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バイエルンの自然主義

 
 
 ドイツ絵画、写実派の時代に、ヴィルヘルム・ライブル(Wilhelm Leibl)という画家がいる。
 ケルンの生まれだが、ミュンヘンのアカデミーで学んで以降、生涯を南ドイツで活動した。この時期、この様式で、この地方に活動したということで、ライブルは、南ドイツの自然主義絵画の流れに大きく貢献した、19世紀の最も重要なドイツ画家の一人にポジショニングされている。

 が、絵画史の流れなんか知らなくても、ミュンヘンのノイエ・ピナコテークにある、ちらりとこちらを見やる農婦を描いた、ほんの小さな絵、それだけで写実画家ライブルの存在感を感じるには十分だ。
 輪郭の厳格さ、明瞭さから見て取れる、無駄のない線描。のちには印象派並みの、柔らかくきめ細かな輝きを増しはしたが、それでもホルバインのようなドイツ・ルネサンスの伝統を思わせる、物質的とも言えるほど堅実な写実。

 もともとオランダ古典絵画に傾倒していたライブルは、アカデミーの原理に特別に不和を感じることもなくアカデミックな修業に励み、卒業後は駆け出しの若い画家として、同様に質朴な写実を良しとする同世代の画家たちと一緒に、アトリエを構える。
 そんなとき、すでにリアリズムの大家という名声を博していたギュスターヴ・クールベが、国際美術展に出品するためにミュンヘンへとやって来たのだった。

 若いライブルは、権威や権力よりも農民というものに傲慢に執着し、自信過剰に共鳴するクールベの絵を観て、大いに感動し、称賛する。たまらずクールベに会いに行ったライブルを、クールベ先生、じゃあ、一度パリに来てみないかね? と誘い、二人は連れ立ってパリへと戻った。
 このとき、クールベ先生50歳、一方、ライブルのほうはその半分の25歳。パリ滞在の9ヶ月間、ライブルはクールベにくっついて制作したというが、彼らの関係は師弟ではなく、また父子でもなく、画家仲間だったという。

 クールベのリアリズムは、絵の描法よりも絵に関する姿勢にあると思うのだが、彼がライブルに与えた影響もまた、描法よりも姿勢に対してだった。……絵画は権力のプロパガンダでも、資本家の奢侈でもなく、社会変革の武器なのだ。絵画は凡俗な労働者を啓蒙もできるし、高貴に表現もできる。

 元来が謙虚なライブルなので、クールベの主張の無礼な点は捨象したとしても、やはり自分も良心的な画家たろうと思ったのだろう。普仏戦争の勃発によってやむなくドイツへと戻った彼は、アカデミー時代には気にならなかったミュンヘン画壇の胸糞悪さを、ようやく自覚する。
 クールベが自業自得で故国を追われてスイスに亡命した同年、ライブルはミュンヘンを去り、バイエルン地方の名も知れぬ田舎の村へと隠退してしまう。そこで農民とともに生活し、隣人たる彼らの生活を描いた。
 その絵には、農民生活に対する感傷的な崇拝や心酔はなく、説教や伝道の含意もない。精を出して働き、つましく暮らす、そうした生活を画題とすること自体が、廉直、高潔、正義、公正の説得力ある表現なのだ、という信条があるだけだ。

 ミュンヘンから引っ込んだために、生前は故国ドイツでよりもフランスでの名声のほうが高かったという。が、ハンス・トーマやヴィルヘルム・トリューブナーら、自分のアトリエへとやって来た画家たちを、出入りさせて交流し、ドイツ絵画の後続につなげた。
 ヴュルツブルクで死去。

 画像は、ライブル「白いスカーフを巻いた農民娘」。
  ウィルヘルム・ライブル(Wilhelm Leibl, 1844-1900, German)
 他、左から、
  「教会の三人の女」
  「糸紡ぎ女」
  「農夫の部屋にて」
  「へそくり」
  「ダッハウの女と子供」

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