Mr.コンティのRising JAPAN

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Wカップ予選・イラン戦に向けて 2

2005-03-21 | FIFA World Cup
そして、1973年のワールド杯ドイツ大会予選。地元で集中開催となった一次予選ではシリア、北朝鮮、クウェートを退け準決勝に進んだがそこには当時最強を誇ったオーストラリアがいた。まずシドニーでは 3-0 と完敗してしまう。3年前に地元テヘランに遠征して来たオーストラリアに 1-2 と破れているだけに相手が精神的に優位に立っていたと思われる。しかし、次の地元テヘランでのリターンマッチではアザディスタディアムに集った13万人の後押しを得て開始31分で2点を先取。3点目は時間の問題と思われたが、豪州GKジミー=フレージャーの前に残りの60分間ゴールを阻まれ追いつくことは出来なかった。そしてオーストラリアは決勝で韓国を破って悲願の本大会出場を果たした。そして同年9月地元テヘランで開催されたアジア大会では堂々の優勝を果たし、1976年にはモントリオール五輪の出場、アフリカ諸国のボイコットで4カ国が棄権したことも手伝ってキューバを破りベスト8に進出。準々決勝では銅メダルのソ連に 1-2と惜敗したが、一次リーグでは銀メダルのポーランドに 2-3と健闘するなど収穫のある五輪であった。そして再び地元開催となったアジアカップでも準決勝でイラク、決勝でクウェートを破り大会3連覇を飾った。この頃から中東勢諸国の台頭が目立ち始めるが、その中でもイランが抜きん出ていたのはイスラエルの存在も否定できない。他の湾岸諸国が政治的、宗教的な事からイスラエルとの対戦を拒否してきたことから闘わずして予選大会等から姿を消していたのに対し、イランだけは対戦を拒否する事も大会を棄権する事も無く戦績を残すことが出来たのだった。これは前述したが彼らがもともと欧州系の民族であったということに寄与する。アジアカップの3連覇、五輪の連続出場そしてベスト8、アジア大会優勝と来れば、願いは1つ1978年アルゼンチンワールド杯の出場であった。
そのアジア地区予選。グループ3にサウジアラビア、シリア、クウェートと組み分けられたがイラクは棄権。サウジアラビアをホームで2-0 アウェィでも3-0と一蹴し、シリアもホームで2-0と下し、(シリアはホームゲームを棄権)難なく2次予選に進出。2次予選は韓国、クウェート、オーストラリア、香港を合わせた5カ国が史上初めてアジア地域をホーム&アウェーで戦うことになった。この2次予選でもイランは他国を圧倒。韓国とはホーム、アウェィ共に引分けるが他の4カ国との対戦ではホーム、アウェィ共に取りこぼす事は無く、8戦6勝2分けの堂々の1位で悲願のワールド杯出場を決めた。まだ大会の出場枠が16カ国、アジア枠は1カ国しか無かった時代である。
カブール=ヤハニ、ハッサン=ロウシャン、エスカンドリアン(後に米国のニューヨーク=コスモスに入団)といった優秀な選手が育ってきていた。 そして翌年のアルゼンチン大会。一次リーグはオランダ、スコットランド、ペルーと同じD組に振り分けられた。その初戦は前回衝撃的なトータルフットボールを掲げて2位になったオランダであった。クライフは本大会には参加しなかったが、レンセンブリンク、クロル等の前大会の経験者を多く揃えたオランダにとってアジアから初出場のイランは敵では無かった。最初のビッグチャンスはイランに訪れたが、その好機を逸すると後は完全なオランダペース。レンセンブリンクにハットトリックを献上してしまった。世界の列強相手にどれだけアジアNO.1のイランが戦えるか期待されたが、技術、戦術、体力、全ての面に於いてレベルが違った。優っていたのはラフプレーの多さで時間が経つにつれてその荒さは目立ち、レンセンブリンクの得点のうち2点はPKに因るものであった。
第二戦は、初戦のペルー戦を 1-3 と逆転で失ったスコットランドとの戦いとなった。スコットランドとしてもイランからは勝ち点2(当時は勝利が勝ち点2)を計算していた。そして相手のクロスを蹴り出そうとしたエスカンドリアンのクリアーボールがそのまま自軍ゴールに入ってしまい、先制点を許すスタートとなった。しかし、後半名手アーチ=ゲミルからダナイファルがボールを奪い、同点ゴールを挙げる。試合はそのままタイムアップ。前大会アジア、オセアニア地区の代表であったオーストラリアが果たせなかった、勝ち点と得点を挙げることが出来た。そして次のペルーを下せば二次リーグ進出の可能性も出てきた。しかしエース、ハッサン=ローシャンがゴールを挙げたが、ペルーのペレと呼ばれていたクビジャスにPK2本を含むハットトリックを喫しが、1-4と完敗し大会を後にした。 FIFA では大会出場国の拡大と共にアジア枠を2に増やすことを大会中から非公式に匂わせており、しばらくアジア盟主に君臨するであろうイランの連続出場が予想されたが、同年末に同国にイスラム革命が起こり、パフラビィ王朝が倒れてしまう。そしてこの国の様相が王国から宗教国家に様変わりし、サッカーどころではなくなってしまうのであった。<つづく>


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