世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
画家の社会的責任(続々)
そして、ここにもう一つの疑問が浮かんでくる。一体、「内なる心」が純粋に、歴史上の罪悪を伴う日本神話を描きたい、と思うものなのだろうか?
私は小学生の頃、ヤマトタケルノミコトを漫画に描いたことがある。手塚治虫「火の鳥」の影響だったのだろう。まだ天皇制や戦争についての知識もなく、批判もない頃のことだった。
描きたいと思って描いた。描いているときは楽しかった。衣装や風景を知るために、学校の図書館で、日本の神さまに関する本をいくつも読んだ。
本を読んで、イメージが具体的になるにつれて、嘘っぽさを感じるようにもなった。が、やはり描いた。
描き終えて、私は満足した。が、その後他に興味が移ったのだろう。誰にも読んでもらうことなく、自分でもほとんど読み返すことなく、自称「傑作」のヤマトタケルノミコトの漫画は、どこかに行ってしまった。
のちに、歴史に対する知識も得た。評価もできた。で、ヤマトタケルノミコトの漫画のことなんか、つい最近まで忘れてしまっていた。
今の私は、理性的にも感性的にも、日本神話を描きたいとは思えない。
日本神話を描こうとする若い画家の気持ちは、あの頃の私と同じ気持ちなのだろうか。私はまだ子供だったけれど、若い画家の心もまた、あのときの私と同じ子供なのだろうか。
年配の画家たちに、日本神話の歴史的背景を指摘されたとき、若い画家たちは、「皇国史観」という言葉すら知らない様子だった。
日本神話を画題に選ぶとき、国家の悪意が、すでに画家に内面化されてしまっているとは、言えないだろうか? そこには罪悪に対する「無知」が、あるいは「容認」が、存在しないだろうか? もし、「内なる心」が、反動に対する「無知」「容認」を含むなら、その「内なる心」自体が反動なのではないだろうか?
……画家の「内なる心」が日本神話を描きたい、と言うなら、それは怖ろしいことだ。
描きたいから描く。それは当然のことだ。が、ときにその絵が、画家の意志に関わらず、真実をねじ曲げ、曇らせ、遠ざけるのに加担することがある。そのことを、画家は知っておかなくてはならない、と思う。
幸いにして若い画家たちには、自分で考え、判断する力がまだ残っていた。自己の内面と、その内面の発露である絵を、もう一度捉えなおそうとしていた。
が、日本のベクトルは、やはりファシズムへと向いている。早く海外に脱出せねば。
画像は、ゴヤ弟子「巨人」。
フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya, 1746-1828, Spanish)
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