ホイッスル。Milan DF 陣の押し上げから常に数的優位を作られるので Boca は防戦を強いられたが31分イバーラが入れたスローインを受けたゴンザレスが右サイドからクロスを入れる。中にいたネスタはパラシオの動きに惑わされそのクロスは左サイドのガルドソに。フリーのガルドソは胸でワントラップしショット放つがボネーラがスライディングで何とかブロック。マルディーニの裏の右サイドのスペースをゴンザレス、イバーラがドリブルで上がってチャンスを伺い、左サイドにはパラシオが流れてボールを中に入れる。パラシオは36分にガットゥーゾ、ボネーラをかわしてクロスを入れるなどこの日の Boca の出場選手の中では最高のパフォーマンスを披露していた。あとはパレルモに良いボールが入れば Boca も勝機はあったのだけど….. 結局前半はそのまま終わった。
後半、更にカカーのドリブルがさく裂するのか、 Boca が“南米らしさ”を披露し主導権を奪い返すのか、試合を面白くするためには Boca が先に2点目を上げる事を期待したのだが…..

カカー、ドリブル炸裂 Boca を突き放す 

しかし後半に入って相手ゴール前に迫ったのは Milan 。開始早々にはセードルフからのダイレクトパスを受けたカカーがドリブルシュート。これはマイタナがブロックでコーナーに逃げる。そのアンブロジーニが蹴ったCKはGKカランタがキャッチ。49分には右サイドを上ったセードルフにカルドッソ、モレルがチェックに入るが結局モレルのファールでしか止められず FK を献上する。そのFKをピルロが中に入れ、マイダナともつれたアンブロシーニにあたりそのこぼれダマをネスタが蹴りこんであっさりとMilan が追加点を挙げた。Boca にとっては立ち上がり5分。いわゆる“危険時間帯”における手痛い失点であった。しかし早い時間に同点に追いつけば休養日の1日長い Boca が優位に立てる。58分には右サイドをパレッタが上り左サイドから切れ込んだインザーラに渡りアンブロシーニを振り切り放ったシュートはポストを直撃。これが入っていれば試合の結果は異なったものになっていただろう。
60分にはカカーがスピードに乗った見事なドリブルで中央やや左を突破しマイダナを振り切りそのままシュート。GKカランタは一旦体に当てたがそのままボールはゴールラインを割り貴重な追加点がカカーの個人技から生まれた。

   

   

65分にはガットゥーゾがお役目御免?でエメルソンと替わってベンチに退く。交代時に何度か対峙したバネガと握手を交わすとこと少し余裕の交代か?
Boca のルッソ監督は67分にゴンザレスを下げてレディマスを入れ68分にはカルドソを下げてグラシアンを投入するが、カルドソは残しておいた方が良くなかったか? 70分にはパラシオがネスタをかわしてシュートを放つがアンブロシーニがブロック。カカーの個人技もハイレベルだが Boca にもパラシオがいると地元サポーター達は思っていただろう。ゴール前でパラシオにつなげば彼が何とかしてくれると願っていただろうが71分に試合を決定付ける4点目が入る。右サイドを上ったセードルフがカカーに、DFマイタナとバタグリアをひきつけて更に左でフリーのインザーギへ。そのままインザーギのシュートはゴールラインを割りミラニスタ達に“クラブ世界一”を確信させる。

   

Boca はカカーとセードルフの二人をマークし切れておらず、トップ下のバネガが最前線のパラシオ、パレルモと分断され攻守に渡って後手を踏む。
73分にはまたもカカーが高速ドリブルで Boca ゴールに迫り最後はパレッタがファールでストップ。しかしこの位置がペナルティーエリアのすぐ外のしかもま正面。ここで中村俊輔がいればとは思わないか? シードルフが壁の下を狙うが惜しくもポストの左へ外れる。76分には大歓声に送られてインザーギが下がりカフーが投入される。カフーは2003年の TOYOTA CUP のスタメンの一人。2002年のワールドカップ決勝戦ではキャプテンマークを巻いてプレーし、試合終了後の表彰式ではワールドカップを高々と掲げたのがここ横浜競技場。その決勝戦では逆にGKジダそしてカカーが控えの選手としてベンチにいた。

    

77分にはカラーゼの左足がドリブルで上ったグラシアンの右足首にまともに入りカラーゼは一発退場。しかしこれを故意のファールと取られてはカラーゼも少し気の毒か?何度もグラシアンの足を気遣いながらピッチを去るグルジア代表のカラーゼが印象的。80年代に旧ソ連邦代表で中心選手でもあったチバーゼ、シェンゲリアはグルジア共和国のディナモ=トビリシの選手であった。今日本代表がグルジアと試合をすればどういう結果になるだろう?カラーゼの退場で Milan DF ラインは右からカフー、マルディーニ、ネスタそしてボネーラとポジションを少し変える。
79分にはCKから81分にはゴール正面からようやく Boca のエース、パレルモが連続してシュートを撃つ。34歳のパレルモは2001年ビジャレアルに所属していたときのコパ・デルレイの試合でゴールを祝っていると興奮したファンが彼に押し寄せ策と壁が崩れその下敷きとなり全治半年の重傷を負ったばかりか2002年のワールドカップ出場を棒に振った悲しい過去がある。それだけに Boca で世界一の称号をと思っていたかもしれない。そのビジャレアルから11月26日に Boca Juniors に移籍してきたリケルメは結局 FIFA Club World Cup への登録が認められず苦戦を強いられる事に。
83分に右サイドのセードルフからのスルーを受けたカフーが入れたクロスをカカーが頭であわすが惜しくもはずれ、そのGKから Boca はボールを繋ぎ Milan ゴール前に迫り CK を得る。モレルが蹴った右CKをパラシオがワントラップしてうそ路に戻すと交代出場のグラシアンがミドルを放つ。GKジダが弾いたところをレディスマが撃ちブロックに入ったアンブロジーに当たりそのまま Milan ゴールを割り1点を還した。

   
残り時間はあと5分。一人少ない Milan 相手にもうあと2点…という雰囲気でも無かった。88分にはカカーにタックルに入ったレディスマが一発退場。これは先ほどのカラーゼと異なり明らかに….と言う匂いもした。そしてロスタイム3分が過ぎようとし、ミラニスタ達のカウントダウンの中ホイッスルが鳴り AC Milan の17年ぶり“クラブ世界一”の瞬間を迎えた。
17年ぶり、あのライカールとの活躍で勝って以来か?欧州のクラブタイトルを随分勝ち取り続けていた様に感じていたので少し以外に思った。1993年にサンパウロ、翌年にはベレス・サルスフィエルドそして2003年にはボカ・ジュニオルズと南米勢の軍門に降っていたのだった。最初に TOYOTA CUP を勝ち取った1989年大会からロッソネロのユニフォームを着続けていたマルディーニの偉大さを改めて感じた。

今年は12月13日が準決勝、決勝戦が12月16日と我が夫婦の誕生日とぴったりと重なってしまったので競技場に観戦に行けなかった。来年もこの大会は日本開催が決まっているので、その時も日本のクラブチームがアジア王者として出場出来て、日程がうまく合う事をこと祈るよ………

   



夢の対決 Club World Cup

2007-12-16 | Weblog
1975年1月。バイエルンミュンヘンが来日。日本代表と2試合の“親善試合”を行い2試合とも 1-0 の勝利を収めた。私は第一戦1月5日の試合をテレビで視た。その時にベッケンバウアーのプレーをとくと見た。
そして数週間後にこの試合の事を細当に紹介している専門誌を偶然本屋で見つけて立ち読みをした。
当時はワールドカップ西ドイツ大会が終わって半年も経っていなかったのでこのバイエルンミュンヘンの来日は大変なイベントであったと想像できる。
バイエルンの赤いユニフォームに胸には adidas の大きな宣伝ロゴが。まだ小学生だった私はその文字が何の事かさっぱり解らずそれがチーム名の“バイエルンミュンヘン”と書いているのか?と中学に入っても思っていた。するとサッカー部の連中の鞄にみなこの文字が入っている。クラスのサッカー部の友人にこの文字が“アディダス”と書かれていて何故バイエルンミュンヘンの胸に多大きく書かれていたのかも彼から教えて貰った。そう言えば当時ベルティ=フォックツがいたボルシアメンヘングラッドバッハのユニフォームには erdgas と書かれていたなぁと思った。
このバイエルンミュンヘンとの試合に就いてはかなり後になって色々な“裏話”を知った。
当初日本サッカー協会はワールドカップで優勝した西ドイツ代表を招待しようと計画していたが結局実現せず。その替わりにバイエルンミュンヘンが来日したと言う事だった。それでも当時のバイエルンミュンヘンは前のシーズン、 1973-74 のEurope Champions Cup で優勝を収め以降2大会連続して同大会に優勝し3連覇を飾る事に。前年のワールドカップでは優勝した西ドイツ代表のメンバーのうちGKのゼップ=マイヤー、主将のフランツ=ベッケンバウアーをはじめ、決勝のオランダ戦では決勝PKを決めたパウル=ブライトナー、鉄壁のDF、シュバルツェンベック、爆撃機、ゲルハルト=ミュラー、ウリ=ヘーネス、そしてハンス・ヨゼフ・カペルマンと7人の選手が当時のバイエルンミュンヘンから選出されていた。しかしマイヤーとヘーネス、カペルマンは怪我で来日出来ず、ブライトナーはワールドカップ後にレアル=マドリードに去り、メンバーは前のシーズンとは大きく替わっていた。そしてチームもこのシーズンでは13位と低迷しておりウド・ラテック監督は解任されケルンコーチが監督代行で指揮を執っていた。そして若き日のカールハインツ=ムンメニンゲがこのチームに随行してプレーをした。
試合内容は日本も釜本を中心に結構攻撃に転じ、森が結構ボールに絡んでいた。そして誰かのシュートがあわやゴールインしそうになったのを記憶していて健闘したと言う記憶があったが、後にこの国立競技場のピッチコンディションと来日直後の時差の影響でバイエルンがいいプレーを出来なかった為と知り、時差とピッチのコンディションが整った第二戦ではスコアこそ 1-0 であったが試合内容はかなりバイエルンが主導権を握っていたらしい。
初戦をテレビで見ながら父が“世界一のチームが相手だ。”と言っていたのを思い出すが、今でいえばバルセロナやACミランが来日した様なものであったのだろう。
あれから30年以上が経った。日本サッカーはワールドカップにも出場するだけでなく開催国にもなり今やワールドカップは国民的行事だ。そしてようやくクラブレベルでも世界のトップクラスと対戦出来る様になった。
ACミランが日本に本格的に紹介されたのはいつだっただろう??1989年 オランダトリオ、フリット、ファンバステン、ライカールトを擁して欧州を制覇しTOYOTA CUP に出場した時私はこの試合を国立競技場で観戦したがその時の日本はまだプロリーグは無くマスコミがサッカーを取り上げる事は皆無であった。それがたった18年前だ。
1990年ワールドカップイタリア大会後に WOW WOW がセリエAを中継し始めたがその目玉はやはり AC Milan であった。その AC Milan がまさか日本のクラブチームと公式の大会で対戦するなんて想像もしなかった。何度か来日した時にヴェルディ等のチームとは“親善試合”で対戦をしたけど……

12月13日。浦和レッドダイヤモンズがAC Milan と対戦を果たしたがそれまでどれだけの人がどれほどの積み重ねを果たした上で実現したのだろう……. バイエルンミュンヘンの来日からたった32年なのか、既に32年なのか?何十年もサッカーを観た人間には“たった32年”にしか感じない。
今本当に幸せな時代だと思う。その幸せな時代、浦和は AC Milan に惜敗したがまだ3位をかけてチュニジアのエトワール=サヘルとの試合が残っている。
今大会に出場したクラブチーム、 AC Milan ( イタリア ) Boca Juniors ( アルゼンチン ) Etoile Sportive Du Sahel ( チュニジア ) Sepahan ( イラン ) Pachuka ( メキシコ ) Waitakere United ( ニュージーランド ) そして浦和レッズ(日本 ) 。どこの国が一番最後にワールドカップ出場を果たしたのだろうか………..

正解は日本である。 今我々はサッカー界では世界でもっとも新興国の一つと言うポジションだ。

Waitakere United Football 振興の為に……

2007-12-13 | Weblog

3回目を迎える FIFA Club World Cup 。今回は浦和REDSが出場権を得た事によりこれまでとは比較にならない関心が寄せられ、私自身も非常に楽しみにしていた。
“クラブ世界一を決めるのに何故南米と欧州のチームで覇権を争うのですか?”と言う単純な質問に対しては。
“その他の地域とは力の差があり過ぎるのでもう少し力をつけて出直して来なさい。”と言う返答が単純に返ってきたのは5年も前では無かった。
まぁ今でもそう思う人も少なくない上に、 UEFA Champions League こそ Football Club 世界一を決める大会。と考える人(特に UEFA で働く人達??)は多いだろう。しかし Football の振興と言う意味ではFIFA Club World Cup は意義のある大会と思う関係者も多いはずだ。 CONMEBOL を含めてそしてUEFA 以外は。 

大会初日の12月7日、 New Zealand の Waitakere United がイランの Sepahan に挑んだ。公式入場者数は 24,788 人。昨年 Auckland City FC の初戦は29,912 人、一昨年の Sydney FC の時は28,538人。昨年は岩本、一昨年はキング=カズがゲストプレーヤーとして登場した事を割り引けばこの数字は上々と思う。まぁ今年は国立競技場ではあるが。
Australia の AFC 加入後は今やオセアニア地域は New Zealand とそれ以外と表現できる地域だろう。その New Zealand すら FIFA ランキングは95位。同地域内でそれに続く国は New Caledonia で 119位だ。AFC 加盟国の中ではイランが 32位、オーストラリアが39位。41位に日本、44位が韓国。そして87位のUAEまでの13カ国が New Zealand の上を行き、今度のワールドカップ予選で同組となるバーレーンが98位だ。著名なサッカー解説者によるとオーストラリアの抜けたオセアニア連盟から1チームの出場枠を与える事は大会の権威に関わる事になるらしい。 KIWI の人達が聞くと不機嫌な反応を示されそうなコメントだけど、決して否定はできない。ただ私の持論 “ Football は世界中どこにでも存在する。” と言う観点から見ればオセアニアのチームにも出場権を与える事は大会の意義を感じさせるものと言う見方も出来ると思う。試合前は“悲観的”な見方を払しょくする様なパファーマンスを Waitakere に期待をした。 
しかしふたを開ければ開始2分で2失点。この時点でこの試合に対する興味は半減、いやそれ以下になってしまった。3分のゴール前へのロングスローから Waitakare DF 選手が一旦は跳ね返したそのこぼれ球をエマド=モハメドに蹴り込まれた先制ゴールは仕方ないにしても、1分後にまたもエマド・モハメドに決められた失点は頂けない。左サイドのムジリからのロングフィードをCBのペリーがきちんとクリアー出て来ていれば防げた失点であった。

   

これでこの試合は何点はいるかわからんぞぉぉ、と思うが以降は何とか立て直し前半を何とか2失点で切り抜け、気を取り直して臨んだはずの後半開始直後の47分、ゴールキックをハジサフィが落とした所を走り込んだアルハイルがミドルシュート。それをGKイーディンがファンブルしてゴールを許し簡単に追加点を与えてしまった。格上のチームと戦う時は戦術云々よりもまずミスをしないこと。だれかが言っていたのを思い出した。この大会に向けて上のレベルのチームと練習試合を組むなど、大会前の準備はどうだったのだろう?セミプロチームの事情を考えればそれも厳しいのかもしれない。 同じニュージーランドの Wellington Phoenix に練習試合を申し込めばよかったのに。ニュージーランド代表監督を兼任する Ricky=Herbart 氏は受け入れてくれると思うけど。
しかしこれに目を醒ましたのがそれともセパハンがスローダウンしたのか、65分を過ぎたあたりから Waitakere が徐々にボール支配率を上げていく。単純ではあるが相手ゴール前にハイボールを入れて上背とフィジカルの高いエンブレン、ダニー=ヘイに当てると言う戦術がなかなか効果的であった。ダニー=ヘイはかつて Leeds United で4シーズン在籍。しかし度重なる怪我の影響で出場試合は4試合のみ。だがUEFA Champions League にも出場し、 Leeds United が Barcelona を4-0 で破った時のメンバー。   帰国後は A-League の New Zealand Knights そして渡英前に所属していた Perth Glory でもプレーした。 New Zealand 代表、 All Whites としては31試合に出場した。
     
                     ニール=エンブレンも Wolverhampton Wanderers, Crystal Palace 等に所属した189cm の England のユーティリティープレーヤーで昨シーズンまで2シーズンA-League の New Zealand Knights に所属した。
そして73分、ベンジャミン=トトリがあわやのシュートを放って観客を沸かせる。 トトリからダレン=ベーズリーにボールが渡り、ペナルティエリア付近のエンブレンへ、エンブレンが胸に当ててボールを落とした所に走り込んだトトリが地を這うようなスピードあふれるミドルシュートを放つ。おしくもそのショットは数十センチ右に外れた。ベンジャミン=トトリはソロモン諸島代表のFW 選手。かれも母国の Football 振興の為にこの大会で存在価値を示そうとする選手だ。 
  


このプレーによって判官贔屓の観衆の心を一気に掴む。そして1分後。ゴールマウスに入れられたべーズリーのFKはセパハン DF ジャバ=ムシリの背中にあたり、そのこぼれ球が追うダニー=ヘイ、セパハンDFモーゼン=ベンガー、そしてGKのモハメド=サバリの誰にも触れられずゴールネットに吸い込まれ、オセアニアサッカー史に歴史を刻むゴールが生まれる。このシーンがこの日一番歓声が上がったシーンだった。2分後の76分、今度はセパハンがチャンスを迎える。スルーパスを受けたこの日2得点のエマド=モハメドがミドルを放つがGK イーディがファインセーブ。後半開始早々には自らのミスで3点目を献上したが今度は見事なプレーであった。更にWaitakere への声援が大きくなる中、78分には波状攻撃を見せエンブレンのヘッドはGKサバリにキャッチされるが、その後サバリが遅延行為を取られて間接FKを得る。ダニー=ヘイが少し横に流し走り込んだエンブレンの強烈なショットは壁に跳ね返されるがそのこぼれ球を再びダニー=ヘイがゴール前に入れたところをセパハンDFがクリアー。そのクリアボールを走り込んだジョナサン=ペリーがダイレクトで撃つがサバリがナイスセーブを披露。このペリーは昨年来日した Auckland City FC からの移籍選手。他にも主将であった MF Neil Sykes, FW Paul Seaman そして63分から投入された Jason Hayne が昨年まで Auckland City FC で岩本輝夫の同僚であった。また DF Matt Cunneen もかつては Auckland City FC に在籍した。85分にはトトリが左サイドをべンガーを振り切ってクロスを入れるがエンブレンが頭で合わせる前にジャバ=ムジリに体を上手く入れられてシュートが撃てない。 その直後にDFグレハム=ピアースに替って注目のソロモン諸島代表のFWコミンス=メナピが投入される。もう少し長い時間観たかったけど。前線を一人増やしベーズリーが最終ラインに入る。87分には更にトトリが魅せる。左サイドのメナピから入れられたクロスをエウンブレンがバックヘッドですらした所をトトリが膝でワントラップしてシュートを放つが僅かにゴール枠を外れる。セパハンベンチはここでエマド=モハメドを下げてベロを入れて守備を固める。エマド=モハメドの大会初のハットトリック達成は成らなかったがその前に逃げ切りか… 勝敗にかかわらずあと1点を目指し、観客を味方につけた Waitakere は91分にシーマンを下げてFWのダニエル=コプリブチッチを入れる。なんどかゴール前にハイボールを入れてセパハンゴールに迫るが結局タイムアップ。ひたむきな 兆戦を続けた Waitakere に暖かい拍手が送られた。 この試合をテレビで視たニュージーランドのサッカー少年達に後半の Waitakere のプレーはどう映っただろう。9月のラグビーワールドカップで、悲劇的な敗退を喫した All Blacks 。その遠縁となるのはサッカーをはじめとする他のスポーツの振興。ワールドカップ後、五輪候補選手から All Blacks 候補を発掘していくと言うラグビー協会のコメントを地元紙で目にした。 弱い All Blacks は見たくはないけど、All Whites だって1982年スペイン大会以来のワールドカップ出場を本格的に目指す日はいつなのだろうか….. 12月15日、Club World Cup の決勝戦の前日に Waitakere は Otago United をホームに迎えて NZFC League の今季6試合目に臨む。 彼らの日本での経験が地元のサッカー少年達に引き継がれていくことだろう…


日本3次予選は Group B

2007-12-07 | Weblog

11月25日の抽選会で日本と同組になったのはバーレーン、オマーンそしてタイ。
マスコミは早くも与し易しとの報道を発信している。バーレーン、オマーンは前回のワールドカップ予選でも対戦し負けていない。しかし決して楽な試合内容ではなかったはずだ。ホームでのオマーン戦は中田英寿、中村俊輔、高原ら欧州組みを擁しながら中村がPKを失敗するなど大苦戦。ロスタイムに久保の起死回生のゴールで勝利を何とかものにした。バーレン戦も最後はオウンゴールで勝利を収める辛勝。確かに日本の方が実力は一枚上手だが、10回やって10回とも勝てる相手ではなさそうだし、相手もこの数年間で日本を研究していることだろう。もし協会がそれなりの組織力を持っていれば。
この組み分けの結果をタイで知った私は地元テレビでも翌日から連日この報道が…. と思ったけどそうでもなかった。その前に言葉が解らないか……
タイはGroup B では第4シード。要するに一番ランクが下がると言う事だけと70年代からタイを見ているとそうそう easy な相手ではないと思ってしまう。 1970年代にヤンマーディーゼルにタイからビタヤ=ラオハクルと言うタイの選手が入団した。その時の印象はあまりないけど、タイから選手が来た事を覚えている。その後帰国しタイ代表としてアルゼンチンワールドカップ予選に出場していたのを当時の雑誌で見つけた。あぁやっぱり凄い選手だったんだなぁ…. と思った。
1979年マレーシアで開催されたムルデカ大会で日本はタイと対戦したがなんとか2- 1で勝利を飾る。しかし試合後タイは主審の判定を不服とし大会当局に提訴をしたが勿論結果は覆らない。その時のタイ代表にはビタヤ=ラオハクルがいたのは大会後に発行された専門誌でわかった。当時は試合中継なんてなかったので数週間後に発刊される専門誌でその試合内容を把握するしかなかった。
そして1984年4月、シンガポールで開催されたロス五輪予選。日本は初戦、ピヤポン率いるタイに 2-5 と粉砕されてしまう。何度もこのブログでも書いたけどあの時の衝撃は忘れられない。ピヤポンがボールを持てば日本のDF陣は簡単に振り切られる。高温多湿のシンガポールで全日本イレブンは動きが悪く、同じ気候のタイの選手達がピヤポンだけでなく生き生きと動くのを呆然とテレビで見ていた。予選前のあの楽観視は何だったのだろう?これ以来私はタイが不気味に思えてならない。

        

3年後の1987年ソウル五輪東地区予選でも日本は中国、タイそしてネパールと同じ組になりその開幕戦はバンコックでのタイ戦。ここでもピヤポンが登場する。緊張の中、日本は何とか0-0の引き分けに持ち込んだ。そして東京で行われたホームゲームでは水沼のゴールで1-0 と勝利を収めたが最終戦雨の中の国立競技場で中国に 0-2 と破れ五輪出場はならなかった。中国との直接対決は1勝1敗だったがタイとの対戦成績において日本が1勝1分けだったのに対し中国はホーム、アウェー共に勝利を収めたのが両国の明暗を分けた。
翌1988年はソウル五輪イヤーだった。この年はよくサッカーの日本リーグを観戦しに行った。観客も少ないのでのんびりと座席を3つほど占領して観ていた。そして松下電器にビタヤ=ラオハクルの姿を見つけた。再来日して古巣のヤンマーに戻らず松下に入団したのは当時松下の監督だった水口氏との関係である事がすぐに分かった。水口氏も元ヤンマーの選手で日本代表にも選ばれている。しかし松下電器サッカー部創設と共に松下に移籍しその後のガンバ大阪の礎を築いた。水口、ビタヤ両氏の関係はその後も続き8月17日にはJFLのガイナーレ鳥取の新監督にビタヤ氏が就任したが、その前任は水口氏で彼の解任の後を受けての就任であった。

1993年ワールドカップアメリカ大会1次予選。Jリーグの開幕を約2ヶ月後に控えて完全にプロ化された日本代表は是非とも1次予選を突破して欲しいところであった。東京で開催された開幕戦。相手はタイ。2年前のキリンカップでは終了直前、柱谷のPKで勝利を収めるが完勝とは言えなかった。ワールドカップ予選のために来日したタイ代表のメンバーにはピヤポンの名前もあったが、日本戦には出場しなかった。緊張で動きの硬い日本だったがなんとかキングカズのゴールで初戦を勝利で飾り日本ラウンドを全勝で終え、UAEラウンドに。ここでの初戦もタイ。この時はピヤポンがスタメン入りしたが、井原が技ありの反則でピヤポンと共に退場処分となり、堀池のゴールで日本はタイを連破した。しかし御周知の通り日本はドーハの悲劇に散る。
1997年、ワールドカップ予選突破を目指す日本はバンコックで開催された Kings Cup に出場する。ここではタイと激戦の末 1-1 で引き分ける。終盤優勢に試合の主導権を握ったタイ代表に地元観衆からは大歓声が送られたらしい。そして1次予選、オマーンラウンドに向かう途中にバンコックによりタイとの調整試合を行うがここで日本は何と 1-3 と破れてしまう。この時はもうあのピヤポンは出場していなかったが若き日の Kiatisuk ZICO Senamuang がおり2ゴールを決めた。
こしてみるとタイは他の ASEAN 諸国と異なり何点差も付けて勝てる相手では無い事がよくわかる。そのタイ相手に完勝を収めた試合となると2004年のアジアカップまで待たねばならなかった。
11月27日の Bangkok Post によるとこの組み合わせにアジアカップでも指揮を執った Chanvit Phalajivin 監督は自信のコメントを。
“勝点10を挙げれば最終予選に進出出来ると思う。ホームゲームの3試合で勝点7、アウェーゲームの3試合で勝点3。ホームゲームでは日本と引き分け、オマーン、バーレーンから勝利を挙げたい。”
日本戦をホームで引き分けとは他国よりもランクを上と見てくれている様だ。12月初旬には代表チームを召集しトレーニングを行い12月5日から16日にマンチェスターに遠征し 地元開催のKing’s Cup に臨むとの事。中近東諸国に打診し翌年1月にオマーン、バーレーン対策としてのテストマッチを予定しているとの事。協会の Kittiratt Na Ranong マネージャーは日本が最終予選進出の最右翼としながらも2004年に自身がチームに同行した草薙での AFC U-17の試合で日本を 2-1で破った事に自信を見出している。この時のメンバーが何人か代表入りしているのか?
“私は日本を恐れてはいない。オマーンはアジアカップで破った。バーレンも強豪だが私は彼らを乗り越えられると信じている。” とのコメントを残す。

11月26日に開幕した SEA Games 東南アジア11カ国がタイの Bangkok, Chonburi に集い45の競技の覇を競う大会であるが、サッカーは29日に始まり、現在エントリーした8カ国が4カ国ずつ2つのグループに分かれた予選リーグを行っている。タイの所属するグループAは タイ、インドネシア、ミャンマー、カンボジアの4カ国。タイは初戦のミャンマー戦を 3-2 と辛勝した2日後の12月4日にカンボジアを 8-0 と一蹴し準決勝進出を決めた。
一方シンガポール、ヴェトナム、マレーシア、ラオスの入ったB組はシンガポールがラオスと0-0で引き分ける波乱の幕開け。日本と五輪予選を戦ったベトナムは初戦で強豪のマレーシアを 3-1 で破るも続くシンガポール戦では 2-3 と破れてしまう。12月8日に行われる最終節ではシンガポールがマレーシアと、ベトナムがラオスと試合を行うが4カ国とも準決勝進出に向けて手を抜けない最終戦だ。
この大会スポンサーからは勝利給が1試合あたり THB500,000 ( 約 167万円 ) そして決勝戦で勝てば THB1,000,000 ( 約335万円)のボーナスが支給される予定だ。この SEA Games に臨むタイ U-23 のメンバーは下記の通り。

GK : Sivaluk Terdsungnern, Veera Kerdputsa 
DF : Prat Samakrat, Kiatprawut Saiwaew, Jira Jaroensuk, Weerayut Jitkuntod, Chonlatid Chantakam, Suthinan Pukhom Nattapong Samana 
MF : Sarawut Jantaphan, Adul Lahso, Thana Chanaboot, Ittipol Poolsap, Wisarut Phannasri, Arthit Suthornpit , Wuthichai Tathong  
FW : Teerathep Winothai, Teerasil Dangda, Anon Sangsanoi and Sompong Sorleb

GK Veera Kerdputsa, DFの Kiatprawut Saiwaeo, Nattapong Samana, FW のTeerasil Dangda , Teerathep Winothaiらが Asian Cup のメンバー 

  

そして11月27日付の Bangkok Post 紙にタクシン元首相が懲役26年の刑に直面している記事がトップで伝えられていた……..


マスコミよ、もうええ加減にしといたれよ

2007-10-28 | Weblog
先日10数年振りにボクシングマガジンを購入した。
勿論、話題になったWBC世界フライ級タイトルマッチの詳細を読むのが目的であったが、高校時代は毎月この月刊誌を購入していたものだった。そこにはこの試合の試合内容の詳細や総括が的確に論評されていた。
さすがに専門誌だ。例えばこの試合の内容ははっきりと凡戦であり、それは両者間の力の隔たりがありすぎたからであると。また試合前日の調印式での大毅の刺激的な発言そして内藤陣営が作成した“国民の期待に応えます”ポスターについても

“試合を盛り上げる為なら、どんなデモンストレーションがあっても良い。プロフェッショナルなのだから、注目を集め、人気を勝ち得た者もまた勝者である。個人的には亀田一族の傍若無人とも思える言動も充分に許せる。”

と前置きしたうえで “それは万人が認めるスキルとスリルがその実際の試合に期待出来てこそだ”と絞められている。 
そして

両者間の実力差から順当なら内藤の中盤までのKO勝が予想された、との事であったがそれでもポンサクレック戦から中3か月で臨んだ初防衛戦にコンディションに問題があればパワーと若さのある大毅にも番狂わせのチャンスは皆無では無いとの試合前の予想。しかしゴングが鳴って1ラウンド、2ラウンドを過ぎて早くも“専門家”の目にはその両者のボクシングの質量の違いが露呈されたらしい。頭にグラブを押しつけて、頭を低くして前進する大毅のいつものスタイルからパンチが繰り出せなかったのはこれまでの対戦相手と異なり躍動する世界王者との違いであっただろう、そして自分が前に出てくる前に例えグラブの上から打ち込まれても出鼻を挫くのに十分であり、時当たったボディーブローにより更に出足は鈍った....

との事であった。
あるテレビ番組で内藤に浴びせられた

“なぜあなたが格上なのに大毅と打ち合わなかったのですか?”

と言う質問がいかに的を外れた愚問だと言う事がよくわかる。それでも世界王者の内藤は丁寧にボクサーには一人一人独自の打ち合う時の得意な間合いがある事を説明していた。最終ラウンドの反則行為も内藤がそこまで大毅を追い込んだ現れとの事。ただレフェリーが減点処分をオフィシャル、各ジャッジに指示する間大毅が小さくガッツポーズを取っていた事を見逃さず、それを

“強がりや無邪気で済まされない行動。”

と批判している。このガッツポーズについては他のどのマスコミも見逃している。
それでも大毅の将来性については高く評価しており“敗戦は一時の恥。ここから何を学ぶかでこの少年ボクサーの将来は定まる”と結んでいる。
元世界王者のコメントの中にも“圧倒的不利と言われる中、チャンピオンに対して失礼と言う批判はあるが負ければ切腹と退路を断って、世界戦に挑んだその勇気は評価に値する。”との批評もあった。そしてみな異口同音に18歳で12ラウンド戦い抜いた事を評価しその将来性に期待できるとも….

その世界戦が終わって2週間以上が過ぎてもまだマスコミはこの話題に縋っていたい様だ。10月17日、JBCから処分が発表された翌日、金平会長、史郎氏が記者会見を行ったがその“謝罪”が不十分とマスコミは騒ぎだし、26日には長男の興毅が“謝罪記者会見”を行った。しかし私はこの経緯に疑問を感じないでいられない。

誰に謝罪する必要があるのか???

あの世界タイトルマッチで一番“被害”に合ったのは対戦相手の内藤大助のはずだ。その当の本人が大毅から直接謝罪を受け、史郎氏からも謝罪の電話を貰い、内藤自身がもうこれで終わりにしたいと言っているのに誰にそれ以上謝罪しろというのだろう?? 世間を騒がせた云々というマスメディアもあるが、騒がせているのはマスメディア自身で我々一般人はその報道を見ているだけだ。また各界の著名人がコメントしているが彼らに何の被害が及ぼされたのだろうか?????
それにマスコミは亀田騒動の中にも内藤大助を組み込み更に騒動を大きくしようとしている。心配なのは内藤の次の防衛戦の準備がこれに影響される事だ。

反則指示

インターバルの間にマイクが偶然史郎氏や興毅の反則指示の声を拾ったらしい。そして内藤自身も大毅のサミングや太もも叩きなど見えないところでの反則に悩まされたらしいが、実際に肘を入れられたり、タマを打たれたりはしていない。反則指示そのものは決して許されるものでは無いが、よくプロ野球ではベンチからマウンド上の投手に“ぶつけてやれ!!”と指示する監督が何人もいるらしい。特にロッテ監督時代のカネやんが….. 一度たまりかねた野村克也氏が“カネさん、あんたぶつけろって言ってもしぶつけられた打者が怪我でもしたら手錠が掛かるよ。”と直接言ったらしいが….それでもカネやんをはじめプロ野球の監督が記者会見まで開いて謝罪した話は聞いた事は無い。
そして10年程前、東京大学アメリカンフットボール部が関東大学リーグで好成績を上げてテレビの特別番組が組まれた事があった。その東大ウォーリアーズがある大学との試合前で試合に集中する為に、そして自らを鼓舞する為にリーダーの掛け声に合わせて大声を出すのだが、その中で“ぶちかましだ、ぶちかましだ”と叫ぶシーンに続き“病院送りだぞ、病院送り”と叫んでいた。しかし、これに対して誰も何も謝罪を求めない。東大生なら良くてボクサーならダメってことなのかな?そして反則指示を出すのなら東大に入れってことかぃ??

久々に購入したボクシング専門誌を隅々読むと一連の亀田騒動と異なりボクシングのスポーツとしての面白さが、高校時代にテレビで楽しんだあの面白さがよみがえって来た。世界ランクの表を見ても昔は WBA と WBC しかなかったが今は IBF WBO と団体が二つ増えている。最もJBCが認めているのは WBAと WBC だけらしく、IBFには日本人ランカーは皆無だ。そして亀田興毅は WBC フライ級の3位、WBAフライ級1位にランクされておりWBOでは15位となっている。かつて多くの世界王者を輩出した韓国勢は世界王者は皆無で東洋太平洋ランキングで一人チャンピオンがいるだけだ。かつては東洋太平洋ランキングで王者になり世界戦に臨んでいたので殆どのクラスが韓国人ボクサーで占められていたのだが…..
またクロアチア、オーストラリア、ドイツなど昔は見られなかった国や地域からも世界王者が誕生し、かつて全ての団体でアメリカ人ボクサーが独占していたヘビー級はウズベキスタン、カザフスタン、ロシア、ウクライナの旧ソ連邦のボクサーで占められている。 

ボクシング専門誌10数年振りに読んだ後の感覚はよく冷えた清涼飲料水を飲んだあとの爽快感の余韻に浸っている様だった。こえを機に少しボクシングも読み直してみようか……   これも亀田効果の一つなのかもしれない……


世界王者の日本人ボクサーは他に......

2007-10-20 | Weblog

WBC世界フライ級タイトルマッチが行われたのが10月11日。既に10日が経っているが、未だに世間というよりもマスコミはこの試合から話題を絞りだそうとしている様だ。タイトルマッチ翌日にははやくも長男の興毅が“敵を取る”と言ったとかの報道がなされたかと思えば10月25日に予定されていた興毅のノンタイトル戦は延期となり、更に亀田陣営が目を狙えと言ったとか言わないとか…..
10月15日に JBC から処分が発表され倫理委員会は亀田大毅にボクサーライセンス停止1年、セコンドについた父親の亀田史郎にセコンドライセンス無期限停止、同じくセコンドを務めた亀田興毅に厳重戒告、協栄ジムの金平桂一郎会長にクラブオーナーライセンス停止3カ月の処分を満場一致で決めた、と発表されるまでどの様な処分が果たされるのか連日スポーツ紙の一面を飾った。そして処分発表後も17日に渡海文部科学相までが“当然の処分”と言及し、同日金平会長を始め、亀田大毅、亀田史郎氏の陳謝記者会見が行われ、一言も発しない大毅にそして会見の短さに世間はブーイングの嵐。さらに史郎氏ががんを飛ばしたとかとばさないとか、内藤に謝罪に行けとか…..しかし、反則をしたからと言って謝罪を強要するのもなぁ.......

18日には大毅がアポ無しで謝罪に行き、史郎氏も携帯電話で謝罪をしたとの報道… しかし報道はグローブを交わらせた当事者だけに留まらず18日には兄の興毅が“一言も発せなかった大毅に替って謝罪したい”とのコメントが報じられ、史郎氏がかつて興毅に宛てた手紙がアニメのセリフに酷似しているとかいないとか….. 協栄ジムの金平会長は協会に辞表を提出し、それが留保されたらしく、20日には亀田家の自宅兼練習所が葛飾区から移転するとかしないとか…. そして今後の練習場を含めた件を含め今後について史郎氏と金平会長で話し合い、場合によってはジム移籍も……
マスコミは常に“世間を騒がせている…..” との常套句で報道を始めているが、騒がせているのはマスコミで、騒いでくれなければ困るのもマスコミだろう。このタイトルマッチが決まってから、いやタイトルマッチが行われてからも、殆どのマスコミはチャンピオンである内藤大助の事を全く知らなかったのではないか?
今年7月アジアカップで沸く(そうでもなかったか…..) タイのバンコックに商用で訪れたが7月18日、まさに内藤が6年半タイトルを守り続けたポンサクレックを判定で降し新チャンピオンに輝いた日に私はバンコックにいた。翌19日には地元紙そして英字新聞にまで写真付きで大きくこのタイトルマッチが報道された。(この新聞を持ち帰るのを忘れた事を非常に後悔している。)内藤にとっては正に3度目の正直、2002年4月19日にはわずか34秒でKOされフライ級史上最速のKOタイムの汚名を, 2005年10月10日は途中で負傷し7R判定負けであった。そして7月18日の試合も一旦は放映予定局が放映をとりやめスポンサーが集まらず試合が出来なくなるかと心配された。 
亀田興毅は2002年と2004年にタイでポンサクレックとスパーリンクを行った経験があり、特に2004年は帰国後ポンサクレックの実力を疑問視する発言を憚らなかったのでポンサクレックが抗議すると言う一幕もあった。しかしその17度タイトルを防衛したポンサクレックをついに王者から陥落させたのが他ならぬ内藤だ。
亀田ファミリーと内藤大助、日本以外では内藤の方が断然有名だ。しかしこのタイトルマッチで初めて内藤大助を覚えたマスコミが多いだろう。実績と日本以外の知名度は内藤大助が圧倒的に上だ、しかし肝心の日本国内では彼の功績どころか彼が誰だか知らないマスコミが多い、それは決して正しい状況では無い……内藤が世間に知らしめたかったのはその事では無いか…….

世界ランクでも亀田大毅は14位。一方は6年半に渡って17度のタイトルを防衛したポンサレックを破った世界王者。試合前から亀田陣営は内藤への“口撃”を休める事はなかったが、本当に内藤に勝てると思っていたのだろうか??ゴングが鳴って3ラウンドもすると誰もがその実力差を確認できただろう。ただ大毅の逆転ワンパンチも考えられなくは無かったが…….TBSもそうだったのか????

日本人の世界チャンピオンは他にも WBA ミニマム級の新井田豊、WBAフライ級坂田健史、WBCバンタム級長谷川穂積がいるが、それを知っているマスコミはどれだけいるだろうか……. 特に長谷川穂積のバンタム級は世界では“黄金のバンタム”と呼ばれているクラスだ。
私は子供の時からボクシングを見るのが好きで、大場政夫、柴田国明、輪島功一、ガッツ石松、具志堅用高そして渡辺二郎らのファイトを見て興奮したものだ。時代は替わったとは言え今の様に世界王者の内藤よりもタイトルも持ってない亀田ファミリーに連日スポットがあたるなんて考えられない。

亀田ファミリーの今後はさておき、内藤大助には次の防衛戦でも結果を残してほしい。今回の防衛戦は“亀田大毅”と言う比較的容易な相手であった。そして今内藤は時の人となりこれまでの生活リズムがかなり変わっているはずだ。それを乗り越えて次戦もタイトルを防衛し彼の様な世界王者がプロボクシング界を盛り上げ、日本人世界王者をもっともっとえてほしいと思う…….

今度久しぶりにボクシングマガジンを買いに行こう……….