チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

大地震 その18

2011年04月03日 | 大地震
福島県福島市在住@チエちゃんです

2011年3月14日(月) 震災4日目

 3月12日朝 ガス使用可確認
 3月12日19時過ぎ 電気復旧
 水道まだ出ない

7時 私は出勤するため、おにぎりの弁当を作った。
長男は、大事を取って休むことにした。

が、待てよ。
ヒロシの通院する病院は給水所のすぐ隣で、昨日は給水を受ける人々の車でいっぱいだったという。
今日も駐車スペースがなかったら・・・
ヒロシを病院に送ってから、出勤することにする。
しかし、私の予想は杞憂に終わった。
今日は月曜日。仕事に行く人が増え、給水所の行列は減っていた。

9時出勤 遅刻だ~とあわてて入っていくと、マバラ。
なあんだ、みんなも遅刻か。誰もが疲れていた。
今日も、復旧作業。
その前に、とうとう水が出なくなったので、バケツを持ち、トイレ用の水を近くのため池まで、みんなで汲みに行く。
余震が続くので、帽子をかぶり、貴重品はショルダーバッグに詰め、肩から斜め掛け。
作業がやりづらい。

12時30分 お昼休み、ヒロシを迎えに病院に行く。
13時 ヒロシは予定の時間より早く出てきた。
いつもは午前と午後の2クールで行っている人工透析を避難患者のために3クール行うので、透析時間が短縮されたとのこと。
「でも、俺たちはよい方なんだ。10分短縮だけだから。
 他所から来た人は、たいへんだぜ。
 4~5時間のところ、2時間だけなんだ。」
それじゃあ、十分な透析は受けられない。まだ、身体に毒素が残っている。
それに、強制的な圧力をかけたら、心臓の負担になる。
気の毒だ。


その19へ つづく


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2 コメント

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被災透析患者救済プロジェクトを立ち上げました (藤山勇司)
2011-04-03 16:07:01
藤山勇司と申します。私は被災透析患者救済プロジェクトを立ち上げました。
エイブルと東京内科医会の橋渡しをし、東京に疎開された患者さんを集団治療から医院から近い貸家にご案内しております。
敷金、礼金、仲介手数料は無料。三ヶ月分の家賃も無料。その上、当面必要な家具も揃えています

このプロジェクトは私が被災地の惨状を目にして
(良かった、木更津や苫小牧でなくて…)
と思ってしまった贖罪です。決して思ってはならないことでした。
思い悩んでいるときに、知り合いの記者から携帯に電話がありました。
「藤山、お前なんとかならんか」と。

受け入れ態勢が確立し、昨日は一家族の転居に成功しました。
なぜ、仲介業者が良いのか、それは患者さんは物ではありません人です。
引越しは大きな決断です。
「ここに入れ」では納得しないのは当然のことです。
病院から近い場所、日当たりの良い場所、公園の近くなど、人の好みは千差万別、選択するからこそ納得されるのです。

宮城県で2名の患者さんが死んでいたことが読売新聞で報じられました。
一刻を争う事態です。広く世論に呼びかけるには当方は力がありません。
被災者の中でも人工透析患者さんは特に死の淵に立たされています。

被災透析患者プロジェクトを広く知ってもらいたいたいと思っております。
どうか、お力添えをお願い申し上げます。

以上、略儀ながら伏してお願いとともに。
                        藤 山 勇 司
返信する
> 藤山勇司さん (チエちゃん)
2011-04-05 21:27:38
コメントありがとうございます。

せっかくのプロジェクトですから、被災者用住宅情報サイトなどに登録されてはいかがでしょうか?
それに、あなたの連絡アドレス等もわかりません。
お役に立てず、申し訳ありません。
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