歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

鬼怒川 「矢板市」で「謎の人物」に遭遇!?

2007年06月09日 | 下山事件
昨日の続きです。

そばを食べ終わり、294号線を10分ほど走り、右折して408号線に入りると「両側」は工場地帯です。

このコースで、一番「景色の悪い」、「真岡工業団地」です。一部上場企業の名前がチラホラと見えます。

いつもより、「通過」するのに時間がかかりませんでした。この道は「団地内」だけ「片側2車線」なのですが、交差点に右折ラインが無いため、右折渋滞が起こるのです。

いつもですと、工場へ貨物を搬入する「大型トラック」の右折が頻繁にあるのですが、今回は、ほとんど無く、交通量も以前よりかなり少なくなっています。各企業が「生産拠点」を海外に移転した影響でしょうか?

工場団地を抜け、408号線を暫く走り4号線に入ります。4号線の矢板市の手前でいつも、渋滞があるのですが、ここも今回はスムーズに通過しました。

渋滞の原因は「早川町」にある「シャープ」の「工場群」に、出入りする大型トラックの影響と思います。

ここも今回は、車両の通行量が減少していました。やっぱり「国内製造業」の「空洞化」でしょうか?

シャープの工場を通過し、左折して461号線に入り、矢板市街を走っている時でした。偶々、信号待ちで停車していると、右側に「黒塀」の「長屋門」があったのです。


見ると「立て看板」に「矢板武記念館」とありました。その時は、特に気にも留めなかったのです。一応、記念に写真を撮っておいた程度でした。

今回、ブログを書くにあたって、念のため「矢板武」って「どんな人」と、思いネットで調べみました。

この人が「矢板武」です。明治3年ごろ「坂巻武兵衛(さかまき ぶへえ)」は矢板の地名をとって「矢板 武(やいた たけし)」と名乗ったそうです。


以下は「記念館のHP」あった記述の要約です。
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『矢板武』は那須野が原の開拓に尽力したり、この地方の副戸長(ふくこちょう)、区長(くちょう)をつとめるなど地域の指導者でした。

日本鉄道株式会社<現在のJR>の役員となって矢板に鉄道が通るように努力し下野銀行や、矢板銀行など 、設けて頭取となる。

矢板武の跡(あと)を継いだのは矢板寛(やいたひろし)です。武の子は女子ばかりでしたので、渋沢栄一の媒酌(ばいしゃく)<仲人>により福井市の名門「野村家」から養子を迎えたのです。

矢板寛は旧制東京帝国大学(今の東京大学)を卒業した秀才で特に中国文学には優れた学者でした。中国から日本に帰ってからは、下野銀行の頭取、矢板銀行の頭取、矢板町長など要職に付く。

矢板寛の子も女子ばかりでしたので、跡継ぎとして福井市の名門「加藤家」から養子を迎えることになり、迎えられたのが『矢板玄蕃(やいたげんば)』です。

矢板玄蕃も旧制東京帝国大学卒業で経済学に優れた人でした。経済界の要職につき活躍していましたので、東京に住んでいることが多かったようです。矢板に帰ってからは矢板市教育委員会教育長などの職につきました。

矢板玄蕃の子が「矢板玄(くろし)」です。玄は科学者として昭和電工などの会社で活躍しました。
晩年は矢板信用組合理事長などをつとめ、この矢板家に住んでいました。

要約終了
――――――――――――――――――――――――――――

ここまで読んできて、うん? あれ? 何か聞いたような? もしかして? 「矢板玄」って「あの人」かも知れないと、思ったのです。

それは、かなり「以外」な「歴史的な事件?」の「関係者?」なのかも知れないと思ったのです。

鬼怒川温泉の話しが、かなり「脱線」していますが、面白そうなので「横道」に逸れたいと思います。

話しが長くなるので、ここから先は明日に続きます。

それでは、また明日。









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