99歳の新藤兼人監督のパワーにねじ伏せられそうになる一編である。第二次大戦も終わりに近い頃、中年ながら召集された松山啓太は、戦友の森川定造から、自分が死んだら手紙を読んだことを妻に伝えてくれと言われ、一枚のハガキを託される。やがて森川をはじめ一緒に招集された仲間のほとんどが亡くなるが、内地に待機していた松山は運良く生き残る。
戦争が終わって帰宅した松山だが、父と妻が“駆け落ち”して家はもぬけの殻になっていることを知り、すべてを放り出したくなった彼はブラジルへの移民を決意。だが、渡航する前に森川との約束を思い出し、彼の家を訪ねる。そこには、未亡人の友子が一人で暮らしていた。
前半部分に、森川が出征するシーンがある。万歳三唱で送られた次のシークエンスには、遺骨だけが戻ってくる場面が示される。やがて友子は森川の弟と再婚するが、その新しい夫にも赤紙が届き、万歳三唱で送り出される。そしてまたもや帰ってくるのは遺骨のみだ。この有様を舞台劇のようにロングショットで捉えたシーンは(驚くことに)ユーモラスである。
本当は悲惨極まりない話なのだ。ただそれをストレートに描くよりも、ユーモアのテイストを挿入することにより、単なる悲劇を通り越した不条理性が強烈に印象付けられる。この映画は全編そういう“突き抜けたようなユーモア”に彩られている。実際、客席からも幾度となく笑いが巻き起こった。しかし、言うまでなくそれは地獄を見てきた登場人物達および作者自身の“捨て身の諧謔”なのである。
松山も友子も戦争によって家族を失い、さらに松山が生き残ったのは上官の引いたクジの結果でしかなく、友子の夫が招集されて彼と同世代の村の顔役が戦争に行かずに済んだのも、ちょっとした“裏の事情”に過ぎない。そんなくだらないことで人の生死が決定されたこと。そして、勝つ見込みが極めて小さい戦争をあえて始めてしまった当時の日本。それを後押しした一般国民。かくも馬鹿馬鹿しい状況が具体的な悲劇として返ってくるなど、まさに“笑い話”ではないか。笑いながら、大粒の涙を流すしかないのだ。
主演の豊川悦司と大竹しのぶは、完全なオーバーアクトだ。それは演じている本人達も、演出する側もたぶん分かっている。しかし、それを“単なる絶叫芝居じゃないか”と片付けることは絶対に出来ない。戦争という最悪の茶番劇を糾弾するには、それぐらいの感情の高揚がないと逆にウソっぽくなってしまうのだ。過去を捨て去るために、好きなだけ叫べばいい。
森川役の六平直政、その両親に扮した柄本明と倍賞美津子、コメディ・リリーフである村の実力者を演じた大杉漣、いずれも好演だ。失われた人生からのわずかな希望の象徴として風にそよぐ麦の穂をとらえたラストは、新藤監督の往年の代表作「裸の島」を想起させる。そしてそれは、大震災からの復興を模索する我が国の状況と重なり、しみじみとした感動を呼ぶ。今年度の日本映画を代表する秀作だ。