世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
沈黙の狼
ファルカシュ・イシュトヴァーン(István Farkas)。ユダヤ人で、アウシュビッツで死んでいる。
この人はユダヤ系ハンガリー画家としては最も有名らしい。ケチケメート・ギャラリーでは彼の絵が一部屋を占めていた。
大変気が滅入り、後味の悪い絵を描く。長くパリに滞在し、エコール・ド・パリの画家として国際的な評価を得たというが、エコール・ド・パリと聞いて私が思い出す、アンニュイな柔らかさが一つもない。
死の影につきまとわれた人生を送り、死の不安が滲み出た絵を描いた画家は多い。が、この時期のユダヤ画家たちの絵に現われる死の恐怖は、そういうものとは違う。
そこには、生への憧憬や渇望がない。代わりにあるのは、邪悪への沈黙。不条理に対するやるせなさ。その不条理ゆえに、邪悪な力が脈絡なく自分だけは見逃すかもしれないという僥倖への、センチメンタルな期待。一言で言えば、拭いえない死相が現われている。
ファルカシュの絵にも、そういう雰囲気がある。輪郭線の曖昧な、水彩のような、未完のままのような画面。そこに一人、二人たたずむ、居場所のない不安定な、影のような、塊のような存在。釈然としない、永遠にわだかまる、存在の理由と、存在を否定する理由。
以下は受け売りだが、ファルカシュは裕福な家の生まれ。父親は卓越した美術収集家で、出版社の創設者。ファルカシュという姓は、父の姓ヴォルフナーの持つ「狼」という意味を、ハンガリー語に改めたものだという。
アカデミーでは、のちに第一次大戦従軍画家となるラースロー・メニャーンスキ(László Mednyánszky)に学ぶ。自身、第一次大戦が勃発すると、オーストリア・ハンガリー帝国軍の将校として従軍、前線に赴き、イタリアの捕虜に。
ユダヤの男爵令嬢イーダと結婚。パリに長く滞在し、エコール・ド・パリの画家として名声を得た。
父の死後、相続人として帰郷。ホルティ政権下、従来からの反ユダヤ主義は厳しさを増し、時勢を反映したファルカシュの絵も、病的に陰鬱なものとなっていく。
人間は自分の信じたいものを信じる。ファルカシュは、画家としての名声や、前大戦での従軍経験を、国家が考慮し、庇護するだろう、と楽観する。制作を続け、実に43年まで個展を開催した。
だが、ハンガリー当局によるユダヤ人迫害はとどまることがなく、とうとう、ナチス・ドイツがハンガリーを占領すると、ユダヤ人のアウシュビッツへの大量移送が始まる。
ブダペスト以外のユダヤ人が移送されている短いあいだに、地位も金も持っていたファルカシュには、逃亡のチャンスがあったという。が、彼はあくまで、当局の庇護を信じてブダペストにとどまる。そして逮捕される。
ファルカシュの妻は、故国のファシスト集団たちに殺され、ドナウ川に投げ捨てられたという。アウシュビッツへの移送列車のなかで、ファルカシュは書く。
「人間の尊厳がこんなにも傷つけられるなら、もはや生きるに価値はない」
この遺書を、途中下車したケチケメートに残し、他のユダヤ人らと同じようにして殺された。
画像は、ファルカシュ「黒い女たち」。
ファルカシュ・イシュトヴァーン(István Farkas, 1887-1944, Hungarian)
他、左から、
「運命」
「プロムナード」
「お終いだ」
「別離」
「シラクサの愚者」
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パペットの囁き
ホロコーストの犠牲となったユダヤ系ハンガリー画家、アーモス・イムレ。彼の妻、アンナ・マルギット(Margit Anna)も画家で、センテンドレに美術館がある。
センテンドレには、陶芸家コヴァーチ・マルギット(Margit Kovács)の美術館もあって、同じ名前のせいで最初は混迷した。が、アンナの絵は、一度見たらはっきり区別がつく。それは彼女の絵が、顔フェチだからだろう。風船のように膨らんだ、劇人形のような、キッド坊やのような、頭でっかちな顔、顔、顔が、おどおどとこちらを見ている。
アカデミーでヴァサリ・ヤーノシュ(János Vaszary)に師事し、アーモスとは早くに結婚する。ともに芸術家村センテンドレで制作、パリを訪問し、シャガールに会う。
シャガールの影響は、夫のみならずアンナにも及び、彼女の初期の絵は、夫に酷似したリリカルだがグロテスクな、不可解で気味の悪い心象。
ほどなく戦争の時代が到来し、ユダヤ人である夫は、ナチスの収容所で無残な死を遂げる。
夫を死に追いやったハンガリー、ヨーロッパ、全世界との対峙。未亡人アンナの絵は、目障りなほどとげとげしく、シュールに単純化していく。
そして操り人形や道化師や天使が登場する。それらは確かに人間たちに違いない。人類の比類ない血の罪業にさらされて、もはや人間の姿をとどめることができなくなった、運命に対して無力な、声を押し殺した人間たちに違いない。
そしてアンナは沈黙する。歴史の証人が沈黙するように。要警戒人物として、弾圧があったのかもしれない。
戦後二十年ほど経って、ようやく再び絵筆を取った彼女は、あの頃と同じに、毒々しい色彩で、ブラック・ユーモラスな顔を描く。顔は一見無邪気だが、よく見ると歪んでいる。含み声でつぶやくように訳ありげな眼差しを投げかけてくる。
どんな気持ちで生き続けたんだろう、描き続けたんだろう、アンナ・マルギット。子供でも描けそうな幼稚っぽい絵に、怖ろしいほどの深みがある。
画像は、アンナ・マルギット「棘だらけのミューズ」。
アンナ・マルギット(Margit Anna, 1913–1991, Hungarian)
他、左から、
「水玉のドレスの女」
「操り人形」
「赤い帽子をかぶった少年」
「青と赤の縞模様の服を着た道化師」
「すべてを忘れることができたなら」
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暗の幻想詩
私はハンガリーの画家については、国民画家ムンカーチ・ミハーイくらいしか知らなくて、ブダペストの美術館でも、どうせ予備知識ないしー、という感覚で、真っ白ななかに生じる第一印象と、このなかで一つを選ぶとしたらという嗜好とだけで、気楽に観ていた。が、どうも、知っている雰囲気の絵がちらほらと現われる。
で、それらは、相棒が、画家の生没年を見て、怖ろしい時代に死んでいる画家に「死んだ者ポイント」を付与する(悪趣味だな!)、そうした画家たちの絵ばかりなのだった。
なぜそんな絵が私の記憶に残っているのかと言うと、かつて私は、ユダヤ画家の一覧を作って、サーフィンしてまわっていたことがあったからなんだ。
そのうち、一番印象に残っている一人が、アーモス・イムレ(Imre Ámos)。彼はユダヤ人で、1944~45年に死んでいる。
ブダペストの工科大学で学んだ後に、絵の道に進み、同じく画家だったアンナ・マルギット(Margit Anna)と結婚。初期には、ハンガリーのナビ派、リップル・ローナイ・ヨージェフ(József Rippl-Rónai)らの影響を受けたが、30年代半ばには、漂泊のユダヤ画家、シャガールのスタイルを熱心に模倣するようになる。
これはちょうど、ハンガリーがナチス・ドイツと協調し始めた時代。1937年、アーモスはパリを訪れ、当のシャガールと会う。アーモスの絵画におけるシャガールの存在は決定的となった。
シャガール的に夢のような、詩的で幻想的なイメージ。ハンガリー最初のハシディーム派のラビ、イツハク・イサーク・トーブ(Yitzchak Isaac Taub)は、アーモスと同郷ナジカーロー(Nagykálló)の人で、アーモスもそうした敬虔な宗教文化のもとで育ったのだろう。彼は、少年時代に生活を包んだユダヤの伝統、その寄る辺ない同胞への親愛と追憶を、好んでモチーフとした。夏には妻とともに、芸術家村センテンドレで制作する。
が、ほどなく、シャガールの夢幻は、アーモスの画面から姿を消す。そこには恐怖、現実世界から直接に感じる、逃れようのない恐怖が、入りこんでくる。
色彩はネガのように暗く反転し、筆運びはぎすぎすした険悪なものになる。天使や死といった擬人がシュールに寄り添い、希望の余地のない不安な、閉塞的な、まだ未定だがおそらく破滅が待ち受けるだろう未来を予示する、トラウマ的なビジョンが、暗澹たる画面を支配する。
ナチス・ドイツの同盟国だったハンガリーは、独ソ戦争に参戦。40年、アーモスはヴォイヴォディナ(Vojvodina)の労働収容所へと連行され、さらに東部戦線へと移されながらも、「暗い時代」シリーズを描き続ける。
44年、ナチスがハンガリーを占領すると、3ヶ月経たずにで40万人という、凄まじい数のユダヤ人が、絶滅収容所へと移送される。
アーモスは、ソ連軍が進撃してきたこの頃に、死の行進の後、ドイツのオールドルフ収容所で死んだという。
画像は、アーモス「夜明けを待つ画家と妻」。
アーモス・イムレ(Imre Ámos, 1907-1944 or 1945, Hungarian)
他、左から、
「井戸にて」
「音楽」
「戦争」
「逃亡する天使のいる自画像」
「いざさらば」
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ハンガリーの青い形象
ハンガリーの芸術家村、センテンドレには、そこで制作した画家たちの小さな美術館がたくさんある。
そのうちの一つ、クメッティ・ヤーノシュ美術館。私が訪れたとき、ここは折悪しく休館だった。というか、チハル・シオタという日本人ぽい名前の(って、日本人だったんだけれど)企画展をやっていたせいで、クメッティの絵は一枚も観ることができなかったんだ。
画家のまとまった絵を観ると、作風やら変転やらがつかみやすくなる。クメッティ美術館で、これができなかったのは痛かった。その後、別の美術館でクメッティの絵を観るには観れたが、ばらばらに観ると作風が今一つ分かりにくい画家だったわけ。
クメッティ・ヤーノシュ(János Kmetty)の絵は、ピカソの「青の時代」の青を、ブラック的に透明にした色彩で、セザンヌの風景や静物や裸体をテーマに、セザンヌ的にキュビックなフォルムで描いたものが、最も印象に残る。私の場合。
母国ハンガリーの、印象派チックな象徴主義の大家フェレンツィ・カーロイに師事したが、クメッティが重大な影響を受けたのは、パリにおいてだった。彼のどの絵からも見て取れる、おそらく終生の要素となったセザンヌの特徴は、単に画風だけではなく、画題の哲学、構成の哲学にまで及んでいる、ように見える。
このセザンヌの十分な血肉の上に、同時代パリを席巻していたキュビズムのフォルムの皮が姿形よくかぶさって、先に評したようなクメッティの絵となっている、ように思う。
20世紀初頭、パリからブダペストに戻り、精を出して制作した絵で、クメッティは、最初のハンガリー・キュビズムの画家として評価を得る。
こうして、両大戦間期には特に精力的に活動し、ハンガリー・アバンギャルドの画家グループ「ニョルツァク(Nyolcak)」(八人組“The Eight”の意味)らと交流、ケチケメートやナジバーニャ(Nagybánya、ルーマニアのバヤ・マレ Baia Mare)、さらにセンテンドレなど、数々の芸術家村にも、意欲的に足を運んで制作した。キュビズムと形容されるが、妖怪人間ベムを思わせる、どこか純正な、芳醇な表現主義が、最もクメッティらしい作風。多分。
戦後、つまり社会主義時代には、さらなる画風の冒険を控え、ブダペストのアカデミーで教鞭を取って、後進の育成に努めた。が、夏はセンテンドレで過ごしたという。
画像は、クメッティ「街の公園」。
クメッティ・ヤーノシュ(János Kmetty, 1889-1975, Hungarian)
他、左から、
「テーブルの上の静物」
「キリスト昇天」
「山上の説教」
「鏡のある静物」
「帽子をかぶった自画像」
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