元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

いじめられる者は“負け組”なのか?

2006-11-02 06:43:06 | 時事ネタ
 10月31日の産経新聞の社説をネタに、しつこいようだが、もう一度「いじめ問題」について書いてみたい。

<引用開始>
【主張】いじめ自殺 死に急いだら負けになる
自殺は、いじめに屈して負けを認めるようなものだ。真相も分からなくなる。いつかはいじめた相手を見返すくらいの気持ちをもって、心身共に強く生き抜いてほしい。
<引用終了>

 これを書いた記者は、いじめに対して真剣に考えたことがないか、あるいは学生時代にいじめたこともいじめられたこともない「ラッキーな野郎」だったと思われる。そんな奴にこの問題についてあれこれ言う資格はない。

 だいたい、その“いじめた相手を見返す”という選択肢を確固として持っている者は最初からいじめられないか、あるいはいじめられる期間は短くて済むのだ。生徒全員が“相手を見返してやる!”といった気概を持てるとは限らないから、いじめ問題は深刻なのではないか。

 いじめられている者は、相手を見返そうとか、相手をやっつけようとか、そんなことに考えも及ばないケースが多いと思う。単純に考えれば、いじめっ子の一人や二人、死なない程度に痛めつけてやればいいと思うのだが、当人達にはそんな勇気はない。たぶん相手をぶん殴ることさえ怖くて出来ないのだ。そんないじめられっ子に対して“相手を見返すくらいの気持ちを持て”と言って何になる。かえって余計なプレッシャーを与えて追い込むだけだ。

 “相手を見返すくらいの気持ち”を持つか持たないかってのは、それこそ個人の勝手であり、いわば“個性”ではないのか。それを“そういうのはダメだ!”とばかり押しつけるのは、理不尽な強制に過ぎない。映画「チョコレート」の主人公の息子が命を絶ったのも、おそらくはそういうことだ。前近代的なマッチョイズムの強要と、それに馴染めない自分を“ダメだ”と思い込むことにより悲劇が生まれる。筑前町の自殺した中学生もそうだったのではないか。相手を見返すことが出来ない自分に絶望したのではないか。

 だいたい“相手を見返すこと”がそんなに大事なことか? もちろんそういう“他人を見返すこと”をバネにしてのし上がった人物も多々いるだろう。だが“見返すべき相手”にしかベクトルが向いていないと、物事を大局的に見たり、社会一般のことを考えたり、中長期的なヴィジョンに立ったりということに無縁になるのではないか。

 いずれにしろ、相手を見返すことが出来る“素質”のある生徒は、いじめに対して遠慮なくそれを発揮すればいい。ただし、そんな“素質”のない生徒も確実に存在するし、その数は決して少なくないと思う。そういう状況で“相手を見返す気概を持て!”とシュプレヒコールをブチ上げても無駄だ。ヘタすれば“見返せない奴はダメだ”という定説を生み、いじめを加速させる恐れもある。“相手を見返すことが大事”というセリフは“いじめられる者が(すべての場合で)悪い”という物言いと同じくらいの、早々に葬り去るべき空念仏だ。

 ではなぜ産経新聞がこんなヘッポコ社説を堂々と載せるのか。それは、同社の“市場原理主義マンセー! 構造改革バンザイ!”という基本スタンスに合致するからだと思う。力こそがすべての弱肉強食社会を賛美する立場からすれば、イジメで死ぬのは“ただの負け犬”として片付けるのも当然。“死んだら負け”などと死者に鞭打つ言葉を平気で吐けるのも、自らが“相手を見返すことがすべて”といった傲慢かつ矮小なメンタリティで生きてきた故なのだろう。
コメント
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