元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「父親たちの星条旗」

2006-11-20 06:38:55 | 映画の感想(た行)

 (原題:Flags of Our Fathers)まず驚くべきは、今まで自分の頭の中だけでデッチあげたような与太話を得意満面で映像化して悦に入っていたクリント・イーストウッド監督が、この作品に限っては完全に態度を改めていることだ。

 映画は第二次大戦の太平洋戦線屈指の激戦地になった硫黄島の死闘と、お馴染みの“硫黄島の星条旗”の写真の当事者であった3人の若い兵士の戦後の苦悩を、ケレンを廃したリアリズムで粘り強く捉える。そこにはいつもの“とにかくオレの話を聞け!”といった同監督の不遜なスタンスは微塵も感じられない。

 ではどうしてイーストウッドはそんな謙虚とも言える姿勢を取るに至ったのか。それはたぶん“歴史の重さ”であろう。厳格な史実の前では、カツドウ屋の小賢しいこだわりなど消し飛んでしまう。彼がなぜこの題材に興味を持ったのか本当のところは分からないが、この“歴史ネタ(特に現代史)”というものには、映画作家にとって自らのスタイルの変更を余儀なくされても扱う価値のあるほど魅力的なものなのだろう。

 映画は硫黄島の激闘と帰国した3人のその後の生き方を交互に描き、たまたま星条旗を立てる現場に居合わせただけの彼らが、一時的にチヤホヤされるものの結局は決して幸福とは言えない人生を歩むに至ったその背景にも、戦争の暗い影があったことを強調する。

 さらに脚光を浴びる彼らとは対照的に、息子を戦地で失った家族の悲しみも描かれるのはもちろん、やれ戦争の英雄だ何だと持ち上げブームが去ると手のひらを返すように忘れ去ってしまうマスコミとこれに踊らされる国民をクールに捉え、そんな無節操ぶりこそが戦争を引き起こす要因だと主張しているあたりは、実に納得できる。言うまでもなく、それは紛れもない真実なのだ(しかも、立派に現代にも通じている)。

 いつものイーストウッド節を期待すると裏切られるが、これは真摯な力作であり、観る価値は十分ある。色彩を抑えた画調は効果的で、製作にスピルバーグが参加しているせいか戦闘シーンは「プライベート・ライアン」との共通性が見て取れるとはいえ、十分な迫力がある。
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「ブラック・ダリア」

2006-11-18 06:52:56 | 映画の感想(は行)

 (原題:The Black Dahlia)失敗作である。それでも最近のブライアン・デ・パルマ監督にしては健闘している方だと思う。戦後間もないロスアンジェルスの落ち着かない“空気感”を万全の舞台セットで再現しているし、中盤の羽交い締めから落下に至る驚くべきショットは、かつて“ヒッチコックの継承者”と呼ばれた同監督が久々に気合いの入ったところを見せた名場面だと思う。

 しかし、筋書きがあまりにもお粗末・・・・というか、ほとんど何も語っていないに等しい。前半の、思わせぶりに配している数々のモチーフが全く有機的に結び付かず、終盤近くに強引に示される“謎解きらしきもの”にいたっては、まるで支離滅裂。

 ひょっとしてデイヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウェイ」みたいに謎を謎として放置し、ワケのわからん不条理感を喚起させるという作戦だったのかもしれないが、ここにはリンチ作品のような病的なドス黒さもなければ幻惑的なシークエンス配置の玄妙さもない。ただ未整理のまま散らばっていたネタを、手に負えないので最後に全部まとめてゴミ箱に放り込んだに過ぎない。

 致命的なのはケネス・アンガーが「ハリウッド・バビロン」の中で紹介したという惨たらしくも美しい惨殺死体の描写が平板極まりないこと。おかげで作品自体のミステリアス度が限りなく低下してしまった。

 キャストも弱体気味で、ジョシュ・ハートネットもアーロン・エッカートも押しの弱い青二才だし、スカーレット・ヨハンソンに至ってはただのコギャルにしか見えない。もちろん主役に若手を使うのはかまわないが、脇に作品のアンカーたるべき重量感のあるベテラン俳優を何人かスタンバイさせておくべきではなかったか。

 とにかく、J・エルロイ作品の映画化ということで「L.A.コンフィデンシャル」のような完成度の高さを期待すると完全な肩すかしを食らわされる。
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「トリスタンとイゾルデ」

2006-11-17 06:44:30 | 映画の感想(た行)

 (原題:TRISTAN + ISOLDE)そこそこ良く出来た史劇である。最近の例で言えば「キング・アーサー」や「キングダム・オブ・ヘブン」などより質は落ちる。物量面でも「トロイ」や「アレキサンダー」に比べれば微々たるものだ。戦闘シーンに至っては、予算不足か史実がそうなのか知らないが、随分とスケールが小さく、また殺陣も工夫の跡が見られない。

 ならば観る価値がないのかといえば、そうでもないのだ。何よりワーグナーの楽劇でもお馴染みの悲恋物語のルーティンを、奇をてらわず正攻法で撮りあげたことに好感を覚える。こういうのは中途半端に“現代的な解釈”とやらを挿入するのは鬼門だ。

 監督のケヴィン・レイノルズの演出は取り立てて才気走った部分はないが、オーソドックスに徹した仕事ぶり。主役のジェームズ・フランコとソフィア・マイルズも、ハリウッド大作史劇全盛期の俳優達に比べればかなり小粒ながら、立派に品格を保っている。特筆すべきは映像の美しさで、イングランドとアイルランドの茫洋とした自然の風景は清涼感に満ち、画面からキレイな空気が漂ってくるようだ(笑)。美術と衣装も万全である。

 それにしても、古今東西、好いた惚れたの話は障害があるほど盛り上がるものだ。本作のように互いが対立する勢力に属していたなんてのは古典的だが、身分が違いすぎたり極端な遠距離だったり、中には文字通り“違う世界”に住んでいた(この世とあの世とか、別の時間軸とか)なんてのもある。その“障害”をどう上手く設定するかが恋愛劇の作り手の腕の見せ所なのだろうと、今さらながら感じ入ってしまった。
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“強者の論理”では、いじめ問題は解決しない。

2006-11-16 06:50:36 | 時事ネタ
 性懲りもなく、また“いじめ問題”について書いてみる。今回のネタに使用するのは、またしても産経新聞の社説だ(笑)。11月14日付の朝刊。タイトルは「いじめと自殺 卑怯を憎む心を育てよう」。

<引用開始>
 いじめの問題で大切なことは、いじめを受けている子供の心のケアと同時に、いじめる側に対する厳しい指導である。時には、親を呼び出して指導することも必要だ。いじめが深刻な場合は、出席停止などの措置や警察への連絡を躊躇(ちゅうちょ)してはならない。

 数学者の藤原正彦氏は著書『国家の品格』で、父親(作家の新田次郎氏)から「弱い者がいじめられているのを見て見ぬふりをするのは卑怯(ひきょう)だ」と武士道精神をたたきこまれたエピソードを書いている。家庭でも、小さいころから、この卑怯を憎む心をはぐくんでおくことが大切である。
<引用終了>

 相変わらず、この新聞社はいじめの何たるかを理解していない。「いじめっ子に対して厳しく対処せよ!」・・・・なるほど、一見正論だ。しかし、その“厳しい指導が必要なほどのいじめ”の定義は何だ? 無能な学校当局にでも認識できるような“常軌を逸したいじめ”とは、暴力をふるったり金品を巻き上げたりするようなものではないか? それは果たして“いじめ”なのか? 一般社会的な認識だと、それは“暴行”とか“恐喝”とか呼ばれるものではないのか? つまりは刑事事件だ。いじめをそういう刑事事件で総括していいのか?

 いじめというのは、何も暴力を振るったりするような、明確な形であらわれるものだけではない。皆で無視したり、キツイ言葉を浴びせたりといった、陰湿で目に見えにくいケースが多い。そして困ったことに“無視して差別する”といったいじめは、暴力を伴ういじめとは違って加害者が特定できない。この社説で言ってるような“いじめる側に対する厳しい指導”が必要というなら、いじめられている本人以外のクラスメートを全員をシメ上げないといけないが、そういうことが出来るのか? そうなったら学校運営もへったくれもありゃしない。さらに悪いことに“無視して差別するいじめ”は、いじめる側にとって罪の意識など全くないのだ。

 産経新聞の連中の考えが根本的に間違っているのは、彼らが“強者の側(いじめる側)”からでしかモノを見ないからだ。いじめっ子を駆逐し、皆がいじめられっ子に対して配慮すればいじめはなくなると思っている。そうじゃないだろ。皆がいじめられっ子に対してどう思おうと、いくら親切に接するように努めようと、いじめられっ子が“いじめられている”と思えば、それは“いじめ”なのだ。学内から一部の乱暴者を放逐して、教師や他の生徒が“さあ、これで安心だ。いじめっ子はいなくなった”と決めつけるのは、傲慢でしかない。

 いじめというのは、教師やいじめられっ子以外の者が“こうすればいじめになってしまう。だからこうしよう”と勝手に判断するようなものではない。一部の突出したいじめっ子をやっつけるだけでは絶対解決しない。いじめられっ子にとっては、些細なからかいや無視でも、重大ないじめと感じてしまうのだ。“その程度で傷つくのは本人が弱いからだ。そんなのはいじめの範疇に入らない”と思うのは無神経に過ぎる。他人の心ない一言や冷淡な態度にショックを受けることは、我々にだってよくあるはずだ。子供なら尚更だろう。

 大切なのは、いじめられっ子をいかに扱うかだ。この社説にあるように“いじめを受けている子供の心のケア”などと悠長なことを言っているヒマはない。早急に保護し、早急に打開策を考えることが重要である(その主体になるのは学校ではなく、親だ)。それは登校を控えるとか、転校するとか、具体的なものであるべきだ。“心のケア(抽象的な対処)をすれば何とかなる”というのも、強者の側の言い分に過ぎない。

 要するに産経新聞はいじめられっ子の存在が鬱陶しくて仕方がないのだろう。いじめられないように強くなればいいのであって、いじめられるような弱い奴は世の中から退場してもらいたい・・・・こんなことを本気で考えている。いじめを糾弾しているようで、その実“強者の論理”を押しつけている。そういうスタンスこそがいじめを助長させていることに気が付かないのか。まったく、呆れてモノも言えない。
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「カポーティ」

2006-11-15 06:47:53 | 映画の感想(か行)

 (原題:Capote)フィリップ・シーモア・ホフマンの個人芸を見る映画だ。もちろんトルーマン・カポーティがどういう外見の人物だったのか知らないし、ホフマンがどれだけ似せることに成功したのか分からないが、少なくともここでの彼の演技は“有名作家センセイの生態”を具現化する上で大健闘していると言って良い。

 カン高い声でジョークを飛ばすパーティでの人気者であり、かなりの自惚れや。身だしなみには細心の注意を払う。特に滞在先のホテルを出発する際、同行した作家ネル・ハーパー・リーの前でくるりと一回転して“本日のコーディネート”を見せびらかすあたりは思わず吹き出してしまった。

 さて、映画の出来映えだが、どうもパッとしない。「冷血」の題材であるカンザス州の一家惨殺事件の容疑者ペリー・スミスに、どうしてカポーティが作家生命をかけてまでのめり込んだのか、そのあたりの説得力に欠けている点が敗因だ。

 もちろん物語の持って行き方で“説明”はされているが、観る側をグッと引き込む求心力はまるでない。どこか一カ所でも良いから、強い印象を与える暗示なりモチーフなりが必要だったのはないか。

 シナリオを担当したダン・ファターマンは、当初は別の人物を想定して“作家とモデル”の関係性を描こうとしていたらしく、それがたまたまある文献を目にしたのをきっかけにカポーティを主人公にすることにしたというから、最初からカポーティそのものについての掘り下げが足りなかったのかもしれない。しかも、これが監督デビューとなるベネット・ミラーの演出は平板に過ぎる。

 ともあれ、個人的にはあまりピンと来ない作品であった。リチャード・ブルックスが67年に撮った「冷血」の映画化の方がよっぽど強烈だ。
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「ブロンクス物語 愛につつまれた街」

2006-11-14 06:45:11 | 映画の感想(は行)
 (原題:A Bronx Tale)94年作品。ロバート・デ・ニーロの監督デビュー作だ。60年代、ニューヨークのブロンクス。イタリア系バス運転手の息子カロジェロは、地道に働く父親よりも肩で風切って街をのし歩くマフィアのボス、ソニー(チャズ・パルミンテリ)に憧れている。ひょんなことからソニーの舎弟となったカロジェロは、ボスや仲間の信頼を得ていくが、父親(デ・ニーロ)は息子が心配でたまらない。イカレた悪友たちとの葛藤や、黒人少女との初恋などを通じカロジェロは大人への階段を上がっていくが、やがてソニーとの悲しい別れが待っていた。

 どちらかというとエキセントリックな役柄が多いデ・ニーロだが、演出に回るとオーソドックスに徹しているのが驚きだ。生々しい“作家性”など微塵も見せず、良質の青春映画のルーティンを守っている。しかも、チンピラたちの殴り込みのシーン絶妙のカッティングや、主人公と恋人が初めて出会う場面の心理描写など、随所に光る演出を見せる。ヘタなハリウッドの職人監督よりは数段上手い仕事ぶりだ。演技者としてのデ・ニーロも、今回は実に自然体で脇を固めている。当時のイタリア移民社会の描き方も的確だ。

 たぶんこれは作者の自伝のつもりで作ったのだろう。自身の生き方の手本となった実直で善良な父親と、もうひとりの父親的存在のマフィアのボスを描くとなれば、無用なケレンやハッタリを駆使するのを控えて当然だ。

 良識ある市民としてマフィアに精一杯の抵抗を試みる父親と“刑務所に入ったのは人生のちょっとした選択の誤りのはずだったが、結局それが道を決めてしまった”と裏社会の本音を語るソニーの二人の“大人”に囲まれた作者の少年時代は、貧しいけど、かけがえのないものだったのだろう。脚本も担当したパルミンテリの好演も光る。
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「狼少女」

2006-11-13 07:42:23 | 映画の感想(あ行)

 しんぐうシネマサミット2006出品作品。1970年代中頃の茨城県の田舎町を舞台に、縁日にやってきた見せ物小屋やキレイな転校生に心惑わされる小学校4年生の主人公を描く。

 舞台設定に難があると思ったのは私だけだろうか。いくら片田舎とはいえ、あの時代に子供だましの見せ物小屋が堂々と営業していられるのは不自然だ。さらに小屋の目玉である“狼少女”の(本当の)生い立ちを聞くと、一体いつの時代の話なのかと思ってしまう。

 少なくとも60年代半ばの設定にすべきではなかったか。しかし、そうなるとセット等に多額の予算が必要で、マイナー映画の手に負える範囲ではない。そうかと言って見せ物小屋のエピソード抜きには映画が成立しないわけで、これは悩ましいところだ。

 だが、舞台設定を除けばこれはなかなかの佳篇だと思う。子供なりの哀歓が、徹底的に子供の視点で描かれ、観る者は甘酸っぱい感傷に浸れる。友人達や親とのちょっとした関係性が、子供の人格を作り上げてゆくプロセスを、冷静かつ温かい視線で追う作者のスタンスが快い。シークエンスの積み上げ方も堅実で作劇の乱れがなく、各キャラクターの造型も的確だ。

 特に主人公の母親の趣味が編み物で、彼はその相手をすることが多く、それが夜中に家を飛び出した彼を父親が探し出す際の重要な小道具になるあたりのプロットは見事だ。もちろん主人公に別れが訪れるラストの盛り上げ方は申し分ない。

 主役の3人を演じる子役(鈴木達也、大野真緒、増田怜奈)は実に達者だし、大塚寧々や利重剛、田口トモロヲ、手塚理美といった脇を固める大人達も好演だ。美しい映像もポイントが高い。

 監督はこれが長編映画デビューとなる深川栄洋。上映後のトークで、昨今の子供を巡る冷え冷えとした事件の頻発に対するメッセージをこめたというような意味のことを言っており、なかなか見所のある作家のようである。今後の活躍に期待したい。
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「佐賀のがばいばあちゃん」

2006-11-12 07:26:07 | 映画の感想(さ行)

 しんぐうシネマサミット2006出品作品。このイベントは福岡県新宮町で行われる“地方発の映画”だけを集めた映画祭で、今年で3回目になる。この映画は劇場公開済みだが、私は見逃していたのでちょうどいいと思って観た次第だ。

 漫才師の島田洋七の自伝的原作の映画化で、佐賀の母方の実家に預けられた主人公と祖母との触れ合いを描く。個人的には不満な出来だ。

 実を言えば私は小学生の頃に佐賀に住んだことがある。一番印象に残っているのはどこまでも広がる田んぼだ。そして田園地帯に縦横に張り巡らせたクリークでフナ等を獲って遊んだものだ(注:郡部ではない、佐賀市内である ^^;)。だが、この映画にはそんなイメージは全くない。妙に小綺麗なのだ。

 ラストのクレジットを見ると、撮影場所のひとつに赤松校区があげられているが、そのあたりは市内でも“山の手”の部類に入る。これでは主人公が前に住んでいた広島とあまり変わらず、見ようによっては“なんとかレトロ地区”といった観光名所みたいだ。あと、武雄や柳川でもロケされているらしいが、何か違う気がする。広い田園地帯を引きのショットで捉えれば、佐賀の佐賀たる特徴が強調され、広島との対比が作劇にメリハリを付けたと思うのだが、作者はそこまで考えが及ばなかったらしい。単に“田舎だったらどこでもいい”という安易な姿勢で臨んだと思われる。

 倉内均の演出は平板だが、吉行和子や工藤夕貴、山本太郎や緒方拳といった芸達者を揃えたキャスティング、そしてセリフの面白さで退屈はさせない。特に“悲しい話は夜するな。どんなにつらい話も昼したら、大したことない”というばあちゃんの言葉は思わず“なるほど!”と膝を叩いてしまった。

 映画の質としては凡庸だが、イヤミはなく、普段あまり映画を観ない多くの層にはピッタリのシャシンだと思われる。事実、広いホールは近所の人たち(たぶん)で満杯だった。
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「ギャング・オブ・ニューヨーク」

2006-11-11 07:23:56 | 映画の感想(か行)
 (原題:Gangs of New York)「ディパーテッド」が公開待機中のマーティン・スコセッシ監督による2002年作品。19世紀半ばのニューヨークに生きる人々の壮絶な生きざまを描いた大々的な任侠映画(?)。

 つまらない。映画のポイントが全く絞り切れていない。いったい何を描きたかったのだろう。復讐劇か? 父子の葛藤か? 単なるラヴストーリーか? それともアイルランド移民の悲劇? これら種々雑多の要素を長い上映時間にぶち込んで“大河ドラマ”としての体裁を整えようとしているのだが、いずれにしてもメインとなる作劇の“核”が不在であるため、ヘタな連続ドラマの総集編を見ているような居心地の悪さが終始付きまとう。

 もちろん、評判になった時代考証は素晴らしい。セットや衣装も言うことなし。ただし問題は、それらがドラマ以上に目立ってしまっていることだ。結局、一番カタルシスを感じたのは、終盤の軍の出動により主人公達(チンピラや暴徒)が吹き飛ばされる場面だったりする(ゴチャゴチャとした物語が“精算される”という意味で ^^;)。

 御存知のように監督のマーティン・スコセッシはイタリア系だが、同じカトリックとは言ってもアイルランド系には十分な思い入れがなかったのかもしれない。ディカプリオとキャメロン・ディアスの演技にも特筆されるものはない。唯一ダニエル・デイ・ルイスだけが貫禄を保っていた。
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「青春☆金属バット」

2006-11-10 06:44:25 | 映画の感想(さ行)

 冴えないコンビニ店員と飲んだくれの巨乳女とグータラ警官が織りなす“ダメ人間のタペストリー”みたいなシャシンだが、観賞後の気分は決して悪くない。それどころかサワヤカな感動さえ覚えてしまった(笑)。

 何より、主人公達が自らのダメぶりを完全に自覚し、それから逃げるどころか敢然と対峙して受け入れている点が素晴らしい。先日読んだ「八月の路上に捨てる」(芥川賞受賞作)とかいうくだらない小説の登場人物が自分のダメさ加減に対してウダウダと言い訳ばかりしているのとは好対照だ。

 古泉智浩の同名コミックを映画化したのは熊切和嘉監督だが、以前撮った「空の穴」と同じく、真にダメな奴にとって小賢しい言い訳とかカッコつけとか、そんなのはまるで縁のない話だと見切っているのが天晴れである。同時に、ダメな連中に対しての御為ごかしの同情やら共感やらはクソの役にも立たないことも見抜いている。それでも作者が執拗にダメ人間を描き続けるのは、ダメな奴にもそれなりの愛嬌があるから・・・・では断じてなく(爆)、作者自身が自らのダメぶりをしっかり見据えることを映画人生の出発点としているからではないかと思う。こういう開き直ったスタンスを持つカツドウ屋は打たれ強い。熊切監督の今後にも期待したい。

 元甲子園出場高校の野球部に在籍していたことを唯一の拠り所として日々を送る能なしコンビニ店員に扮する竹原ピストルの、痛々しいほどのリアル演技は哀れを通り越して笑ってしまうし、元甲子園出場高校のエースになった時点で“人生が終わって”しまった不良警官を演ずる安藤政信もヤケクソの熱演。さらにすごいのは酒乱の巨乳女役の坂井真紀で、常軌を逸した無茶苦茶なキャラクターに完全に成り切っており、しかも下品にならないというのがポイント高い。役柄を広げる怪演だ。

 個人的には“ベーブ・ルースの息子”役で登場する若松孝二に爆笑。そういえば彼もダメ人間の扱い方が上手い監督だった。
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