元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「イン・ハー・シューズ」

2006-01-20 06:54:28 | 映画の感想(あ行)

 弁護士としてのキャリアはあるが容姿にコンプレックスを持つ姉(トニ・コレット)と、見た目は良いが難読症のためまともな職につけない妹(キャメロン・ディアス)との確執と成長。

 25年ほど前ならば当時隆盛の“女性映画”としてカテゴライズされ観る前から一目置かれるネタだったろうが、今なら単なるトレンディ映画(?)としか思われない題材と配役だ。しかしそこは才人カーティス・ハンソン監督、見応えのある人間ドラマに仕上げている。やっぱり映画は演出家だ(まあ、一概にそうとも言えないのだが ^^;)。

 序盤のヒロイン二人の描写に浮ついたところがなく、内面の屈託を的確に掬い上げているところにも感心するが(特に、合わない靴ばかりが並ぶ姉のクローゼットに彼女の悩みを象徴している場面)、中盤に妹が存在も知らなかった祖母(シャーリー・マクレーン)の元に身を寄せ、それによって出生の秘密を知るようになる展開は実にドラマティックだ。

 妹はこのフロリダの祖母の仕事を手伝うことにより、初めて“他人に尽くし、同時に他人から頼りにされる喜び”を知る。他方、姉は弁護士の職務に疑問を持ち、ドロップアウトするようになるが、ハッキリ言って妹のケースに比べると少し説得力には欠ける。ここはもうひとつ脚本を練り上げて欲しかった。でも、終盤の結婚式場面の感動はそれを補って余りあろう。

 主演の二人は好演で、特にC・ディアスにとっては代表作の一つになるはず。こういう主題の作品はもっと地味なキャスティングの方が良いとは思うが、そうなると客は呼べないので、これで正解だと思う。
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「クルーシブル」

2006-01-20 06:49:21 | 映画の感想(か行)
 96年作品。17世紀末にマサチューセッツ州セイラムの町で起こった魔女狩り騒ぎを描くアーサー・ミラーの戯曲「るつぼ」の2度目の映画化。今回は原作者自身が脚色も担当している。

 演技陣の素晴らしい仕事ぶりに感心する映画である。無知な小娘に一度だけ手を出したばっかりに魔女裁判の被告になってしまう主人公プロクター。決して聖人君主でも殉教者でもない平凡な男が、自己のプライドと良心を賭けて不正に立ち向かっていく。演じるダニエル・デイ=ルイスはロケ開始の半年前から現地に住み着き当時の生活に順応するという、相変わらず役に対するこだわりを見せるが、顔を汗と埃で汚しながらの大熱演ぶりは、何でアカデミー賞候補にならなかったのか不思議なほど。

 ウィノナ・ライダー扮する事件の張本人になる娘アビゲイルは、たぶん彼女のベスト演技だろう。たとえカメラから数十メートル離れていようと表情がわかってしまうほどの存在感と、愚かな女が開き直って善悪の境界を超えてしまうふてぶてしさを、まるで今村昌平監督作のヒロインのようにスクリーン上に描き出す。

 この二人に対して“静”の演技を受け持つプロクターの妻役のジョーン・アレンも凄いし、狂信的な判事役のポール・スコフィールドの怪演ぶりも忘れられない。このように全体的にほとんどのキャラクターが立っている映画も久しぶりである。

 さて、この戯曲は50年代の“赤狩り”の時代に書かれており、内容もそれを暗示しているのは知られているが、舞台出身のニコラス・ハイトナー監督はテーマの汎時代性を強調するためか、演劇的アプローチよりも明快平易な娯楽性に寄ったスタンスを取っている。動き回るカメラとゴシック・ロマン的な美術は、文芸ものというよりはホラー映画の雰囲気だ。ただそれがキワ物になる寸前のところで踏みとどまっているため、通俗性と内容の深さが両立したドラマに仕上がっている。

 それにしても、映画の舞台から三百年も経った現代でも姿を変えて横行する“魔女狩り”は人間の哀しい性なのだろうか。魔女狩りを憎む人々が別の魔女狩りに加担し、やがてファシズムへ以降していく構図は決してなくならないのだろうか。確固とした“個”を持たないままイデオロギーに傾倒していく愚かな連中を他人事と思って笑うことはできない。魔女狩りは自覚症状がない。プロクターのように正義に殉ずる者がいつもいるとは限らないのだ。
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