Mr.コンティのRising JAPAN

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Wカップ予選・イラン戦に向けて 3

2005-03-22 | FIFA World Cup
1978年、アヤトラ=ホメイニ師が指揮したイスラム革命はあっと言う間に全土に広がり、ついにはパフラヴィ王朝を倒してしまう。そしてモハメド・メザ・シャー・パフラヴィ国王は亡命を余儀なくされるが、その王朝の資産がアメリカの銀行に隠されているとのことで、在イランアメリカ大使館員がその資産引渡しを巡って1年以上に渡って軟禁状態にあったことを覚えている人もいるのでないか? そして1973年の第3次中東戦争をきっかけに湾岸産油諸国の発言力が強くなる中、アジアのスポーツ界でも変動が起こる。1978年にバンコックで開催されたアジア大会ではイスラエルの参加を拒否。一時、あらゆる国際スポーツ団体はこの決定に、同大会に出場した選手全員を今後の五輪を含めた国際大会への参加権を剥奪すると言う動きもあったが、結局イスラエルが大会から締め出されただけに終わった。そしてついに FIFAは次のワールド杯スペインからイスラエルをアジアから欧州地区に入れる決定を下した。 イランは同アジア大会には参加出来なかったが、1980年3月にシンガポールで開催されたモスクワ五輪アジア予選第3組ではシンガポール、中国、北朝鮮を寄せ付けず無敗で3大会連続五輪予選突破を果たしたが、西側諸国に同調して当五輪をボイコットした。
81年に始まったワールド杯スペイン大会予選ではクウェート、マレーシア、韓国、タイと同組に振り分けられたが棄権。そして翌年11月、インドのニューデリーで開催されたアジア大会に臨んだ。その緒戦の対戦相手は日本。日本は79分に木村和志の挙げたゴールで 1-0 とイランを破り、尚も韓国も破り12年ぶりにアジア大会ベスト8に進出してしまう。イランもベスト8に進出したが、準々決勝でクウェートに敗れた。(日本は優勝したイラクに敗れる)
この頃は豊富なオイルダラーを元にサウジアラビアが台頭している時期でありアジアカップでは84,88年と2連覇。五輪もロス五輪にアジア代表で出場を史上初めて果たした。そしてイラクも84年のロス五輪、86年のワールド杯メキシコ大会に勝ち抜いて出場権を勝ち得て90年のワールド杯イタリア大会では韓国に並んで UAEが出場権を獲得するなど他の中東勢に凌駕されている時期であった。そして90年代になると新しい戦力が育ってくる。1990年、北京で開催されたアジア大会では準々決勝で日本を、準決勝では韓国そして決勝では北朝鮮と東アジア諸国を破り16年ぶりの優勝を収めた。日本とは前回のソウルでのアジア大会一次予選でも対戦しており 2-0 で退けている。日本とは3位に終わった1988年カタールで開催されたアジアカップでも一次リーグでも対戦しておりこの時は 0-0 で引き分けているがこの時日本は地区予選から学生代表を送っており、本大会で対戦した“日本代表”も学生代表であった。そして92年広島で開催されたアジアカップの一次リーグ第三戦。引き分けでも準決勝進出が決まる日本との試合ではゲームプランどおり堅守を武器に試合展開が進められたが87分にカズが値千金のゴールによって一次リーグ敗退となった。しかも失点の後にモハマド=ハニ、フルシャド=ピュスが相次いで退場になり、主審に対する暴行でモハラミ、モガダムの二人もAFCから一年間の出場停止処分を受けるという痛手を負った。日本はこの大会で初優勝を飾り翌年のワールド杯アメリカ大会予選に大いに期待が寄せられたが、周知のドーハの悲劇を招いて悲願はならなかったのである。<つづく>

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