元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「blue」

2006-11-26 07:26:42 | 映画の感想(英数)

 2001年作品。前回感想を書いた「ストロベリーショートケイクス」はああいう出来に終わったが、同じ魚喃キリ子の原作の映画化では、女子高生達の微妙な心理を描き出す同名コミックを元にした、この映画の方がはるかに上質だ。

 物語は新潟市郊外の女子校に通うカヤ子(市川実日子)と雅美(小西真奈美)の主人公二人の同性愛的な関係という、ともすれば下世話になりそうなネタを軸に展開されるが、映画の中ではその側面はあまり強く押し出されていない。むしろ人間の心の持つ弱さや生き方の問題といった普遍的なテーマに深く切り込んでおり、その意味でかなり見応えのある作品に仕上がっている。

 好奇心旺盛ながら進路をなかなか決められないカヤ子にとって、どことなく大人びた雅美は憧れの的。しかし、映画はそんな雅美の“素顔”を容赦なく暴き出す。ハイブロウな音楽の趣味も、美術への関心も、もっともらしい物言いも、すべて他人からの“受け売り”だ。現実は勉強もスポーツも出来ない凡庸な学生でしかない。そんなからっぽの自分を取り繕うために年上の男と付き合ったり「孤独を愛するポーズ」を取ったりはするものの、かえって自己嫌悪に陥るばかり。そのディレンマは、画集を貸しただけのカヤ子が何のためらいもなく絵画にチャレンジし、早々に進路を決めてしまうのを見るに及んで決定的なものとなる。

 突き詰めれば、人間というのはこの“傍観しているだけの者”と“行動が先に来る者”との二種類に分けられるのだ。そして我々の大部分が前者に属している。既成の情報や他人の影響で自分を装い、行動する前から分かったような気持ちになっている。オリジナリティなんて数パーセントもない。

 ただし、それだけでは人間の優劣なんて決められないのも確か。大事なのは、自分の属性を知った上で、いかに他者や社会と折り合いを付けていくかという“思慮深さ”にある。カヤ子が“何もない”ことが判明した雅美と絶交しなかったのは、雅美が“何もないこと”を自覚しているという、最低限の思慮を持ち合わせていたからだと思う(実際、世の中には自分に“何もない”くせに“何かある”と思い込んでいる者が幅を利かせていたりする)。二人が夜通し歩きつめた末に互いを肯定し、夜明けと共に学校に戻ってゆくシーンは素晴らしい。

 安藤尋の演出は実に丁寧で、傷つきやすい青春期の内面描写に卓越したものを見せる。“大人”がほとんど出てこない画面、主役の二人をはじめほっそりとした体付きの登場人物たち等、生々しさを巧妙に排除した作劇は、外見的なリアリズムからテーマを相対的に浮かび上がらせようとする作者の工夫であろう。

 市川は最高の演技(本作でモスクワ国際映画祭の最優秀女優賞を受賞)。小西の存在感も相当なものだ。題名通りブルーを基調とした清澄な画面は印象的で、特に日本海の茫洋とした美しさは特筆される。大友良英の音楽も万全で、間違いなく近年の日本映画の収穫である。
コメント
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