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キルギスタンの青

 

 お正月に、とある若き旅する乙女と話す機会があった。聞けば、世界じゅうを飛びまわっているという。ロシアに行くのには、旅行ビザなら簡単に取れる、というので、相棒、いろいろ伝授してもらっていた。これなら、そのうちロシアに行けそうだ!

 乙女いわく、中央アジアの何とかスタンをいくつかまわった。そこからグルジアやアルメニア方面に行こうと思っていたのだが、現地宿で意気投合した仲間たちと一緒に、急遽アイスランドへ飛んだ。キルギスの料理は美味しかった。云々……
 で、私は、キルギスを描いたクズネツォフという画家を思い出した。

 パーヴェル・クズネツォフ(Pavel Kuznetsov)。ちょっとマイナーな画家かも知れない。ロシア象徴主義の若い世代たちのリーダーで、「青薔薇派」というグループを組織した。「青薔薇派」の特徴とされる、青い靄を透かしたような、曖昧なフォルムと流麗なトーンは、ひとえに、彼の出展作品「青い噴水」に依っている(と思う)。

 イコン画家の家庭に生まれたクズネツォフ。サラトフ、さらにモスクワの美術学校で絵を学ぶ。ロシア印象派の教授連、コロヴィンとセロフの門下だったが、彼らの印象派スタイルには馴染まなかった。
 と言っても、コロヴィンやセロフら自身、新しく沸き起こったロシアの象徴派運動、「芸術世界」に参加していたわけで、画壇がもはやそういう時代。象徴主義の新風のなか、クズネツォフは、ロシア象徴主義の始祖たちであるヴルーベリとボリソフ=ムサトフを崇拝する、モスクワの若い画家たちのリーダー格だった。
 1904年、サラトフで「クリムゾン・ローズ(Alaya Roza)」展、さらに07年、モスクワで「青薔薇(Golubaya Roza)」展を組織する。いかにも象徴主義が好む、詩的、夢幻的、非現実的(というか、現実逃避的)なビジョンをずらりと並べ、批評家からは「デカダン」と糾弾される。こんなふうに罵られれば、成功というもんだ。

 が、青薔薇の熱が収まって以降は、クズネツォフの関心は、地方の民俗文化へと移っていく。彼は中央アジアを旅しながら、その共同体社会の日常生活を描く。相変わらず象徴主義らしい豊かな色彩で、かつての青への偏愛を残して。もはやぼやけることのないフォルムは、簡素で、幾何学的な造形のよう。
 そして、彼が最も好んで描いたのが、キルギスタンの大草原で暮らす遊牧の民だった。

 画業にふさわしく、やがて教鞭を取り、文化教育政策にも携わるが、こんな絵ばかり描いていたからだろう、社会主義リアリズムの到来に伴い、当局の恩恵を失ったという。

 画像は、クズネツォフ「草原にて」。
  パーヴェル・クズネツォフ(Pavel Kuznetsov, 1878-1968, Russian)
 他、左から、
  「羊毛刈り」
  「鳥市場」
  「草原のユルト」
  「東洋の美女」
  「画家ベブトワの肖像」

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英国のノクターン

 

 私の要チェック画家の一人、イギリスのジョン・アトキンソン・グリムショー(John Atkinson Grimshaw)。ビクトリア朝のマイナーな巨匠、なんて評価されているが、その薄明りに煙る都市の情景は、知る人ぞ知る秀逸なものばかり。

 グリムショーの絵は、私にはシャーロック・ホームズを想起させる。黄昏、夜、あるいは早朝の、月光に鈍く浮かび上がる都会。おぼろに揺れる窓明かりや街灯。霧や靄に濡れた石畳や埠頭。行き交う馬車、停泊する船舶。葉を落とした秋冬の木々。雲がまだらに流れる、あるいはどんよりと垂れこめる、不透明な空。蒸すように生暖かい、あるいは突き刺すように冷たい大気。それらが一点に向けて奥まってゆく。

 狂いのない細密なリアリズム。けれど、現実の風景とは感じられない。そのムードは、画家の独創に大いに依っている。産業が発展し、社会が繁栄し、文化が爛熟した、当時英国の都会が持っていたはずの、汚い面、気の滅入る面は捨象され、抒情的、耽美的な面だけが喚起されている。彼の夜空は青くも黒くもなく、緑閃光のような黄金色のトーンをしている。
 だからなのか、グリムショーの描く都会は、怪奇にロマンチック。そして、いくばくかの疎外感を感じさせる。

 イングランド北部、リーズの生まれ。鉄道事務員として働き、20歳で従姉と結婚。そのまま堅気の人生まっしぐら、と思いきや、数年後、突如、仕事を投げ出して画家へと転身する。
 アートショップの展示作品を手本にして、独学で絵を学び、正規の美術教育を受けることはなかった。が、天性の資質と才能があったのだろう、やがて、ラファエル前派の擁護者、ラスキンの眼にとまる。
 多くのラファエル前派の画家たち同様、詩人テニスンの熱烈なファンだったグリムショーも、テニスンの詩を主題とした幻想的な絵を描いている。濃淡の影が立ちこめる、ぼんやりとした光の色調は、もうその頃から際立っている。

 この、夜影を照らす、かすんだ光を真骨頂とした都会風景で、グリムショーはほどなく、中産階級からの人気を博する。
 ロンドンのチェルシーのアトリエ近くに、同じくアトリエを構えていたホイッスラーは、あるときグリムショーを訪ねた後に、
「僕はノクターン(夜景画)を作り出したのは自分だと思ってたよ、グリムショーの絵に会うまではね」と言ったのだそう。

 死後、人気は次第に薄れ、昨今、再度注目されてはいるが、イギリス絵画史上、特に重要視されているというわけではないらしい。

 描けば売れた彼の絵は、並べてみれば、どれも似たり寄ったりの構図、色彩、モチーフなのだが、それでも、この時代の英国で、こんなふうにストリートシーンを描いた画家がいなかったせいか、各々、捨てがたいものがある。
 そしてグリムショーの絵が、ずらりと並ぶ機会というのは、おそらく、あまりない。

 画像は、J.A.グリムショー「十一月の月光」。
  ジョン・アトキンソン・グリムショー
   (John Atkinson Grimshaw, 1836-1893, British)

 他、左から、
  「シャーロットの乙女」
  「ワッピングからのリバプール」
  「ロンドン、ブラックマン通り」
  「パーク・ゲートにて」
  「グラスゴーの船渠」

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遥か狂乱の祖国を離れて

 

 ドイツの美術館で久しぶりに思い出した、ハンス・プルマン(Hans Purrmann)。作家ヘルマン・ヘッセとの友情で有名なのだが、私にとっては、その昔、静物画というジャンルの絵を観て初めて面白いと実感させてくれた画家。

 ドイツに表現主義が大きく盛り上がっていく時代、フランスのマティスに心酔し、終生、パリでもベルリンでも、亡命先のスイスでも、マティスに負った自らのスタイルに忠実だった。そのせいで祖国の画壇を追われた画風を手放さず、祖国の暴走の行方を見守った。

 父親の工房で室内装飾を修行したが、満足できずに画家の道へ。ミュンヘンで絵を学んだ同期には、クレーやカンディンスキーらがいた。
 ベルリン滞在の際に、当時のドイツ画壇の大御所、マックス・リーバーマンに薦められ、ベルリン分離派展に参加。この頃からドイツは、人間の内面を吐き出す表現主義が興隆する。が、プルマンは表現主義には傾倒しなかった。彼が夢中になったのは、その後すぐに赴いたパリで出会った、野獣派のマティス。

 なのでプルマンの、自然光あふれる、明るくカラフルで繊細な、いかにも絵画的な瀟洒な画風は、決定的にフランスとマティスとに負っている。パリで交流のあったピカソらのキュビズムにも動じず、現実を現実以上に豊かに創造する色彩讃歌が揺らぐことはなかった。

 その後、パリにて、同郷の女流画家と結婚。だが、第一次大戦が勃発し、帰国を余儀なくされる。この戦争中、多くの作品をパリのアトリエごと失った。

 以降、第二次大戦前夜まで、活動の拠点はベルリンへと移る。が、ナチスが台頭すると、彼の絵は、「おフランス的すぎる」という理由で頽廃芸術と見なされ、ドイツ画壇から追放される。
 ゲシュタポ監視下にあったプルマンは、失意のうちに死んだユダヤ人画家リーバーマンの葬儀に列席したことで、ドイツを逃れる。フィレンツェでヴィラ・ロマーナ校長の地位を得るが、ムッソリーニ転落後、北イタリアがドイツに占領されると、スイスに亡命する。

 長くそばで支えてくれていた妻が病死し、絵を描く気力を失ったプルマンは、ヘッセの住まうモンタニョーラ村へと移る。ナチズムの時代、ヘッセの館は、迫害された亡命文化人たちが住み着いていたのだった。
 連合軍の爆撃で、ベルリンのアトリエは燃えてしまう。だが、あの頃と同じ色彩は画家のもとに戻って来る。「仕事場の老画家」は、プルマンに捧げられたヘッセの詩。

 戦後、バーゼルにて死去。

 画像は、プルマン「花瓶とオレンジとレモンのある静物」
  (Hans Purrmann, 1880-1966, German)
 他、左から、
  「浮彫細工のある静物」
  「マリー・ブラウネの肖像」
  「裸婦」
  「カーサ・カムッツィのヘッセの部屋」
  「ラジョーレ館の中庭のベンチ」

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グルジアの魂

 

 ニコ・ピロスマニ(Niko Pirosmani)は、ローカルでエスニックな素朴派の画家。今ではグルジアの国民画家とされている。

 私も知ってはいたのだが、その不遇の半生を描いた映画が上映されるということで、観に行った。
 「放浪の画家ピロスマニ」、映像の一つ一つが絵画のような映画だった。
 平面的な構図と色彩美、陰影美。退屈なまでに、ぶっきらぼうに淡々と展開する、抑揚のない静謐な映像が、清貧で孤独な画家の心象、グルジアの風土と民族とを描き出す。そして、彼の描く絵の数々が、彼が立ち寄る酒場や商店に飾られている。

 「私の絵はグルジアには必要ない、なぜならピロスマニがいるからだ」というピカソの絶讃。「優れた芸術家は真似し、偉大な芸術家は盗む」とは同じくピカソの言葉だが、ピロスマニは真似も盗みもしなかった。独学だけれど、下手巧だけれど、本物だった。

 直接に黒い油布に描くという独特の手法。色彩は明るくなく、白黒のモノトーンが目立つ。テーマは田舎の日常生活と自然。商人や店主ら働く人々や、食卓を囲む人々、そして動物たちを描いた。

 本名ニコロズ・ピロスマナシヴィリ。グルジアには、ジュガシヴィリだの何とかシヴィリだのが多い。
 映画に即してまとめると……

 幼くして両親や兄姉を亡くし、裕福な親戚に引き取られる。が、世話になった一家の、十歳年上の寡婦に恋文を書いて、拒まれて家を出る。
 鉄道員として稼いだ金を元手に、友人と一緒に乳製品の商売を始める。姉夫婦が縁談を持ちかけるが、その姉夫婦が結婚式のどさくさに紛れて、ピロスマニの小麦粉を勝手に叩き売っているのを見つけ、歌と踊りの祝宴のなか、花嫁を残して立ち去る。激怒する彼をなだめる友人にまで激怒し、商売を投げ出す。以降、居酒屋を渡り歩いて看板や壁に飾る絵を描きながら、その日の食事と酒に替える放浪生活を送るようになる。

 ピロスマニというと、巡業で町にやって来たパリの踊り子マルガリータへの恋が有名らしい。酒場で彼女を見初めたピロスマニは、彼女のために広場を花で埋め尽くしたという。このロマンチックなエピソードが、加藤登紀子が歌ったロシアの歌謡曲「百万本のバラ」のモデルなのだとか。
 でも、映画では、さらりと流すようにしか取り上げられていない。

 町の店々にあふれるピロスマニの絵。あるとき、それらが若い前衛画家たちの眼にとまる。
「この絵は(この素晴らしい絵は誰が描いたんだ)?」
「キリンです」……
 
 彼らは町じゅうを探しまわり、とうとう、看板を描いているピロスマニを見つける。にわかに称讃され、画壇の認知と世間の注目を得、町の人々もそれを誇らしく思うようになる。
「俺たちのピロスマニの絵だぞ!」

 自分が手に入れそこなった家庭の幸福。その空白を埋めようと、酒をあおって酔っぱらう。
「俺は有名なんだ」
 家族はなくても、絵の才能と名声がある。と思っていたところが、新聞に酷評記事が載る。
「絵のイロハを知らない素人、云々」

 途端に、町の人々の態度も一変する。ピロスマニの絵は店々から消え去り、人々は彼を無視する。自分の絵が無造作に捨てられているのを見て悲嘆するピロスマニ。
「俺は笑い者にされた」

 絵の仕事もなくなり、すっかり痩せこけて、いつしか空き家の物置で暮らすように。が、思いがけず感謝祭のための絵を依頼され、一念発起、部屋で缶詰になって制作する。
 だが、感謝祭の当日、歌と踊りと笑い声のなかで一日が終わり、酒も料理もなくなった頃に、誰かが思い出したように呟く。
「あ、ピロスマニを忘れてた」
 部屋には、描き上げた絵の前で呆然と立っているピロスマニ。いずこかへと立ち去り、失意と貧困と孤独のなか、冬のある日、路傍でひっそりと息絶えた。

 画像は、ピロスマニ「タンバリンを持ったグルジア女」。
  ニコ・ピロスマニ(Niko Pirosmani, 1862-1918, Georgian)
 他、左から、
  「五人の王子の饗宴」
  「冷たいビール」
  「女優マルガリータ」
  「キリン」
  「ロバに乗った医者」

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色めくアルメニア

 

 私が個人的に、まとまった量の絵をナマで観てみたい、第一級要チェック画家の一人が、アルメニアの画家マルティロス・サリアン(Martiros Saryan)。
 ロシア象徴主義に与する「青バラ派」に名を連ねる彼の絵は、ちっともロシア的ではない。そりゃ、彼がアルメニアの画家で、しかもアルメニア文化独特の主題を取り上げて描いたからだ。

 アンリ・マティスからモロに影響を受けたという彼の色使いは、ちょっと困ったところがあった。が、それを消化してからの色彩は、とにかく素晴らしい。明るく、質素で、大胆で、それが、モチーフを最小限かつ几帳面に、リズミカルに描き出す彼の表現に、大いにマッチしている。

 アゾフ海に臨むロストフ・ナ・ドヌの生まれ。モスクワの美術学校で絵を学び、印象派画家セロフやコロヴィンに師事。なので在学中に影響されたのは、フランスの印象派、ポスト印象派、野獣派といった流れ。特に、ゴーギャンとマティスの、強く鮮やかな原色の色彩は決定的だった。
 コーカサス、そして卒業後はトルコやエジプト、イランまで、中近東を広く旅行する。この頃から、マティス譲りの過激な色彩は徐々に落ち着いて、異国情緒あふれるオリエンタルな風景と溶け合うようになる。中近東のロマンに惹かれてやまない彼ではあったが、オスマン帝国によるアルメニア人虐殺の時期には、難民を助けるために、アルメニア正教会の総本山エチミアジンにまで赴いてる。

 アルメニアに帰り、ロシア革命後は、ソ連とパリを行き来して制作。が、パリ時代の作品は、ソ連へ戻る船上で遭遇した火事で、消滅してしまったという。

 30年代のソビエト芸術の時代、サリアンはやはり苦労したらしい。この困難な時期、それに続く、息子も徴兵された独ソ戦の時期、彼は黙々と風景画に没頭する。描いたのは、ノアの方舟が漂着した、祖国アルメニアの心の故郷、アララト山。
 この頃までの絵が、傑出している。その後、ソビエト画壇で、次々と与えられる名誉を受け入れる一方で、絵の迫力は弱まっていったように思う。

 エレバンにて死去。彼の家は現在、美術館となっているので、アルメニアには美人しかいないそうだよ、と言って、相棒を焚きつけているのだが、ビザの問題があるので、気軽には赴けそうにない。

 ちなみに、独ソ戦を生き延びた息子ガザロス・サリアンは、著名な作曲家となった。また、ボリス・パルサダニアンは交響曲第二番を、サリアンに捧げたという。

 画像は、サリアン「花咲く杏の樹」。
  マルティロス・サリアン(Martiros Saryan, 1880-1972, Armenian)
 他、左から、
  「カイロの路地」
  「泉へ」
  「プーシキン小道からの峡谷の眺め」
  「アララト山と聖フリプシメ教会」
  「室内」

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