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Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

Wカップサッカー・イラン戦直前の展望

2005-03-25 | FIFA World Cup
イラン戦 その展望

Wカップアジア予選・日本対イランの試合がいよいよ今夜に迫った。今回は試合直前の展望を語る。

イランのホーム戦であるが、この試合は勝ち点で劣っているイランの方がむしろ背水の陣である。といってもこの試合を含めて5試合残っているのだから日本は必要以上に緊迫感をつのらせる必要は全く無い。日本はあくまで勝ち点1以上獲得する事を目標とし、30日のバーレーン戦で確実に3勝点を上げることだ。

① ゲームプランは?
試合前にどの様なゲームプランを講ずるのかを戦術として徹底すべきだ。
ずばり、93年ドーハで行われたアメリカワールド杯予選のイラン戦で日本がすべきプランを適用すべきだ。勝ち点で劣るイランはホームなので是が非でも勝ちたい。観客収容能力10万人以上のアザディスタジアムの熱気に乗って開始から日本ゴールを目指すであろうがそこはじっくりと耐えて相手の焦りを引き出す事だ。万が一先制点を許しても好機は必ずやって来る。イランはホームゲームではしばしば、その熱狂的な観衆の後押しを受けてフィールド選手全員がFWと化してしまいその後方にはスペースが出来そこを突かれて例え格下相手でも失点を喫する事がある。得点が入らない時は尚更で戦術など忘れて攻め上がるDFも出て来るということだ。その“習性”を利用しない手は無い。

② イランのフォーメーション
バーレーン戦同様、 4-2-3-1 の布陣だろう。攻撃はダエイのワントップに2列目は右からマハダビキア、カリミ、ハシェミアンと外国でプレーする3人が並ぶが、マハダビキア(HSV)ハシュミアン(バイエルンミュンヘン)は所属先では出番に恵まれない。HSVでのマハダビキアは右に左に現れてパスを受けたり、ドリブルでボールをキープするなどの役割を担っていたが、先日のバーレーン戦ではその様な動きは見られなかった。今年は調子もいま一つで昨年11月29日号のドイツ Kicker 紙には”auf dem absteigenden Ast “完全に落目“と特集記事まで組まれた。しかし、先々週のアウェィのビーレフェルト戦では高原に替わって投入されゴールまで上げている。同じくブンデスリーガに所属するハシュミアンよりは調子は良さそうだ。
そのマハダビキア、そしてその後方のカエビが上がった後ろに出来るスペースから得点幾が生まれると言われている。そこは4バックの真中2人セリエAでプレーし中村修輔を削ったレザイエ、ゴルモハマディそしてボランチのネクナムがカバーするが、このチームはイランの伝統的な特徴である組織立った守備陣と言う印象が無い。バケリやダエイらがドイツでプレーする様になって以来、イランの選手達にも欧州嗜好が蔓延り攻撃に重きを置くようになった弊害か? 3列目の左は昨年のAFC年間MVPのカリミであるが、アジアカップでは韓国相手に3点を挙げたその高速ドリブルは脅威だ。しかし、ボールの無い時は普通の選手と言われている。アジアカップの韓国戦では相手DFが攻撃に上がった後ろのスペースに走りこむシーンが多かった。そしてトップのアリ=ダエイ。全盛期の様な切れは無いが対日本戦4試合3ゴールは不気味だが、その当時のチームは(93年、97年、ワールド杯予選、99年親善試合)ダエイに点を取らせるチームで彼がその任務を遂行出来たからである。
今回は彼の動きと、2列目の3人をいかにダエイから配信されるであろうセカンドボールに触れさせないように腐心するべきだ。
最後に私が気になるのは、ドイツ国籍から帰化した1FCカイザースラウテルンに所属し今季既に4得点を挙げているフェリドゥーン=ザンディだ。バーレーン戦では周りとのコンビネーションが合わなかったが、日本の様に綺麗なプレーをするチームが相手だと実力を発揮するかも。
③ 敵地に乗り込む日本は?
今回の最大の焦点となった中田の起用。ジーコ監督は2列目の右に配置するつもりらしい。本来中田の得意とするトップ下には誰も置かず2列目の左に中村を張らせる布陣だが、これはアウェィゲームを守備的に闘うポジションか?フランスワールド杯2次予選の序盤で勝ち点の伸びなかった日本は北澤をトップ下に入れたことにより前線(カズ、城)と名波、中田の二人との間でよくボールが回るようになり、ジョホールバルでのイラン戦まで3連勝を飾った。
ツートップは高原と玉田。玉田はそのスピードに定評があるが、守備の意識の高い事も。高原は相手を背にしたときに横に上手く体を入れ替えて抜き去るがそういうシーンを何度見られるか?相手の右サイドの裏もそうだが、逆サイドに振って中田を起点にというシーンも見せるべきだ。さもなくば、効果的な右からの攻撃が演出できない。
ボランチには小野と福西。稲本の起用はおそらく、1点が欲しい時からだろう。だがやはり鍵を握るのは中田の調子と他の選手とのコンビネーションであろう。カウンターに転じたときに一発のキラーパスが通るか?
そしてDF。予想される4バックは正解だと思う。8年前のワールド杯予選当時の様に、強力な2トップのストライカー(ダエイ、アジジ)がいるとCBがそのマークに追われ、ボランチがDFのカバーに労力を割かれる。この4バックで相手の2列目3人を抑えに行くだろう。そして出場停止の三都主に替わり三浦淳宏が起用されるが、対峙するマハダビキアの上がりをいかに抑えるのか?マハダビキアは一時のドリブルの切れがなりを潜めており、ドリブルが上手く行かねばいかぬときほど熱くなりドリブルに拘る性格だ。2001年、横浜でのコンフェデ杯のフランス戦。途中出場しフランスDF陣を手玉にとった三浦のテクニックでそのドリブル突破を封じてもらいたい。中澤はダエイとのマッチアップでACミランのネスタの様に制空権だけでなく、そのこぼれ球を相手の思う様に落とさせない事も重要だ。ラインコントロールを司る宮本は、勇気を持ってラインを下げすぎない事だ。いくらダエイの打点が高くて強くともゴールマウスから離れたところでは怖くは無い。ここでダエイを食い止めれば、イランの攻撃の選択もマハダビキア、カリミのドリブル突破のみとなる。
そして右サイドの加治。北朝鮮戦ではあまり見せ場が無かったが相手左サイドのハシュミアンとノスラティの後ろも大きく開くときがある。特にノスラティはどうしても中に入りがちだ。そこのスペースに加治が侵入できれば好機も増える。

とにかくアウェィのイラン戦が厳しくなる事は周知の事実。その試合を勝ち点で優っている状態で臨めると言う機会を生かしたゲーム運びで試合後は我々を喜ばして欲しいものだ。
頑張れニッポン!



Wカップ予選・イラン戦に向けて 6

2005-03-24 | FIFA World Cup
前回の続きから…
その2 知られざる時代。アジアの強豪を連破
1982年11月21日 インド ニューデリー アジア大会 日本1-0 イラン
当時のイランはイスラム革命直後で客席にはホメイニ師の肖像画も見られた。だがアジアでのトップクラスということは変わらない。1980年3月のモスクワ五輪以来の公式戦であったが、初戦のイランを木村和司のゴールで 1-0 で破るという金星スタートであった。この試合はテレビ中継されなかったが試合の結果を同夜、偶然NHKラジオ放送の“アジア大会便り”で知った。番組開始早々“本日行われた競技での最大のトピックスはサッカーで日本がイランを破った事です”と興奮気味に伝えていたのを思い出す。日本は次の南イエメンを 3-1 そして韓国を原、岡田のゴールで 2-1 と逆転で下し(この試合はNHKのダイジェストで見た)、何と3連勝で12年ぶりのアジア大会ベスト8進出を決めた。準々決勝では優勝したイラクに延長戦で 0-1 と惜敗したが、日本代表がイラン、韓国といった当時のアジアのトップクラスを連破した思い出深い大会であった。

その3 カズ魂のゴール アジア王者戴冠
1992年11月3日 広島 アジアカップ 日本1-0 イラン
試合はイランペースで進んでいた。これまでイランは1勝1分け、日本は2分け。勝たねば1次リーグ敗退が決まってしまう。同年7月、北京で開催されたダイナスティ杯で優勝し、そして翌年にはワールド杯アメリカ大会の予選が始まる。そして何より翌年5月には待ちに待ったプロリーグがスタートする。その為にも地元で行われるこの大会ではベスト4(当時の本大会出場枠は8カ国)以上が望ましかった。53分にはモハマディが退場になり、68分には中山、ラモスが投入される。ボール支配率では上回っているのだが中々ゴールを割れない。元々イランは他の中東諸国と異なり、組織的な守備が出来るチームだ。だが87分、井原のロングパスに反応したエースカズがフリーで抜け出し、バウンドに合わせてステップを踏みかえて最後は5年後のジョホールバルでの戦いでもゴールマウスを守ったアベドザデーの左を破ってゴールの右上隅にシュートが突き刺さり均衡を破った。イランは残り3分に猛攻を掛けるが、焦りから逆に退場者を更に二人も出ししかもその二人が1年間出場停止処分を受けるなど自滅した。その後日本は準決勝戦の中国を逆転で 3-2 決勝戦ではサウジアラビアを高木のゴールで下し、アジア王者のタイトルを得て、そして翌年のワールド杯予選に大いに期待が寄せられることとなった。

その4 イランの執念。 前年の雪辱を果たされる
1993年10月18日 カタール ドーハ ワールド杯予選 日本1-2イラン
試合終了後、ベンチから全選手が飛び出してきて、ピッチの選手たちと歓喜の輪を作ったのはイランであった。初戦の韓国戦を 0-3 と完敗し、後が無いイランであったが、前年広島での試合で試合に敗れたばかりか、エースのピュスをはじめ3名の元代表選手が出場停止で使えなくしたその日本相手にただならぬ思いがあったであろう。前年のスタメンから6名が入れ替わったイランに対して日本は北澤に替わってラモスが先発出場で怪我の都並の替わりに三浦泰年が入っていた。イランのゲームプランは明確であった。左サイドのなれない三浦が上がった時の後方を執拗につき好機を探る。そしてラモスにはフォヌーニザデの反則覚悟の体当たりで動きを止めてしまう。日本は大会に入ってコンディションは今ひとつで高木、福田が冴えない。前半終了間際にFKからハッサン・ザデーに頭で決められ先制点を奪われると、守備に定評のあるイランはカウンター狙いに転ずる。後半、MF吉田に替えて長谷川が投入されサイド攻撃を強化するがカズのヘッドがポストを叩く等の同点ゴールが奪えない。逆に85分、デラクシャンからのスルーパスに反応したダエイがGK松永をも落ち着いて外して2点目を日本ゴールに流し込む。88分に中山が執念のゴールで1点を返すが同点には至らなかった。
日本は初戦のサウジアラビア戦を引き分けており、勝ち点ではイランを勝っていたので、日本が守備を固めてカウンター狙いでイランの焦りを引き出すというプランを立てられなかったのか?との悔いが残る。1週間後に韓国を 1-0 で下すのだが、その韓国に 0-3 で完敗したイランに 1-2 で破れた事が最後の星勘定というよりも得失点差に影響した。
以上が、個人的に選出してベストセレクション4ゲームである。
さあ、いよいよイラン戦が間近に迫ってきた。 間に合えば、明日の夕方には直前予想を掲載します!



Wカップ予選・イラン戦に向けて 5

2005-03-23 | FIFA World Cup
日本対イラン過去の対決!

これまで、日本は13度イランと対戦している。前述したとおり最初の対戦は1951年のアジア大会で2試合対戦し、以降35年間に渡って6回の対戦があるのだがそれら全てアジア大会での対戦であった。
残りの7試合は18年間で行われたが、その内容は2勝2敗3分けで、2試合の親善試合は共に引き分け、アジアカップでは1勝1分け。ワールド杯予選は1勝1敗。1990年のアジア大会では準々決勝で敗れている。日本代表が強化され、ようやくイランと“同じ土俵で”戦えるようになり、対戦回数も増えたと言えるであろう。この13回、4勝4分け5敗の対戦の中から、80年代以降に行われた対戦の中から個人的にベストセレクションしてみた。

その1 遂に開いた世界への扉 ジョホールバルの感激
1997年11月16日 マレーシア ジョホールバル ワールド杯予選 日本3-2 イラン

ドーハの悲劇から4年。今度こそ世界への切符をとの願いが日本列島を覆っていた。1次予選を突破し、苦戦続きの2次予選では最後の2試合を連勝し何とか2位の座を確保しジョホールバルに乗り込みイランとのアジア地区第三代表決定戦に臨んだ。試合前日、アジジが練習中に怪我をしたふりをし、丁寧に英語で“明日の試合は日本のものだ”と日本報道陣の前でわざわざコメントを残すなどの狂言も。
試合は開始1分、相馬のクロスをザリンチェがヘッドでクリアーをするとそのまま自軍ゴールに入ってしまったがこれはオフサイド。怪我をしたはずのアジジを含めイランは3トップの布陣であったが、日本は4バックで対応。そして39分中田のスルーパスに前節のカザフスタン戦から代表に復帰した中山が反応して先制し前半を終えたが後半に入ると開始30秒にミスからアジジに決められ同点。59分にはマハダビキアのクロスをダエイが難なく高い打点から左隅に決められた。2ヶ月前の加茂前監督の更迭後チームを引き継いだ岡田監督はその2分後に中山そしてカズを下げ城と呂比須を投入しトップの運動量をアップさせるとボール支配率が上がり主導権を握る。そして76分遂に城のヘッドで同点。このゴールを演出したのも中田のロビングであった。更に日本の攻勢は続き、3点目は時間の問題と思われたが90分では決着がつかず延長戦へ。延長戦前に選手、監督、コーチ、ドクターとベンチ全員が円陣を組み必勝を誓った日本代表の輪から岡野が投入される。延長戦に入っても日本はイランを圧倒。だがその絶好機を岡野がことごとく外す。117分、イランはマハダビキアからフリーのエース、ダエイにボールが渡るがそのショットはゴール左上に外れて行き、胸をなでおろす。そしてその2分後の119分何度も好機を演出した中田が“自ら決める”とばかりにドリブルで切れ込みそのままシュート。GKアベドザデーは一旦、体にあてて止めたがそのこぼれ球を散々好機をフイにした岡野がスライディングでゴールに流し込み、遂に長年の悲願が達成された。
イランは2次予選最後三試合で勝ち点1しか上げられないチーム状態の上、日程上二日前に現地入り。そしてブンデスリーガでプレーするバケリが出場停止中。当ラルキンスタジアムの9割近くが日本人サポーターと圧倒的不利な条件下にあったが、翌週から始まったプレーオフではオーストラリアを下し、本大会出場を決めたのはさすがあった。
この夜、日本列島は幸福感に包まれ、自分自身忘れられない日になった。
<その2へつづく>



Wカップ予選・イラン戦に向けて 4

2005-03-23 | FIFA World Cup
ドーハの悲劇。その遠因となったのが第二戦のイラン戦での敗戦であった。韓国との初戦を0-3 で完敗を喫したイランは明らかに手負いの獅子であった。日本は前年のアジアカップからエースのピュスを始め出場停止処分になっている選手が3人もおり、しかも大会前に国内のクラブチーム、ピルージでも内紛が生じ何人かの主力選手が欠けており戦力はかなり落ちると見られていた。しかし、そこにはあのアリ=ダエイが居たのであった。そしてダエイのゴールを含む2失点を返せず前年のリベンジを果たされてしまった。だがイランの勝利は北朝鮮に2-1で収めただけで、イラク 1-2 サウジアラビア 3-4 と他の中近東勢からは勝ち点を挙げられなかった。だが、この大会以降、アリ=ダエイ、バケリ、アジジといった選手が出てきてワールド杯を狙える戦力が整いつつあった。特に1996年 UAEで開催されたアジアカップの準々決勝では韓国を何と 6-2 と粉砕しその破壊的な攻撃力は他のアジア諸国の脅威となっていったのである。

ワールド杯フランス大会予選では二次予選の初戦大連で行われた中国戦では2点を先行されるものの後半に強い雨の中4連続ゴールを上げてその破壊力の健在を示した。だが、クウェートとホーム、アウェイで引き分けたり、カタールにアウェィで敗れるなど不安定な戦いが続き、結局日本とのプレーオフに回る事になった。ジョホールバルでの日本とのプレーオフではご記憶の方も多いであろう、岡野のゴールデンゴールで再びオーストラリアとのプレーオフを余儀なくされた。
大方の予想では欧州でプレーする選手を多く含むオーストラリア有利であった。それを裏付けるかの様にホームにオーストラリアを迎えた第1戦。19分にオーストラリアの若きエース、キューウェルに先制点を許す。39分にアジジのゴールで追いつくが2点目が取れずにホームでの試合を引き分け、第二戦のメルボルンでのアウェィ戦に臨んだ。試合はホームのオーストラリアが主導権を握り、31分にキューエル、48分にはビドゥーカのゴールで 0-2 と下馬評通りの展開であった。しかし、ここからイランFWの破壊力が爆発する。75分にはアジジ、79分にはバケリが連続ゴールを上げあっという間に同点に追いつきそのままタイムアップ。アウェィゴール数が有利のルールでイランが32番目の代表国に滑り込んだ。この試合は日本でもNHK衛星放送で生中継され、試合後ジョホールバルでの勝利に改めて感謝した人も多かったであろう。
そしてイランは20年ぶりに本大会出場を決めたワールド杯フランス大会で、ユーゴスラビア、米国、ドイツと同じF組に振り分けられる。
初戦のストイコビッチ率いるユーゴ、(0-1) ドイツ (0-2 )には敗れたが米国にはマハダビキアのゴールで 1-0 と勝利を収めた。本大会にはアジアからサウジアラビア、韓国、日本が出場したが、勝利を挙げたのはイランだけであった。
以降のイランはアジア大会で連覇(98年バンコック、02年釜山)を収めるがアジアカップでは2000年のレバノン大会では準々決勝で韓国にVゴール負け、そして五輪、ワールド杯への出場
はまだ果たせていない。特にワールド杯アジア予選では最終戦で対戦した格下のバーレーンに 1-3 で敗れてしまい、UAEとのプレーオフを経てアイルランドとの決定戦を余儀なくされた。
タブリンで行われた第一戦は 0-2 で完敗。テヘランでの第二戦もロスタイムでのゴールで2-1と勝利を収めるも、得失点差で及ばずバーレーン戦の前にほぼ手中にしていた出場権を最後まで握ることは無かった。 試合後のアリ=ダエイの男泣きが印象的であったらしい。
だが昨夏、北京で開催されたアジア=カップでは3位に終わったが、準々決勝で韓国から3点を挙げたカリミの出現は90年代後半のあの破壊力を彷彿させるものであったのだ。<つづく>




Wカップ予選・イラン戦に向けて 3

2005-03-22 | FIFA World Cup
1978年、アヤトラ=ホメイニ師が指揮したイスラム革命はあっと言う間に全土に広がり、ついにはパフラヴィ王朝を倒してしまう。そしてモハメド・メザ・シャー・パフラヴィ国王は亡命を余儀なくされるが、その王朝の資産がアメリカの銀行に隠されているとのことで、在イランアメリカ大使館員がその資産引渡しを巡って1年以上に渡って軟禁状態にあったことを覚えている人もいるのでないか? そして1973年の第3次中東戦争をきっかけに湾岸産油諸国の発言力が強くなる中、アジアのスポーツ界でも変動が起こる。1978年にバンコックで開催されたアジア大会ではイスラエルの参加を拒否。一時、あらゆる国際スポーツ団体はこの決定に、同大会に出場した選手全員を今後の五輪を含めた国際大会への参加権を剥奪すると言う動きもあったが、結局イスラエルが大会から締め出されただけに終わった。そしてついに FIFAは次のワールド杯スペインからイスラエルをアジアから欧州地区に入れる決定を下した。 イランは同アジア大会には参加出来なかったが、1980年3月にシンガポールで開催されたモスクワ五輪アジア予選第3組ではシンガポール、中国、北朝鮮を寄せ付けず無敗で3大会連続五輪予選突破を果たしたが、西側諸国に同調して当五輪をボイコットした。
81年に始まったワールド杯スペイン大会予選ではクウェート、マレーシア、韓国、タイと同組に振り分けられたが棄権。そして翌年11月、インドのニューデリーで開催されたアジア大会に臨んだ。その緒戦の対戦相手は日本。日本は79分に木村和志の挙げたゴールで 1-0 とイランを破り、尚も韓国も破り12年ぶりにアジア大会ベスト8に進出してしまう。イランもベスト8に進出したが、準々決勝でクウェートに敗れた。(日本は優勝したイラクに敗れる)
この頃は豊富なオイルダラーを元にサウジアラビアが台頭している時期でありアジアカップでは84,88年と2連覇。五輪もロス五輪にアジア代表で出場を史上初めて果たした。そしてイラクも84年のロス五輪、86年のワールド杯メキシコ大会に勝ち抜いて出場権を勝ち得て90年のワールド杯イタリア大会では韓国に並んで UAEが出場権を獲得するなど他の中東勢に凌駕されている時期であった。そして90年代になると新しい戦力が育ってくる。1990年、北京で開催されたアジア大会では準々決勝で日本を、準決勝では韓国そして決勝では北朝鮮と東アジア諸国を破り16年ぶりの優勝を収めた。日本とは前回のソウルでのアジア大会一次予選でも対戦しており 2-0 で退けている。日本とは3位に終わった1988年カタールで開催されたアジアカップでも一次リーグでも対戦しておりこの時は 0-0 で引き分けているがこの時日本は地区予選から学生代表を送っており、本大会で対戦した“日本代表”も学生代表であった。そして92年広島で開催されたアジアカップの一次リーグ第三戦。引き分けでも準決勝進出が決まる日本との試合ではゲームプランどおり堅守を武器に試合展開が進められたが87分にカズが値千金のゴールによって一次リーグ敗退となった。しかも失点の後にモハマド=ハニ、フルシャド=ピュスが相次いで退場になり、主審に対する暴行でモハラミ、モガダムの二人もAFCから一年間の出場停止処分を受けるという痛手を負った。日本はこの大会で初優勝を飾り翌年のワールド杯アメリカ大会予選に大いに期待が寄せられたが、周知のドーハの悲劇を招いて悲願はならなかったのである。<つづく>

Wカップ予選・イラン戦に向けて 2

2005-03-21 | FIFA World Cup
そして、1973年のワールド杯ドイツ大会予選。地元で集中開催となった一次予選ではシリア、北朝鮮、クウェートを退け準決勝に進んだがそこには当時最強を誇ったオーストラリアがいた。まずシドニーでは 3-0 と完敗してしまう。3年前に地元テヘランに遠征して来たオーストラリアに 1-2 と破れているだけに相手が精神的に優位に立っていたと思われる。しかし、次の地元テヘランでのリターンマッチではアザディスタディアムに集った13万人の後押しを得て開始31分で2点を先取。3点目は時間の問題と思われたが、豪州GKジミー=フレージャーの前に残りの60分間ゴールを阻まれ追いつくことは出来なかった。そしてオーストラリアは決勝で韓国を破って悲願の本大会出場を果たした。そして同年9月地元テヘランで開催されたアジア大会では堂々の優勝を果たし、1976年にはモントリオール五輪の出場、アフリカ諸国のボイコットで4カ国が棄権したことも手伝ってキューバを破りベスト8に進出。準々決勝では銅メダルのソ連に 1-2と惜敗したが、一次リーグでは銀メダルのポーランドに 2-3と健闘するなど収穫のある五輪であった。そして再び地元開催となったアジアカップでも準決勝でイラク、決勝でクウェートを破り大会3連覇を飾った。この頃から中東勢諸国の台頭が目立ち始めるが、その中でもイランが抜きん出ていたのはイスラエルの存在も否定できない。他の湾岸諸国が政治的、宗教的な事からイスラエルとの対戦を拒否してきたことから闘わずして予選大会等から姿を消していたのに対し、イランだけは対戦を拒否する事も大会を棄権する事も無く戦績を残すことが出来たのだった。これは前述したが彼らがもともと欧州系の民族であったということに寄与する。アジアカップの3連覇、五輪の連続出場そしてベスト8、アジア大会優勝と来れば、願いは1つ1978年アルゼンチンワールド杯の出場であった。
そのアジア地区予選。グループ3にサウジアラビア、シリア、クウェートと組み分けられたがイラクは棄権。サウジアラビアをホームで2-0 アウェィでも3-0と一蹴し、シリアもホームで2-0と下し、(シリアはホームゲームを棄権)難なく2次予選に進出。2次予選は韓国、クウェート、オーストラリア、香港を合わせた5カ国が史上初めてアジア地域をホーム&アウェーで戦うことになった。この2次予選でもイランは他国を圧倒。韓国とはホーム、アウェィ共に引分けるが他の4カ国との対戦ではホーム、アウェィ共に取りこぼす事は無く、8戦6勝2分けの堂々の1位で悲願のワールド杯出場を決めた。まだ大会の出場枠が16カ国、アジア枠は1カ国しか無かった時代である。
カブール=ヤハニ、ハッサン=ロウシャン、エスカンドリアン(後に米国のニューヨーク=コスモスに入団)といった優秀な選手が育ってきていた。 そして翌年のアルゼンチン大会。一次リーグはオランダ、スコットランド、ペルーと同じD組に振り分けられた。その初戦は前回衝撃的なトータルフットボールを掲げて2位になったオランダであった。クライフは本大会には参加しなかったが、レンセンブリンク、クロル等の前大会の経験者を多く揃えたオランダにとってアジアから初出場のイランは敵では無かった。最初のビッグチャンスはイランに訪れたが、その好機を逸すると後は完全なオランダペース。レンセンブリンクにハットトリックを献上してしまった。世界の列強相手にどれだけアジアNO.1のイランが戦えるか期待されたが、技術、戦術、体力、全ての面に於いてレベルが違った。優っていたのはラフプレーの多さで時間が経つにつれてその荒さは目立ち、レンセンブリンクの得点のうち2点はPKに因るものであった。
第二戦は、初戦のペルー戦を 1-3 と逆転で失ったスコットランドとの戦いとなった。スコットランドとしてもイランからは勝ち点2(当時は勝利が勝ち点2)を計算していた。そして相手のクロスを蹴り出そうとしたエスカンドリアンのクリアーボールがそのまま自軍ゴールに入ってしまい、先制点を許すスタートとなった。しかし、後半名手アーチ=ゲミルからダナイファルがボールを奪い、同点ゴールを挙げる。試合はそのままタイムアップ。前大会アジア、オセアニア地区の代表であったオーストラリアが果たせなかった、勝ち点と得点を挙げることが出来た。そして次のペルーを下せば二次リーグ進出の可能性も出てきた。しかしエース、ハッサン=ローシャンがゴールを挙げたが、ペルーのペレと呼ばれていたクビジャスにPK2本を含むハットトリックを喫しが、1-4と完敗し大会を後にした。 FIFA では大会出場国の拡大と共にアジア枠を2に増やすことを大会中から非公式に匂わせており、しばらくアジア盟主に君臨するであろうイランの連続出場が予想されたが、同年末に同国にイスラム革命が起こり、パフラビィ王朝が倒れてしまう。そしてこの国の様相が王国から宗教国家に様変わりし、サッカーどころではなくなってしまうのであった。<つづく>


Wカップ予選・イラン戦に向けて 1

2005-03-20 | FIFA World Cup
あと5日後に迫ったイラン戦。はっきり言える事は今、手負いの獅子であるのはイランの方である。そして手負いの獅子ほど手強いものは無い。イランとの戦力差を考えればこの試合は決してイージーなものでは無く。勝ち点0も計算せねばならないが、ワールド杯へは上位2カ国に出場権が与えられ、以降まだ4試合残っていることも頭に入れておくべきだろう。
それではまず、このイランのサッカーの歴史から述べて行きたいと思う。

イランサッカーの歴史
アジアの勢力図では中近東勢に列強が集中しているが、イランこそが歴史的にもリーダー的な存在である。元々古代ペルシャ以来の伝統のある国でアラビア人やトルコ人らとこの地域の文化の中心となってきた。そして20世紀に入っても近隣諸国が西欧列強の支配下に置かれる中、それらの国々との緩衝地域という地理もあり独立は保ってきた。そして独立を保つ功績を担ってきたパフラヴィ朝(パーレビ朝とも言う)を受け継いだレザ・ハーン国王が西欧教育の一環としてサッカー等の近代スポーツを学校教育の一環として取り入れだした。スポーツが学校教育の一環になるというのは世界でも日本、韓国、中国くらいで当時の国王の発案がユニークであった事が伺える。しかしサッカーの浸透が先の3カ国よりも早かったのは、もともとペルシャ人はゲルマン人と同じアーリア系民族で体力的にも優れていた点が上げられる。サッカー協会の設立は戦前の1920年。これは中東諸国でイランだけであり、FIFAへの加盟も 1945年でアジアでも最初の加盟である。
第二次大戦前のイランは時代の背景もあるが日本等の極東諸国との対戦は無くアゼルバイジャンやグルジアと言った旧ソ連邦(当時は独立国)のコーカサス諸国との交流しか無かったが、戦後は中近東諸国の中では最初にAFC ( アジアサッカー連盟 )に加盟。1951年インドのニューデリーで開催された第一回アジア大会に参加。準決勝では日本と対戦。0-0 で引分けたそして再試合ではイランが先制し、日本が追いつくと言う展開であったが常にイランが先手を取り 3-2で日本を退け決勝に進んだ。決勝戦は当時英国支配の影響でアジアではサッカー列強国であった地元にインドに破れた。一方日本は3位決定戦でアフガニスタンを2-0で破ったが、アフガニスタンと対戦すると言うことが今の世相との違いを示している。
日本はこれまでイランとは13回戦っているが、上記の2試合を含め最初の6試合がアジア大会での対戦であった。1966年、東京五輪を終えて次のメキシコ五輪に向けて強化中であった日本代表はバンコックで開催されたアジア大会の目標を優勝と捉えていた。だがその前に立ちはだかったのは韓国ではなくイランであった。一次リーグでは釜本、杉山、八重樫のゴールで 3-1 と快勝を挙げたが、準決勝ではイスマイリが挙げた1点が返せず優勝は果たせなかった。日本に雪辱を果たしたイランだが決勝ではビルマに敗れ初優勝はならなかった。日本は3位決定戦でシンガポールを2-0で破り銅メダルに終わった。当時はまだ東南アジア諸国がアジアのサッカー界をリードしていたが、60年代から70年代に入るとモハメド・メザ・シャー・パフラヴィ国王の指導のもと原油輸出で得た外貨で近代化路線を一気にはかり始め、アジアのサッカー界でも頭角を現すようになる。1968年、地元で開催されたアジアカップでは優勝を果たす。そして彼らの願いは世界への扉を開くことであった。そして1972年のミュンヘン五輪にはアジア地区予選を突破。マレーシア、ビルマに並んで出場を果たす。アジアの3カ国は全て一次リーグで敗退。イランは銀メダルのポーランドに 0-5,デンマークに 0-4と連敗した後に五輪チームとはいえ勝てばベスト8進出の可能性のあったブラジルを 1-0 と破ったことにより自信を深めた。そして同年バンコックで開催されたアジアカップでも決勝戦で韓国を2-1と破り連覇を果たしたのであった。 <つづく>