元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「DISTANCE」

2011-11-20 06:51:36 | 映画の感想(英数)
 2001年作品。カルト教団が引き起こした殺人事件の、加害者家族を描く是枝裕和監督作。たぶん同監督が手掛けた映画の中では一番出来が悪い。

 是枝は何かのインタビューで“彼ら(カルト教団)を生み出したのは間違いなく私たちの社会であり、その意味では私たちもまた加害者なのではないか、という逆転した問いが成り立つ。少なくとも私たちがイノセントな被害者でないことだけは確かだろう”などと述べているが、それは屁理屈である。それどころか“カルト教団は我々の社会の一部”という小賢しい考えこそがあの事件の根本的解決を鈍らせてしまったとも言える(何しろ、破防法の適用さえ出来なかったほどだ)。

 しかし、表現者が何を考えようと“個人の自由”だ。屁理屈を信じているならそれで結構。それを作品の中で力技により観客に納得させ、テーマに確固とした肉付けをすればいいだけの話だ。ところが、出来た映画はアプローチの根本から間違っている。



 まずはカルト教団事件の加害者遺族たる登場人物たちの内面に容赦なく迫らなければならないはずだ。それもキャストの力量を十分に引き出す演出力とガッチリとした作劇が必要であることは言うまでもなく、多少のケレン味もあっていい。しかし何を思ったかこの映画は“カメラも音声も引きまくり。演技は自然体(放任主義)”といったドキュメンタリー・タッチに振られてしまった。

 これが事件の当事者が出演する“本物のドキュメンタリー”なら仕方がないが(オウムの荒木広報部長を主人公にした「A」というドキュメンタリー映画の力作もある)、浅野忠信や寺島進といった自分から演技を引き寄せる力のある俳優陣を揃えていながら、あえてこの手法を取る必然性などないはずだ。

 案の定、映画では登場人物の関係者がカルト教団に惹かれていった“結果”だけしか映し出されておらず、事件の本質にはまったく迫っていない。極めて底の浅い掘り下げしか出来ていない。要するに映画としては何も描いていない。

 是枝はデビュー当時、いわゆるテレビ的な説明過多の作劇や従来のセンチメンタリズムに振られた日本映画の在り方を真っ向から否定するような物言いをしていた。それはそれで良いと思うが、そのスタンスの表出がこの映画のような“自然体のドキュメンタリー・タッチ(もどき)万能”という独善にしかならないのなら、完全に落第だ。

 “自然な演技や作劇”がリアリズムではないのだ。そんなのは“手法”の一つでしかない。「M/OTHER」などを撮った諏訪敦彦監督は“「自然な演技」や「自然な作劇」なんていうのはない。あるのは「うまい演技とヘタな演技」「上手な演出と未熟な演出」だけである”と言ったが、まさにその通りなのだ。
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「ウィンターズ・ボーン」

2011-11-19 06:53:19 | 映画の感想(あ行)

 (原題:WINTER'S BONE )作劇面ではとても万全とは言えないが、作品の舞台設定と主演女優の存在感により何とか見応えのある映画に仕上がったという感じだ。

 ミズーリ州の貧しい山村に住む17歳のリーは、心を閉ざして口もきかない母と幼い弟妹の面倒を見ながら、その日その日を食いつなぐ生活を送っている。しかし、逮捕された父が裁判への出廷を無視して行方をくらましたことから、家と土地を失うかもしれない危機に直面。タイムリミットは1週間。リーは父親を探すために奔走するハメになる。

 私は当初本作のアウトラインを知ったとき、おそらくヒロインは父親を求めて長い旅に出るのだろうという、ロードムービーのような展開を期待していたのだが、実際は近所をぐるぐる回るだけなので完全に拍子抜けだ。しかも、村の中で事が足りるのならば、どうして父親がいなくなった時点で主人公は彼を探さないのか、そんな疑問も残る。

 ドラッグのディーラーだった父親は、どうやら組織の掟を破って当局側にタレ込んだために落とし前を付けられたらしいことが薄々分かってくる。さらに真相を嗅ぎ回るリーに対して周囲の者は拒否反応を示し、彼女はリンチに遭ったりもする。だが、最初はつれない態度を示すリーの叔父がいつの間にか味方になってしまうのは、何とも御都合主義だ。さらに、父親の安否を証明するのが本人の骨の提出であるというのも、唐突に過ぎるモチーフである。デブラ・グラニックの演出は丁寧だとは思うが、ここ一番のパワフルさには欠けているようだ。

 以上のような不満点を承知しつつそれでも本作を評価したいのは、冒頭に書いたようにまずドラマの背景が興味深いからだ。ホワイトトラッシュと呼ばれる白人貧困層が集まる山奥の寒村。都市部の発展から置いて行かれたような寂れようだが、実を言えば貧しい白人達は都会だろうと田舎だろうと数多く存在しているのだ。

 貧困のあるところには必ず犯罪が存在する。舞台になった村は、丸ごと麻薬取引に取り込まれている。この寒々とした光景は、閉塞感に満ちたアメリカ社会の暗喩であることは言うまでもない。

 そして主演の新鋭ジェニファー・ローレンスは間違いなく逸材だ。硬質なキャラクターは、このロクでもない世の中に立ち向かい、自分自身でケリをつける逞しいヒロイン像にぴったりである。この映画オスカー候補になったが、それも頷ける。今後もチェックしていきたい俳優だ。
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晩秋の北九州市のオーディオフェア(その2)。

2011-11-18 06:23:22 | プア・オーディオへの招待

 当イベントにおけるピュア・オーディオ機器の展示は、正直言ってあまり目を引くものがなかった。同じ主宰者が春に福岡市で開催するフェアと比べると随分と小規模であることがその理由かと思うが、規模が小さいがゆえに参加者個人のリクエストを受け入れてしまうことも、ある意味問題かと思う。

 参加者の希望を聞くことのどこが悪いのかと言われそうだが、このイベントに来ているのは少人数ではない。特定個人のリクエスト通りに機器をセッティングして鳴らすと、その参加者は満足かもしれないが、他の機器を聴きたい別の入場者は“手待ち”の状態になってしまう。しかも、機器の接続等には時間が掛かり、その分視聴時間が削られることになる。

 かくいう私も聴きたい機種があったのだが、先に来ていた別の客達のリクエストが先行していたため、とうとうそのサウンドに接することは出来なかった。ここはやはり機器ごとにデモの時間割をキチッと決めて入場客に周知する方が、数段効率的かと思う。

 そんな中でも印象的だったモデルをあえて挙げてみると、まず思い付くのがこの主宰元が重点的にプッシュしているドイツのMUSIKELECTRONIC GEITHAIN社のスピーカーである。今回は新製品のME100を聴くことが出来た。

 主にスタジオモニターを作っているメーカーなので、音に余計な色付けは見当たらない。ただし決して無味乾燥なサウンドではなく、温度感があって明るい音色展開で楽しく聴かせる。もっとも録音の悪いソフトはそのまま目一杯低音質で再生してしまうため、ポップス系が好きなユーザーは要注意だろう。

 英国B&W社の800シリーズはニュートラルな性格で一種リファレンス扱いされているスピーカーであり、私も何度かその実力を目の当たりにしている。通常このようなイベントでは同社が開発用に使っているというカナダのCLASSE社のモデルや、我が国における輸入代理店のMARANTZのアンプでドライヴされているのだが、今回は珍しく国産の雄ACCUPHASEのアンプで駆動させていた。そして、両者の相性がけっこう良い。

 B&Wの特徴である“奥に広がる音場”を、ACCUPHASEが緻密にバックアップするという感じで、実に見通しの良い音空間が現出する。リスナーによっては“高音にエッジが立ちすぎる”と感じるのかもしれないが、ケーブルと電源の見直しによってカバー出来るかもしれない。私もACCUPHASEの製品のオーナーなので、B&Wは次のスピーカーのグレードアップ候補になりそうな案配である(まあ、いつの話になるか分からないが ^^;)。

 米国AUDIO MACHINA社のコンパクト型スピーカーCRMの良質なパフォーマンスに関しては、以前の書き込みでも紹介したが、今回のフェアではサブウーファーのCRSと組み合わせてのデモが行われた。伸びやかな中高音に加えて骨格の太い低音が加わり、ますます完成度は高まっているように思える。

 しかし、同社の製品はあまりにも高価だ。決して高級感があるとは言えない外見も相まって、いわゆる“お買い得感”は限りなく小さい。改めて思うのだが、どうしてオーディオ機器というものはこうも高いのだろうか。

 もちろん、いくら高い商品を製造しようと、それは生産者側の勝手である。ただし、幅広く顧客を獲得しなければならないディーラーとしては、高額機器の展示ばかりでは中長期的に見て先細りになるのは必至だ。過去のアーティクルにも書いたように、この分野にとって大事なのは“ハイエンドフェア”ではなく“ローエンドフェア”なのだと思う。

(この項おわり)
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晩秋の北九州市のオーディオフェア(その1)。

2011-11-17 19:26:11 | プア・オーディオへの招待

 去る11月11日(金)~13日(日)に、北九州市小倉北区のJR小倉駅の近くにあるKMMビルで例年どおり開催されたオーディオ&ヴィジュアルフェアに、今年も行ってみた。ただし、今回は昨年のような“講師を招いての試聴会”は開催されずに普通の展示会の様相を呈していたので、こちらも(他に用事があったこともあり)会場にいたのは短時間である。だからあまり詳細なリポートは書けないが、いくつか印象に残った部分について述べてみたい。

 ホームシアターのブースでは各社のAVアンプやプロジェクターの新製品がデモされていたが、この部門のイノベーションは日進月歩であることが改めて感じられた。こういう傾向は喜ばしいのは確かだが、せっかく購入しても陳腐化のスピードが速くなるのは致し方ない。ユーザーとしては悩ましいところだ。

 さて、今回私が興味を持ったのはAV機器そのものではなく、ONKYOが新しいアンプに対応させたという音楽ストリーミングサービス「AUPEO!」である。「AUPEO!」という名前は私は初めて知ったが、何でも150を超える音楽のジャンルと何千というミュージシャンの中から、自分の好みにあった曲を流してくれるドイツ発の音楽配信サービスらしい。

 この「AUPEO!」の最大のセールスポイントが、流れている曲に対して好き(LOVE)か嫌い(BAN)かを選択し、それを続けていると自動的に自分の好みに近い楽曲を選択して紹介してくれるという機能である。これは面白い。その選択機能のパフォーマンスがどの程度のものか知らないが、もしも的確なナビゲーションを施してくれるのならば、楽曲の“開拓”に大いに力を発揮してくれるだろう。

 ただし、私のようなロートルの音楽ファンからすれば、諸手を挙げて歓迎できない部分があるのも事実だ。自分の好きなジャンルやナンバーを探すこと自体が、音楽好きにとっての醍醐味なのである。だから昔の音楽ファンはラジオの前に齧り付いて気に入った楽曲が流れてくるのをジッと待ったり、音楽喫茶に入り浸ったり、コンサートやライヴハウスに足繁く通ったり、そして未知のレコードやCDを買ったりもしていたのだ。

 もちろんそれらには失敗もついて回る。良かろうと思って買ったディスクが、あるいは期待して行ったコンサートが、見事にハズレだった場合も少なくない(私もイヤというほど経験している ^^;)。だが、そんな経験は決して無駄にはならないのだ。自分好みの楽曲を探す中でいろいろなジャンルと出会い、音楽に対する知識を深めていくのである。

 対して、この「AUPEO!」のようにネット側がリスナーの嗜好を勝手に選定してくれるシステムは確かに便利だが、自分の知らないジャンルやテイストを持つナンバーに遭遇する可能性は低い。ただその時点での“自分が好きであろう傾向の楽曲”を差し出してくれるだけだ(まあ、実際に「AUPEO!」に接したことがないので断定的な物言いは出来ないが ^^;)。

 音楽配信に限らず、ネット環境というものは情報が幅広く網羅されているようでいて、個人レベルでは至って情報の幅が狭まってしまうことがあると思う。情報を自ら取りに行かなければならなかったネット時代以前の状況の方が、有益な情報を手に入れられることもある・・・・という見方も可能だろう。ネット環境も使い方次第なのだ。

(この項つづく)
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「電人ザボーガー」

2011-11-16 06:44:45 | 映画の感想(た行)

 中途半端な内容で、まったく評価できない。元ネタは74年~75年に放送されたTV特撮ドラマだが、私自身は何回か放映を目にした記憶はあるものの、思い入れは一切ない。だから劇場に詰めかけた“往年の特撮ヒーロー物のファン”とは違って一歩も二歩も引いた立場から観ることになるのだが、もしも私が原作をよく見ていたとしても、たぶん本作を面白いとは思わないだろう。とにかく作りがヘタ過ぎる。

 悪の組織シグマと警視庁に所属する秘密刑事の大門豊(および彼のパートナーのロボット・電人ザボーガー)との死闘を描くこの映画、何より製作コンセプトが煮詰められていない点が気になる。こういう荒唐無稽なヒーロー物を映像化する場合、方向性としてはキッチリと正攻法でやるか、あるいはイロモノに徹するか、その二つしかない(と、個人的には思う)。ところが本作はどうも往生際が悪いのだ。

 設定は何となくシリアス調なのに、筋書きとキャストの演技は“おちゃらけ”そのものである。しかも、おそらく作者が“絶対に面白いはずだ!”と信じてデッチあげたギャグの数々は、一つとして笑えない。その寒々しさはある意味完璧だろう(爆)。

 これはたぶん、送り手の笑いのセンスが不足しているだけではないと思う。前身で大門の生い立ちや思想信条などを力任せに描き、後半には中年になった彼の悲哀と開き直りをマジメにドラマツルギーの中心に置くという、不必要なシリアス度が笑いのリズムの足を引っ張っている。

 ハジケた展開を望んでいるならば、たとえばアメリカ映画の「ホット・ショット」とか「裸の銃を持つ男」のような、演芸番組調に徹すれば良かったのだ。あるいは大向こうを唸らせるようなウェルメイドなドラマにしたかったのならば、主人公側はもちろんのこと、空中に浮かぶシグマ城の造型やメカニズムをはじめ、敵役のディテールをとことん詰めるべきである。

 全体的に、子供の頃に原作のTVシリーズにハマり込んでいた層(今はオッサン ^^;)のオタク的興味だけを満足させるために作られたようなシャシンという印象を受ける。オリジナルからの流用と思われるテーマ曲や敵キャラのデザインを見るにつけ、出るのはタメ息だけだ。

 青年期の大門を演じる古原靖久と、中年になった主人公に扮する板尾創路は悪くない。なかなかの力演だ。しかし竹中直人や柄本明、渡辺裕之、木下ほうかといったベテラン勢の悪ノリは、見ていて辛い。山崎真実と佐津川愛美の女性サイボーグも頑張ってはいるのだが、いまひとつ存在感が足りない。

 井口昇監督の作品を観るのは初めてだが、CGの扱い方に手慣れているらしく、アクション場面はそれなりに盛り上がる。しかしながら“映画の外見”だけを取り繕うだけでは、良質なエンタテインメントを提示することは出来ない。個人的には“観なくても良い映画”であった。
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「ロレンツォのオイル 命の詩」

2011-11-15 21:07:50 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Lorenzo's Oil )92年作品。この映画は“死病もの”である。このテーマが観客を引き付ける理由は“死んでいく主人公がかわいそうだ”ということに尽きると思う。その場合、観客側が健康体であることが大前提となる。つまり、主人公の悲惨な運命に同情して、こらえきれなくなって泣く。病気さえなかったら、素晴らしい人生を送るかもしれないのに・・・・という切ない思いでいっぱいになり、涙を流す。そうすると、自分が“いい人”に思えてくる。

 “普段はバカなことばかりやってる自分でも、こうやって人の不幸に心から同情できるような、いいところもあるんだよなぁ”てなぐあいで、スッキリした気分で劇場を後にできる。そしてまた平凡な日常に埋没していく。一方、身内が重い病にかかっているような人は“死病もの”なんてまず観ない。まさに“冗談じゃねぇ”だ。そして、日常が平凡じゃない人(?)も、“どうして映画を観てまで悲しい思いしなけりゃならねえんだよっ。こちらは毎日シビアーな生活を送っているというのに!”という感じで、たぶん観ない。

 結局“死病もの”なんて観る側の勝手なエゴイズムを満足させるだけの、きわめてウサン臭いシロモノだと思う。いくら出来がよくても、この基本線は崩しようがない。ま、映画は観客の欲望を満足させるためにあるのだから、これが“娯楽”として通用することに文句はないが・・・・。

 ところが、この「ロレンツォのオイル/命の詩」は、そんな“死病もの”に対する送り手と受け手の甘えた先入観を木っ端微塵に打ち砕く作品である。



 ALD(副腎白質ジストロフィー)という難病に冒された幼い息子を救うため、医学の知識のまったくない両親が、あらゆる文献を読みあさり、さまざまな治療の可能性を試み、ついに特効薬を発見するまでの物語(彼らはこの発見で医学の学位を授与された)。実話の映画化で、監督は「マッドマックス」シリーズや「イーストウィックの魔女たち」(87年)などのジョージ・ミラー。

 当初この題材をアクション派のミラー監督が撮るのは場違いではないかと思ったが、彼は医師の免許を持っており、何よりも「マッドマックス」の悪役たちをそのまま難病ALDに置き換えただけの(乱暴な比喩だとは思うが)パワフルな展開に、彼の資質があらわれていて、この起用は成功したと言える。

 もしも自分の息子が直る見込みのない病気にかかっていると告げられたら・・・多くの“死病もの”の映画は、この“直らない”という時点から出発し、死ぬまでのプロセスを描くことに腐心する。医者がそう言うのなら仕方がないと、信じて受け入れるしかないのか(中には信用しない親もいるだろう)。でもこの映画の親たちは、自分たちで治療法を探そうとする。それも安易にオカルト方面の手助けを借りず、見事に科学的に、アカデミックな方法をもって目的を達成しようとする。

 この発想は凄い。病院を信用せず自宅に治療室を設置し、死ぬまでをいかに心地よく(?)過ごすか、という命題を求めるあまり、医療関係のPR機関に過ぎなくなった“ALDの子を持つ親の会”の幹部を徹底的に糾弾し、少しでも悲観的なことを考える看護婦はただちにクビにする。彼らにとって“息子がもし死んだら・・・”と考えること自体が“負け”と同じなのだ。

 “お涙頂戴路線”に対する抑制は見事にきいている。主役の両親を信用しきった作者のスタンスは安易にウェットな展開に流れることを断固として拒否する。主役のニック・ノルティ、スーザン・サランドンは絶望的な状況にあっても決して望みを捨てない人間の美しさを体現化していて感動的だ。

 それは何も、必要に迫られたとはいっても専門外の医学的知識を身につけてしまった二人の超人的努力に対する賞賛だけではない。ヘタをすると互いにヒステリックにののしりあい、八つ当りしそうな切迫した状況の中で、相手を尊重し合い、冷静に対処する人格の高さをも描き出している点である。しかし、サランドンの子供のいない妹に対する確執など、人間としての弱さもちゃんと描き出しており、血の通ったキャラクターになっているのも感心した。

 イタリアなまりの主人公になりきったノルティもいいが、確固とした信念を持ち、毅然とした、それでいて優しい母親像を見せてくれたサランドンの演技は素晴らしい。それから、二人と対立するベテラン医師のピーター・ユスティノフの存在感も光った。

 ALDはある種の酵素が先天的に欠乏していて、特定の脂肪酸が血液中にたまり、それが脳を冒し全身マヒで死にいたるという病気である。このプロセスおよびどうやって病気を直していくか、なぜ二人が突き止めた特効薬が効くのか、映画は実に素人の観客にもわかりやすく、難しい医学用語を噛んで含めるように説明し、それがちっとも不自然でなく、誰が観ても“おおっ、なるほど”と納得させるセリフ回しが大きな効果をあげている。ミラー自身とニック・エンライトによる脚本の勝利であろう。

 バックに流れるサミュエル・バーバーの“弦楽のためのアダージョ”(「プラトーン」でもおなじみ)やマルチェロのオーボエ協奏曲などのクラシックの名曲がドラマを盛り上げる。

 決して楽しい映画ではない。けれども“死病もの”にありがちなセンチメンタリズムとは無縁。全篇を覆う強靭な求心力、見応え十分の秀作である。主人公たちの勇気に感心するとともに、もし自分が主人公の立場だったらどうなるか(誰でもその可能性はゼロではない)という重い問い掛けがのしかかってきた。
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「不倫願望 癒されたい」

2011-11-14 06:27:46 | 映画の感想(は行)
 2000年製作の成人映画だ(大蔵映画)。ガンを宣告され、怖くなって家を飛び出した中年男が、偶然売れないアイドル歌手と出会って互いの境遇を話し合ううちに生きる希望を取り戻すという、出来過ぎな話をコメディタッチで綴る国沢実監督作品。

 これがけっこう面白い。予定調和の展開の中にツボを押さえたギャグや“歌謡映画もどき”な場面を挿入させて観客を飽きさせない。昔懐かしいプログラム・ピクチュアの雰囲気で観ていてホッとする。こういう作風が許されるのは、もはやピンク映画だけなのだろうか。キャストも万全で、特にヒロイン役の南あみが可愛い(^_^)。

 そういえば、成人映画をフィルム上映してくれる劇場は福岡市のような都会でも絶滅してしまった(実質的には首都圏だけ?)。たまにはピンク映画も観たいと思うときもあるが、結局はビデオに頼るしかないのだろうか。寂しいことだ。
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「カウボーイ&エイリアン」

2011-11-13 06:36:23 | 映画の感想(か行)

 (原題:Cowboys & Aliens)突っ込みどころは満載だが、妙に憎めない映画だ(笑)。これはやはり、西部劇とSFとのコラボレーションというアイデアがモノを言っているのだろう。穴だらけの作劇も、西部の荒野を吹き渡る砂塵をバックに展開すると許してしまいたくなるのだから面白い。

 19世紀のアリゾナ州。ある男が沙漠の真ん中で目を覚ます。記憶を失っており自分が誰かも分からない。気が付くと片方の手首には正体不明の手枷がはめられている。何とかたどり着いた小さな町は強権的な元軍人の牧場主が牛耳っており、男は歓迎されることもない。そんな中、町の上空から謎の飛行物体が襲い掛かってきて、人間を次々と攫っていく。すると男の手枷が自動的に“反応”して飛行物体を撃墜。かくして西部の片隅で、地球人対エイリアンのバトルが幕を切って落とされる。

 くだんの男は一度は異星人に誘拐されたが、何とかエイリアンのアジトから逃げてきたらしい(その時に記憶を一時失っている)。しかし、脱出した過程は一応は示されるものの、どうしてあのような結果になるのか分からない。そもそも、エイリアンの基地からの“抜け道”があること自体が噴飯ものだ。

 異星人側にしても、地球人を攫う理由が不明。さらに彼らはここ一番の戦いの場になると、素手で襲いかかってくるのだ(爆)。それでも人間よりは腕っぷしは強いのだが、飛行メカも操る科学技術を持っていながら、どうして丸腰で立ち向かってくるのか釈然としない。

 しかもこいつらのデザインが“どこかで見たような御面相”だったりするのだから呆れる。製作総指揮にスピルバーグ、製作にロン・ハワードが関わっていながら、この体たらくだ。しかしながら、本作の雰囲気は決して嫌いではない。絵に描いたような西部の町と、悪党に保安官にインディアンという、これまた絵に描いたような顔ぶれが画面に現れるだけで嬉しくなる。

 主演のダニエル・クレイグは往年のスティーヴ・マックイーンばりの不貞不貞しさで西部のならず者に成り切っている。ジェームズ・ボンドよりもこっちの方が良い。町のボスに扮するハリソン・フォードも実にカウボーイ・ハットが似合う。この両人で改めて本格西部劇を作って欲しいものだ。

 ジョン・ファブローの演出はテンポが良く、とりあえずは観客を退屈させないで最後まで引っ張っている。難しい事を考えずに、ヒマつぶしに観るにはもってこいのシャシンかもしれない。
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「リトル・ダンサー」

2011-11-03 07:09:38 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Billy Elliot)2000年作品。80年代半ば、ストライキに揺れるイングランド北部の炭坑町。11歳のビリーがバレエに興味を持ち、苦しい境遇を乗り越えてプロのダンサーとして歩み出すまでを描いたスティーヴン・ダルドリー監督作。公開当時はかなり評判になった映画だ。

 個人的な感想としては、悪い映画ではないが、絶賛するほどのものではないと思った。何より主人公がバレエに興味を持つようになった具体的な理由がまるで描かれていないのが致命的で、話自体がウソ臭くなってしまった。各エピソードの振り分け方もギクシャクしており、この監督の腕は決して高くはない。

 それにしても、あのレベルで合格できるとは、英国ロイヤル・バレエ学校も足元を見られたものである(男性バレリーナの条件はテクニックよりも体格や血筋がモノを言うらしいが、映画ではその点の説明もない。実に不親切だ)。
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「スマグラー おまえの未来を運べ」

2011-11-02 06:35:13 | 映画の感想(さ行)

 面白い。石井克人監督の吹っ切れた様子が垣間見える。CM業界出身者らしく、彼の「鮫肌男と桃尻女」や「PARTY7」といった当初の作品における“見かけ上の面白さ”は格別だった。ところが観る側がその映像ギミックに慣れてしまうと、あとは完全にネタ切れ状態になる。

 その映画の外見の取り繕い方が天才的に上手ければ話は別だが、そこまでの実力はない彼にとって早急な方針転換が急務だったはずだ。けれども、その後に手掛けた「茶の味」も「山のあなた 徳市の恋」も彼にとって題材が目新しいだけで、製作スタンスは相も変わらず外見上の小細工に過ぎなかった。しかしこの新作は見事に作劇に芯が通っている。

 派手な映像処理の連続は踏襲されているが、それらは主題を引き立たせるためのエクステリアとして機能させているのみであり、ウェルメイドな青春映画としての根幹はまったく揺らいでいない。石井監督、明らかに成長している。今後の作品展開が楽しみだ。

 大学は出たものの希望していた役者の仕事からは早々に落ちこぼれ、フリーターとして無気力な日々を送っている25歳の砧涼介が主人公。誘われるままに違法パチンコで300万円の借金を背負うハメになった彼は、女闇金業者の山岡に金を融通してもらうのと引き替えに、日給5万円のアルバイトを押しつけられる。その仕事とは“ヤバいものを引き受ける運送屋”だった。

 最初に運搬する荷物をそっと覗いてみたら、背中に入れ墨の入ったヤクザの首無し死体が梱包されている。同じ頃、組長が行方不明になって子分どもが右往左往している組本部に、組長の生首が送りつけられてくる。裏の情報に通じている山岡によると、下手人は“背骨”と呼ばれる中国人の殺し屋らしい。組に“背骨”の探索を命じられた山岡は、砧がバイトしている運送屋に“背骨”の身柄の組本部への移送を依頼する。こうして砧は、日本人ヤクザとチャイニーズ・マフィアとの抗争に関与してしまうことになるのだ。

 全編これ暴力と血しぶきが横溢する賑やかな(?)シャシンだが、石井監督得意のポップで軽妙な語り口とスマートな映像処理により、陰惨度は低い。それどころか、バイオレンスの中にユーモアとウィットが散りばめられていて、けっこう笑えたりする。

 永瀬正敏扮する運送屋のリーダーの不敵な面構えや、同行するジジイの我修院達也、ゴスロリ・ファッションでキメた女金融屋の松雪泰子、若いくせに海千山千の組長の未亡人である満島ひかり、拷問マニアの組幹部の高島政宏、そして人間業とも思えない体術を披露する“背骨”の安藤政信といった、異様に濃い面々を揃えているにもかかわらず、妻夫木聡演じる砧の存在感はまったく揺るがない。

 これは、映画自体が無為に生きてきた若者が“自分が何者であるか”を自覚する成長物語であるからだ。それを裏付けるように、怪異なサブキャラ達の跳梁跋扈にも負けない見せ場が、砧にも終盤にちゃんと用意されている。鑑賞後の印象が爽やかなのも、実に好ましい。

 時代設定は99年で、小道具などにもそれは反映されているが、こういう“カタギの人間が簡単にダークサイドに関わってしまう”という設定は、今観る方が実在感がある。主人公は最初からフェース・トゥ・フェースでヤバい連中と知り合うことになるのだが、今ならばネットを開けばその時点で闇情報との距離は近くなる。嫌な時代になったのかもしれない。
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