Mr.コンティのRising JAPAN

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Wカップ予選・イラン戦に向けて 5

2005-03-23 | FIFA World Cup
日本対イラン過去の対決!

これまで、日本は13度イランと対戦している。前述したとおり最初の対戦は1951年のアジア大会で2試合対戦し、以降35年間に渡って6回の対戦があるのだがそれら全てアジア大会での対戦であった。
残りの7試合は18年間で行われたが、その内容は2勝2敗3分けで、2試合の親善試合は共に引き分け、アジアカップでは1勝1分け。ワールド杯予選は1勝1敗。1990年のアジア大会では準々決勝で敗れている。日本代表が強化され、ようやくイランと“同じ土俵で”戦えるようになり、対戦回数も増えたと言えるであろう。この13回、4勝4分け5敗の対戦の中から、80年代以降に行われた対戦の中から個人的にベストセレクションしてみた。

その1 遂に開いた世界への扉 ジョホールバルの感激
1997年11月16日 マレーシア ジョホールバル ワールド杯予選 日本3-2 イラン

ドーハの悲劇から4年。今度こそ世界への切符をとの願いが日本列島を覆っていた。1次予選を突破し、苦戦続きの2次予選では最後の2試合を連勝し何とか2位の座を確保しジョホールバルに乗り込みイランとのアジア地区第三代表決定戦に臨んだ。試合前日、アジジが練習中に怪我をしたふりをし、丁寧に英語で“明日の試合は日本のものだ”と日本報道陣の前でわざわざコメントを残すなどの狂言も。
試合は開始1分、相馬のクロスをザリンチェがヘッドでクリアーをするとそのまま自軍ゴールに入ってしまったがこれはオフサイド。怪我をしたはずのアジジを含めイランは3トップの布陣であったが、日本は4バックで対応。そして39分中田のスルーパスに前節のカザフスタン戦から代表に復帰した中山が反応して先制し前半を終えたが後半に入ると開始30秒にミスからアジジに決められ同点。59分にはマハダビキアのクロスをダエイが難なく高い打点から左隅に決められた。2ヶ月前の加茂前監督の更迭後チームを引き継いだ岡田監督はその2分後に中山そしてカズを下げ城と呂比須を投入しトップの運動量をアップさせるとボール支配率が上がり主導権を握る。そして76分遂に城のヘッドで同点。このゴールを演出したのも中田のロビングであった。更に日本の攻勢は続き、3点目は時間の問題と思われたが90分では決着がつかず延長戦へ。延長戦前に選手、監督、コーチ、ドクターとベンチ全員が円陣を組み必勝を誓った日本代表の輪から岡野が投入される。延長戦に入っても日本はイランを圧倒。だがその絶好機を岡野がことごとく外す。117分、イランはマハダビキアからフリーのエース、ダエイにボールが渡るがそのショットはゴール左上に外れて行き、胸をなでおろす。そしてその2分後の119分何度も好機を演出した中田が“自ら決める”とばかりにドリブルで切れ込みそのままシュート。GKアベドザデーは一旦、体にあてて止めたがそのこぼれ球を散々好機をフイにした岡野がスライディングでゴールに流し込み、遂に長年の悲願が達成された。
イランは2次予選最後三試合で勝ち点1しか上げられないチーム状態の上、日程上二日前に現地入り。そしてブンデスリーガでプレーするバケリが出場停止中。当ラルキンスタジアムの9割近くが日本人サポーターと圧倒的不利な条件下にあったが、翌週から始まったプレーオフではオーストラリアを下し、本大会出場を決めたのはさすがあった。
この夜、日本列島は幸福感に包まれ、自分自身忘れられない日になった。
<その2へつづく>



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