元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「DISTANCE」

2011-11-20 06:51:36 | 映画の感想(英数)
 2001年作品。カルト教団が引き起こした殺人事件の、加害者家族を描く是枝裕和監督作。たぶん同監督が手掛けた映画の中では一番出来が悪い。

 是枝は何かのインタビューで“彼ら(カルト教団)を生み出したのは間違いなく私たちの社会であり、その意味では私たちもまた加害者なのではないか、という逆転した問いが成り立つ。少なくとも私たちがイノセントな被害者でないことだけは確かだろう”などと述べているが、それは屁理屈である。それどころか“カルト教団は我々の社会の一部”という小賢しい考えこそがあの事件の根本的解決を鈍らせてしまったとも言える(何しろ、破防法の適用さえ出来なかったほどだ)。

 しかし、表現者が何を考えようと“個人の自由”だ。屁理屈を信じているならそれで結構。それを作品の中で力技により観客に納得させ、テーマに確固とした肉付けをすればいいだけの話だ。ところが、出来た映画はアプローチの根本から間違っている。



 まずはカルト教団事件の加害者遺族たる登場人物たちの内面に容赦なく迫らなければならないはずだ。それもキャストの力量を十分に引き出す演出力とガッチリとした作劇が必要であることは言うまでもなく、多少のケレン味もあっていい。しかし何を思ったかこの映画は“カメラも音声も引きまくり。演技は自然体(放任主義)”といったドキュメンタリー・タッチに振られてしまった。

 これが事件の当事者が出演する“本物のドキュメンタリー”なら仕方がないが(オウムの荒木広報部長を主人公にした「A」というドキュメンタリー映画の力作もある)、浅野忠信や寺島進といった自分から演技を引き寄せる力のある俳優陣を揃えていながら、あえてこの手法を取る必然性などないはずだ。

 案の定、映画では登場人物の関係者がカルト教団に惹かれていった“結果”だけしか映し出されておらず、事件の本質にはまったく迫っていない。極めて底の浅い掘り下げしか出来ていない。要するに映画としては何も描いていない。

 是枝はデビュー当時、いわゆるテレビ的な説明過多の作劇や従来のセンチメンタリズムに振られた日本映画の在り方を真っ向から否定するような物言いをしていた。それはそれで良いと思うが、そのスタンスの表出がこの映画のような“自然体のドキュメンタリー・タッチ(もどき)万能”という独善にしかならないのなら、完全に落第だ。

 “自然な演技や作劇”がリアリズムではないのだ。そんなのは“手法”の一つでしかない。「M/OTHER」などを撮った諏訪敦彦監督は“「自然な演技」や「自然な作劇」なんていうのはない。あるのは「うまい演技とヘタな演技」「上手な演出と未熟な演出」だけである”と言ったが、まさにその通りなのだ。
コメント
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