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近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

二・二六事件!皇道派!統制派!帝国主義時代の挙国一致!で戦争へ!

2019年12月12日 | 世間話し

前回の続き、二・二六事件のお話です。

半藤一利著「昭和史1926-1945」(平凡社)とか、原武史著「松本清張で読む昭和史」(NHK出版)とか、その他の関連本とか、NHKスペシャルとか、そんな、こんなの感想を綴っています。

二・二六事件は、昭和11(1936年)年2月26日に、千四百名の将兵が首都東京で決起、首相官邸、警視庁を占拠。天皇親政の軍事独裁政権樹立を目指した軍事クーデター。4日後の29日に鎮圧される。

※ウィキペディアより転載

私が生まれたのが昭和25年ですから、生まれる14年前の出来事。そして、今からだと、84年前の事になります。

生まれる14年前だと、とても身近に感じるし、今から84年前と考えると、遠い過去の出来事。

一応、それなりに時代背景で、歴史のお勉強。

昭和元年(1926年 昭和の年号+25が西暦)

  2年 昭和金融恐慌 南京事件 

  4年 世界恐慌 

  5年 ロンドン海軍軍縮会議

  6年 満州事変

  7年 3月満州国建国 

      5月5・15事件 海軍青年将校が犬養毅を暗殺5・15事件 

     8年  国際連盟脱退

    11年   二・二六事件

    12年   盧溝橋事件 ・日中戦争

    13年   国家総動員法が制定

  14年   ドイツ軍ポーランド侵攻で第二次大戦

    15年   日独伊の三国同盟が成立

    16年   真珠湾攻撃で太平洋戦争開戦

226事件の前後の、世界は、日本は、ざっくりこんな世情なのでした。

それで、226事件で出てくるのが、陸軍の皇道派と統制派の対立話。簡単にまとめると、早い話、方法論の違い。

私的には、

皇道派は感覚的で精神主義的で、個人重視で、天皇を本心で神と信じ、天皇の元に挙国一致で国難を打開し、変革を考える、ある意味、とても、とても、純粋、純真な勢力。

統制派は冷静で、理論的で、政治的で、官僚的で、組織的で、帝国主義の時代、天皇制と云う統治機構の有効性を認め、建前として天皇を神とする勢力。

だった、と、理解します。

まあ、どちらにしても、目指すところは「天皇を頂点とした軍事独裁国家」の樹立です。

統治形態としての天皇制を認める勢力と、神としての天皇制を純粋に信じる勢力は、今でも存在していると考えます。

兎に角、時代背景として、世界は帝国主義の、植民地の時代で、領土分捕り合戦で、資源分捕り合戦、食うか食われるかで、すべては武力で、戦争で、総力戦で、解決の時代。

226事件は皇道派の青年将校が起こした訳ですが、初日は、首相官邸、警視庁を占拠し、主要閣僚を暗殺し、軍上層部も同調する様子を見せ、それなりに成功したかに見えたのです。

決起軍は権力の中枢機関を占拠した後の、具体的な行動計画は考えていなかったのです。決起したことで、天皇に声が届き、我々に味方する、と、都合良く考えていたのです。

しかし、昭和天皇は彼らの思いとは異なり、決起した将兵千四百名を反乱軍としたのです。クーデター軍は大誤算で、ほどなく鎮圧され、首謀者の17名は死刑。

結果、皇道派は軍中枢から排除され、統制派が中心となり、この頃より、国体は天皇を中心とする軍事独裁政権として、変化し確立されていくのです。

問答無用で、斬り殺され、撃ち殺される現実を見せつけた、この反乱軍の行動は、軍隊への、軍人への、武装組織への恐怖を世間に抱かせたのでした。

官僚にも、政治家にも、文化人にも、学者にも、言論人にも、一般人にも、大きな影響を与えたのです。

権力に逆らう者は、生命の危機にさらされる恐怖。

226事件の対応により、昭和天皇は、最高権力者としての、大元帥としての、権威・権力を、実質的にも確立されたのです。

 

話の途中ですが、本日はこれまでとします。

 

それでは、また。

 

 

コメント (2)
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