世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
アンセンチな南独風景






バイエルン王ルートヴィヒ2世の終焉の地、キーム湖のヘレン島の美術館には、さまざまな画家たちがキーム湖を描いた絵が展示されている。そのなかで私は、ヴィルヘルム・トリューブナー(Wilhelm Trübner)の絵が一番印象に残っている。
トリューブナーは人物画から風景画、風俗画、歴史画まで、さまざまなジャンルを描いている。けれども私のなかでは、彼はどこまでも風景画家なんだ。
ドイツの自然主義画家ヴィルヘルム・ライブルのアンセンチメンタル(unsentimental)な様式を称賛し、彼のもとに集まった画家たちは、「ライブル・サークル(Leibl Circle)」と呼ばれている。トリューブナーもその一人。
フランス写実主義の巨匠クールベと、彼に多大な影響を受けたライブルと、その二人ともに衝撃を受けたトリューブナー。バイエルンの農村生活を描き続けたライブルに比べると、トリューブナーのほうは主題が多岐にわたる分、印象薄いかも知れない。けれども、クールベの写実に見られる、絵そのものの重厚さは、ライブルよりもトリューブナーのほうに、強く感じられる。
ハイデルベルク生まれ。金細工師の父の工房のもとで早くから修行するが、16歳のとき、古典主義の画家アンゼルム・フォイエルバッハに出会い、その支援と仲裁によって、絵の道に転身する。
2年後、ミュンヘンを訪れていたクールベの作品と制作技法とにショックを受け、さらに2年後、ライブルと知り合い、交友を持つ。
トリューブナーの画家人生の全盛は、それから数年間、「ライブル・サークル」が解散する頃までだったという。日々新しいものを吸収する模索と修練の時期に、最も生き生きとした絵を、最も伸び伸びと描いた、ということなのだろう。
ちなみに、その後もトリューブナーは、ミュンヘンとベルリンの両分離派に参加し、カールスルーエのアカデミー教授として後進を育成し、美術理論を執筆し……、とキチンと活動している。
ところで解説によると……
トリューブナーは49歳になって、教え子アリスと結婚した。十数年後、ベルリンでアリスが死ぬと、彼は、舞台女優ティラ・デュリュー(Tilla Durieux)が妻を殺したと疑う。
デュリューはベルリン分離派の画家オイゲン・スピロの元妻。アリスの死の際、彼女は画商パウル・カッシーラー(Paul Cassirer)と再婚していた。
のちに離婚訴訟となったとき、カッシーラーは法廷が離婚の最終決定を宣告した直後に、隣室に退き、ゴッホのごとくピストル自殺をしている(ちなみにゴッホのごとく、すぐには死ねなかった)。その後、ユダヤ人だったデュリューは、ナチスを逃れてスイスに亡命。
この女優デュリューが、トリューブナーや妻アリスとどういう関係だったのか、私の語学力ではさっぱり分からない。
結局、事件(!?)は棚上げにされ、翌年、トリューブナーは心臓病で死んでいる。
画像は、トリューブナー「キーム湖、ヘレン島のボート桟橋」。
ヴィルヘルム・トリューブナー(Wilhelm Trübner, 1851-1917, German)
他、左から、
「キーム湖、フラウエン島」
「ジャガイモ畑」
「取っ組み合いする小僧たち」
「ソファで」
「画家ハーゲンマイスターとモデル(着衣のアダムとイブ)」
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