個人的な体験

 
 今、すっかり大江健三郎にハマっている相棒、次から次へと読んでは私に回してくる。日本人と生まれたからには、大江くらい読め、とこうくる。
 うう、大江は論理的なくせにイメージがストレートに、執拗に膨らんでくるから、私はちょっと苦手なんだけど。

 相棒曰く、大江の良いところは、人間のケイパビリティをそのまま体現している点なのだという。出発点で主人公はまだ歪んではおらず、途中、行く方向を誤ったり、前に行くのを諦めようとしたりするにせよ、そのたびに自分なりの答えを出し、普遍から外れずにいる。つまり主人公は人間普遍を体現しているわけだが、それを一般受けしない、むしろ汚らしい、偽悪な文章で表現するものだから、同じ普遍を持つ読者にしか、その意味が分からない。だからいい、のだそう。
  この前、大江のノーベル賞基調講演を聴いたが、本人自身、自分は悪文と言われ、今日までそうだが、日本に伝統的な綺麗な文体ではなく、情感のイメージ豊かに書こうと思ってきた、という旨のことを言っていた。あー、あの書き方は、だったら意図したものなんだな。

 「個人的な体験」は、大江特有のフィクショナルな自伝。主人公、鳥(=バード)に初めての子供が産まれようとする日、彼は念願のアフリカ行きのための地図を買う。子供の誕生自体、憂鬱なバードだったが、産まれた子は頭に瘤を持つ、脳ヘルニアの障害児だった。
 仮に治療しても、子供は生涯正常には育たないだろう、と医師たちに宣告され、当惑するバード。彼は、義父に貰ったウイスキーを一緒に飲もうと、ふと思い出した大学時代の女友達、些かエキセントリックなところのある火見子を訪れる。
 そして、奇怪な赤ん坊に将来を脅かされ、それから眼を背け赤ん坊の衰弱死を願いながら、火見子との関係にのめり込んでゆく。……という話。

 自身の責任で悪人として行動するか、あるいは善人として行動するかを決めず、他人に自分の悪事を任せて、自分は善人だと、あるいは悪人ではないと、言い聞かせる、そうした自己欺瞞は、やがて自己崩壊へと通ずる。なぜなら、欺瞞によって守られるものは、何もないから。
 自分に向って到来した困難。その困難が自分の責任によるものでないにせよ、その困難に真正面から立ち向かうのは自分の責任だ。そして、その困難から逃げ回ることなく、受け止めるのは、困難によって直接に困っている人々のためではなく、自分自身のためなのだ。……そういうことを描いた物語。

 ところで相棒は私を実存主義者だと言う。う~、実存から出発して普遍にたどり着く人だって、いるよね。

 画像は、ブーシェ「眠る赤ん坊」。
  フランソワ・ブーシェ(Francois Boucher, 1703-1770, French)

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