Mr.コンティのRising JAPAN

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12.June 2010 England の初戦はアメリカ

2010-01-03 | Weblog
上の写真を観て今多くの England サポーター達は苦笑を浮かべる事だろう。
ワールドカップ史上最大の番狂わせと言われた1950年ワールドカップブラジル大会の England 対 USA の試合後の有名な写真だ。担がれているのは殊勲の決勝ゴールを決めた“アメリカ代表選手”の Joe Gaetjens 。
England が最も気にする初戦のアメリカはワールドカップではこの試合以来の対戦となるが 60 年前の試合はどういう試合だったのだろう…

1950年ワールドカップブラジル大会 England 対 USA

第二次世界大戦が終わって初めてワールドカップに出場した England は当時でも世界最強 “ King of Football “ と言われていた。世界最高の選手 Stanley Matthews らを擁しての戦後5年間の戦績は23勝4敗3分。そして対する米国は選手全員がとてもサッカーでは生計を立てられないセミプロと云うよりもアマチュア選手。学校の先生。街馬車の騎手、郵便配達そしてレストランの皿洗い等を生計の足しやむしろ生業としていた。2年前のロンドン五輪ではイタリアに 0-9 で惨敗したがその時のメンバーは1人も入っていなかった。当時の五輪では週に20ドル程度を“稼ぐ”選手でも“アマチュア”とは認められず五輪には出場できなかった。誰がどう考えても England が負ける相手では無かった。
England は初戦のChile を 2-0 で破り、米国はスペインに 1-3 で敗れた後の第二戦だった。米国はスペイン戦から選手を2人替えて、England は初戦と同じメンバーで第二戦を迎えたが England は Matthews を初戦に続いてベンチに温存した。それでも後に England をワールドカップ優勝に導いた Alf Ramsey ら世界屈指のタレントが揃っていた。試合前米国のBill Jeffrey 監督は報道陣には“ We have no chance “ とコメントしていたらしい。

前半37分アメリカ先制 !!

コイントスで勝った England がキックオフを取った。開始90秒Stanley Mortensen の左サイドから Roy Bentley にクロスが送られ最初のシュートが放たれたが GK Frank Borghi が弾き出した。そして以降予想通りにEngland の猛攻で試合が進み最初の12分で6本のシュートが飛んだがそのうちの2本はポストを叩き Borghi のセーブもあり得点は許さなかった。25分にアメリカはようやく最初のシュートを放つがこれは England GK Bert Williams に防がれた。
その後も England の猛攻は続き30,31,32分に立て続けにシュートに持ち込むが Stan Mortensen が放った2本のシュートがクロスバーを越え、Tom Finney が放ったヘッドはまたも Borghi に弾き出される等ゴールを割れなかった。
そして37分。 Walter Bahr がゴール前約20mのところから England ゴール前にボールを入れると そのボールを受けようとGK Williams が右に動くが長身の Joe Gaetjens が間に割ってヘッドを放つとそのまま England ゴールネットを揺らし劣勢であったアメリカが初戦のスペイン戦に続いて先制ゴールを挙げた。
England は終了間際に Tom Finney がシュートに持ち込もうとするも撃つ前に前半終了のホイッスルが鳴った。

England 猛攻及ばず アメリカが歴史的勝利 !!
後半も England の猛攻で試合が再開し54分、59分には決定機を掴んだが59分の Mortensen の直接FKが GK Borghi のセーブに防がれる等得点に至らない。 アメリカが後半に最初のシュートを放った時間は74分でそれだけだった。
そして82分、Mortensen がPA付近で Charlie Colombo に倒されホイッスルが鳴る。 England の全選手がペナルティーキックと思ったがイタリア人の Generoso Dattilo 主審はFKを与えた。 そのFKから Jimmy Mullen がヘッドでゴールを狙うがまたも Borghi が指先で弾き出し決定機を防いだ。そしてそのまま England はゴールを奪えずアメリカに歴史的な完封負けを喫した。 
“判官贔屓”の地元ブラジル人観客はグランドに雪崩込み殊勲の Joe Gaetjens を担ぎあげた。 地元での初優勝を願うブラジル人は England の敗戦を祈ったとも言われている。
この試合の結果報道を見た England の多くの人々が新聞社に “ 1-0 でアメリカの勝ではなく 10-0 で England の勝利のタイプミスだろう“ と抗議した事は有名な逸話だが、この時の Top News は 同日 England の Cricket チームは初めて West Indies チームに敗れた事であった。 
またアメリカではこの大会にジャーナリストを1人しか送らず、しかもその St. Louis Post-Dispatch 紙の Dent McSkimming 氏は有給を取って自腹でブラジルに来ていたらしい。そして彼の報道を掲載するメジャーな地元紙は1社だけだった。

敗れた England は1次リーグ最終戦のスペイン戦に Stanley Matthews を起用するなど選手4人を入れ替えて臨んだ。この試合に2点差で勝てば Final Round 進出 ( この大会はグループ首位のみが Final Round に進出 ) の可能性もあったがアメリカ戦敗戦のショックのせいか 0-1 で敗れてしまい1次リーグで大会を後にした。 
そしてアメリカは続くEngland 戦と同じメンバーで最終戦のチリ戦に臨んだ。前半に2点を失ったアメリカは後半開始早々に Frank Wallace, John Souza の連続ゴールで追いつくもその後3連続失点を喫し大会を終えた。 
この時のアメリカ代表の出場メンバーは8人がアメリカ国籍の選手であったがゴールを決めた Gaetjens , Ed Mcllvenny, そして Joe Maca の3人はアメリカ国籍では無かったが市民権を得る意思を持っていた事からメンバーに入れたとアメリカ連盟は説明し同年12月2日にこの選考は(当時は)間違いが無かったという事を FIFA のヒアリングで明らかにした。

当時1940年代後半から50年代初旬にかけて、アメリカ合衆国にとって Soccer とは今にも壊れそうなものだった。全国土をカバーする “ 全国リーグ “ は存在せず東海岸地区と西地区では移民の影響の強い Chicago と St.Louis のみで行われていた。 選手達はセミプロで週40時間働いて日曜日に開催される試合に臨んでいた。 Walter Bahr は体育の教師として週にUS$50稼いで週末の試合でUS$25 を得ていた。Gino Pariani は週に2回近所の空き地で練習しており暗くなると車のライトのもとでボールを追いかけていた。
当時の”ハイライト“は各リーグの勝者が集って行われる “ National Challenge Cup “ と欧州のオフシーズンの夏季に渡米する欧州のクラブチームとの Exhibition Match であった。1946年と 1948年には Liverpool 、1949年には Newcastle, Scotland 代表、 Inter Milan , Manchester United と Besiktas は1950年に渡米しそれぞれ全米選抜チームと対戦した。 そして Joe Gaetjens は1950年5月に渡米した Besiktas との試合に全米メンバーとして出場し 3-5 と敗れたが3ゴール全てを決めた事が評価されワールドカップメンバー入りとなった。(ただある文献によればこの試合は 0-5 で敗れ、彼は出場しなかったとされている。)
当時の選考は”公平を期す“為に東西両海岸のチームから8名ずつ選ばれた、とメンバーの Walter Bahr は語った。  

Capello 自身、優勝候補として臨んだ1974年ワールドカップ西ドイツ大会でイタリア代表が予選を含めて2年間ゴールを許さなかったがワールドカップ初戦、格下のハイチに Emmanuel Sanon に先制ゴールを許すなどいいところなく1次リーグで敗退したがその苦い思い出を“お粗末な体調の結果”と帰結している。
そして アメリカは今や世界ランク14位( England は9位)で1950年とは比べ物にならないくらい躍進をしている。最近のワールドカップでの実績も2002年大会ではポルトガルを相手に開始35分の間に3連続ゴールを挙げ決勝トーナメント進出を収め、2006年大会ではイタリアと激戦の末勝点1を得ている。
2008年 Capello の指揮の下 England は Wembley にアメリカ代表チームを迎え John Terry, Steven Gerrard のゴールで2-0 で勝利を収めたが油断は大いに禁物と常に Capello は警鐘を鳴らしている。昨年の FIFA Confederations Cup では北中米地区代表で出場しスペインを破り決勝戦ではブラジルを大いに慌てさせた実績を持つ。そしてそれが南アフリカで行われたという事が彼らの自信を深めている。

ワールドカップブラジル大会以降 England はアメリカと親善試合8試合を行っており7回勝っているが、1993年6月9日、地元ワールドカップ開催を翌年に控えた名将 Bora Miltinovic 率いるアメリカ代表は Boston 近郊に England を迎え 2-0 で43年振りの勝利を収めた。そして England は欧州地区予選を突破できなかった。

“私は常にもし決勝に進出したいのならば全てのチームを破らねばならないと言っている。まず最初の3試合をこなせねばならない。そして全てのゲームが容易ではないそれはワールドカップはプレッシャーの中で行われる特異なものであるからだ。 私はアメリカチームを尊敬しているそしてここでのスペイン戦を観戦した。彼らはどうプレーすべきかを知っているなぜなら既にここ南アフリカで試合を行っているからだ。 しかしスペインがここに来た時はトップコンディションではなかったことも頭に留めておかねばならない。我々は全ての対戦相手を敬うが全ての試合に恐れを持って試合をする事はない。” Capello はこう手綱を締める。
そして50年前の試合を述懐した England の Tom Finney は”我々は素晴らしいチームだった。当時は世界最高のチームと言う人もいた。弁解は出来ない。当然のことだった。我々はただ自分達の自己満足に敗れたのだ。“ という言葉を残している。

Landon Donovan は David Beckham の表情をよく見たかった。カメラは女優の Charlize Theron を捕えていたので Donovan はEngland がアメリカとの対戦が決まった瞬間の Beckham の表情をよく見られなかった。
ワールドカップの組み分け抽選の時、Donovan はアメリカでテレビ中継をそして Beckham は Cape Town のステージの上にいた。そしてその瞬間はカメラは Beckham を捕えてはいなかった。
“その瞬間 Beckham がどんな表情をしていたか見られたらなぁ…と思ったがこれは面白い事になる、と私が考えた事と同じ事を彼も思っていただろう。”
Donovan は語っている。今は Beckham と Donovan はいい関係を築いているが、かつての事をご存じの方も多いだろう。
”メディアがこのゲームを面白おかしく取り上げるのは確実だ。しかし私は大変楽しみにしている。明らかに我々の任務はそういう事を遮断してチームの事を按ずるだけだ。 しかし England との最初の試合は大変エキサイトなものだ。“

Bob Bradley アメリカ代表監督は組み分け抽選後こう述べた。
“アメリカが England と対戦する事は両国間にとっては大変な興味で偉大な TV イベントとなるだろう。 米国選手が多くプレーする Premiership は米国でも人気となっている。偉大なチームと試合をするときは常にハードでタフな試合になる。Wayne Rooney の様な選手がピッチに現れる時は注意を払わねばならない。 そしてそういう選手と争う準備をせねばならない。大変なバトルとなり大変な対戦相手となる。England はハードにタフにプレーするので我々はそれに備えねばならない。こういうトップチームを観た時、最初の試合で England と試合をするという事はビッグなチャレンジでエキサイトなチャレンジだ。 我々はハードワークをするチームで、フィールドで必要なメンタルを兼ね備えている。 攻撃と守備とのバランスを常に取り続けて来た。 我々は4年間で進化を続けて来たチームだ。 Confederations Cup では我々の必要な準備の全てを手助けてくれた。”

中心選手のFW Charlie Davis が自動車事故で大会出場が危ぶまれるが Confederations Cup で準優勝を収めた事は自信になっている。そして現在の中心選手達の所属先は下記の通りだ。

Howard (Everton), Guzan (Aston Villa), Hahnemann (Wolves), Spector (West Ham), DeMerit (Watford), Beasley (Rangers), Dempsey (Fulham), Johnson (Fulham), Altidore (Hull City) Starting XI: Howard, Spector, Bocanegra (Rennes), Onyewu (AC Milan), Bornstein (Chivas USA), Bradley (Borussia Monchengladbach), Holden (Houston Dynamo), Donovan (LA Galaxy), Clark (Houston Dynamo), Casey (Colarado Rapids), Davies (Sochaux)

多くの選手がPremierを始め欧州でプレーする。そして MLS 全日程を終了したDonovan も今年から ワールドカップ前まで Everton でプレーする。 

  


最後に60年前アメリカに奇跡の勝利をもたらした1人、 Joe Gaetjens の事を調べてみた。彼はアメリカ国籍を持っておらずハイチ国籍の選手だった。 1947年ハイチ政府から奨学金を得て New York の Colombia University に会計学の勉強の為に留学をしていた。父親はベルギー国籍をもっており母親はハイチ人だった。しかしそれほど裕福でなかったので政府奨学金を得ての留学だった。そして滞在費を稼ぐ為にドイツレストランで皿洗いのアルバイトをしていた。
前年メキシコで開催された北中米地域の予選時にはメンバー入りしておらず最終的にメンバー入りしたのは上述した Besiktasa 戦、またはチームがブラジルに出発する数週間前に F.A. 選抜チーム ( Stanley Matthews, Nat Lofthouse らがいた)と非公式に試合を行い、その時のパフォーマンスが認められたとも言われている。 

大会後 Gaetjens はアメリカ国籍を取得せず England 戦の次の Chile 戦を最後にアメリカ代表としてプレーする事はなかった。 ワールドカップ後は渡仏しフランスの名門Racing Club de Paris そして Troyes でプレーし、故郷ハイチに帰った。 
そして次のワールドカップスイス大会の北中米地区予選のハイチ代表メンバーに選ばれた。そして Port au Prince でのメキシコ戦に出場し 4-0 で敗れている。そして引退しドライクリーニング屋を経営するようになった。

しかし1964年7月8日、悲劇が彼を襲う。当時ハイチは 1957 年に大統領に就任した Papa Doc Francois Duvalier が前年から憲法を停止し、終身大統領を宣言したまさに独裁恐怖政治に入ったばかり。 市民を恐怖のどん底に陥れた秘密警察 Tonton Macoutes は片っ端から反体制者を逮捕し死刑を敢行してきたが Gaetjens にもTonton Macoutes の手が伸びて来た。彼自身は政治色の無い人間であったが彼の両親がDuvalier の政敵だったLouis Dejoie の支持者だった。そのおかげで Gaetjens は政府奨学金が得られたらしい。Duvalier が大統領になるや否や母親と兄弟は逮捕され国外追放となっていた。 そして投獄2日目に Gaetjens の姿が確認されたがそれが最後の姿だったらしい。彼が収容された Fort Dimanche 刑務所は投獄された何千人もの無実の人達が処刑されていた。
Duvalier の独裁政治は彼が心臓病を患い1971年4月に死亡する3か月前に当時まだ19歳だった息子の Jean-Claude Duvalier が大統領職を世襲して1986年失脚するまで続いた。そして Gaetjens の兄弟がようやく帰国出来るようになり彼を探したが、” Fort Dimanche 刑務所に収監されたものは全て処刑された。“と伝えられた。 Haiti 政府は 2000年に Gaetjens の功績を称え彼の記念切手を発行した。しかし遺族たちは Gaetjens の死にを明らかにするようにキャンペーンを行っているが未だ政府から正式な回答はないらしい。  

         

2006年4月(ちょっと古いか)現在、当時のアメリカ代表メンバーの中で Walter Bahr, Gino Pariani, Harry Keough, John Souza そしてファインセーブを連発した GK Frank Borghi が存命とのことだった。

歴史を掘り返してみるのもワールドカップの醍醐味だと思う。

今年6月どの試合後でもいいから、誰でもいいから日本選手の誰かがこういう風に担がれて、後世に語り継がれるような試合が演じられることを心から願う......


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2 コメント

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あけましておめでとうござます (鍼灸)
2010-01-08 00:28:04
僕も以前、joe gaetjens(へーティンスとでも読むのでしょうか?)については、このときのアメリカ代表メンバーを扱った本で読んだことがあります(確かこの本でした。まだ最近出た本です)。

W杯での「世紀の番狂わせ」(いい加減、この言い方も米国代表に失礼ですが)とその後の悲劇との対象。ベルギー系とハイチ系という珍しい出自で印象に残ってました。
今だったらベルギー政府や米国政府、そしてFIFAあたりから猛抗議が来て、大きな国際問題になってたでしょう。

ハイチって、ドミニカと陸続きで、キューバとも海を挟んですぐ近くなのにまったく野球が盛んじゃないんですね。以前から不思議でした。
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今年もよろしくお願いいたします (Mr.コンティ)
2010-01-11 14:36:20
鍼灸様

ワールドカップイヤァーが始まりました。 Socceroos の分析と追っかけはこれからじっくりやろうと思います。

Gaetjens の正しい発音。私もわかりませんが、おそらくご指摘の通りヘーティンスでしょう。
ヘーティエンス、ヘーチェンスとも読むのでしょうか?ハイチの人に訊いてみないと..でも知っているかなぁ....
ハイチは1974年西ドイツ大会ではメキシコを抑えて北中米予選を勝ち抜きましたが、当時はまだJean-Claude Duvalier の独裁時代。
Papa Doc が代表のベンチに座っている写真を見たことがあります。ドイツでこの特集記事を見つけ現在、翻訳奮闘中です。(いつ完読できるかなぁ....)
でも独裁政治は国を滅ぼす..野球も盛んでないのはここに帰結するのかも知れないですね。

今年もよろしくお願いいたします。
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