夢の話:人を殺す感覚 その2(続々々々々々)

 
 重い、冷たいその金属は、死の肌触りがした。撃て、撃ち殺せ、と叫ぶハーゲン氏の声に促されて、私は震えながら、膝を支えにして銃を構えた。
 私はそれを、ハーゲン氏にかけられた暗示だと思っていた。だが違った。それは銃がかけた暗示だった。銃を持つと、持った人間は、撃つ気がなくても何かを、誰かを撃とうとする。銃がそれを持つ人に、そうさせるのだ。人を殺すために作られた武器なのだから、当然だ。鉛筆を持てば、いたずら書きをしたり、指先で回したくなったりするようなものだ。

 銃を持った途端、人は銃に支配される。だから人は、そもそも銃など持ってはいけないのだ。
 
 「撃て!」というハーゲン氏の声で、私はふらふらと引き金を引いた。瞬間、バンッ! という音とともに、私は腕に身体を引っ張られ、後ろの壁で頭を打った。
 完全な静寂が訪れた。やがてサラザンを組み敷いていたハーゲン氏が、ドサッという重い音を立てて、サラザンの上へと倒れ込んだ。その一部始終を、私は信じられない思いで、ぼんやりと見守っていた。

 銃が怖ろしいのは、ただ引き金を引くだけで、数メートル先のものが瞬時に死ぬことだ。その結果は確実で、致命的であるにも関わらず、この引き金一つで人が死ぬのだという実感が乏しい。引き金を引いた後にも、肉弾戦の後のような精神の疲弊はない。だから銃では、自分のなかで、あっという間に正当防衛が、事故が、過失致死が成立する。
 ミサイルなら、ボタンを押すだけでさらに大量に殺戮できる。だが、ボタンを押す人間は、これから人を殺すという罪悪などほとんど感じずにボタンを押し、押した後さえそんな罪悪を感じずに済むに違いない。

 腕に抱いた赤ん坊は、寝入った途端に重くなる。死体もまた重いものだという。魂を持たない、物質的な重さだ。
 だからサラザンも、上にかぶさったハーゲン氏の身体を、なかなか退けることができないでいた。私にはハーゲン氏が、死んでなおサラザンを捕らえて離さないでいるように見えた。彼が再び動き出せばいい。もう一度サラザンを掴めばいい。だが彼はもう、ピクリともしなかった。

 To be continued...

 画像は、マルチェフスキ「死」。
  ヤチェク・マルチェフスキ(Jacek Malczewski, 1854-1929, Polish)

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