気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

日ざかり 川本千栄歌集

2009-08-06 00:55:08 | つれづれ
子の手より熱き手もはや欲しくなし油蝉濃き声揺らす刻

湯の中に白く煙(けぶ)りて乳は噴き私とお前の蜜月終る

産みたれば常に産まぬを軽く見て産んでみなければわからないなどと

明治の疎水今も流れる藤森(ふじのもり)・深草(ふかくさ)・墨染(すみぞめ) まち貫きて

大きくなれば空を飛べるかと聞いてくる子にバスタオルのマントを結ぶ

焦りゆえ子を叱り過ぎその後に悲しかったかと泣きながら聞く

春の夜のカップに紅茶はあたたかく夫はわれの相聞を読む

日ざかりに出でて遊べば子はもはや芯無く揺れる幼児にあらず

絵葉書のような恋とは思えどもしまい忘れた椅子一つある

(川本千栄 日ざかり ながらみ書房)

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塔短歌会の川本千栄さんが出された第二歌集『日ざかり』を読む。
あとがきによれば、2002年晩夏から2008年初春までの歌のなかから395首がおさめられている。上に引用したように、お子さんの歌が中心になっている。
一歳ころから小学校入学の直前まで、母と子の貴重な記録である。遅くに歌を始めた私には、子供が幼かったころの歌はない。
一首目。子を産んで子供がすべてと思う時期の歌。油蝉、それも漢字表記が子の手の熱さ、ひいては愛情の熱さを表している。
二首目。卒乳のころの歌。母乳さえ与えていれば子が満足してくれるのは、まさに蜜月だが、いずれそれにも終わりが来る。あり余る母乳は風呂の湯のなかに虚しく流れてしまう。
三首目。子供を産んだ女はとかくこういうことを言うものだ。川本さんは自覚しながら、歌として言っているが、その自覚なく言う人も多い。結婚、出産、子育ては同性の共感も反感も呼ぶ。経験していない人も「もし〇〇していれば・・・・」などと良くも悪くも、気になるだろう。こういう言い方そのものが不遜なのだろうか。
四首目。京都の地名には面白いものが多い。作者は伏見区にお住まい。私の親戚は深草大亀谷峠というところに住んでいた。このあたりの地名を見ると、懐かしくなる。
七首目。川本千栄さんのだんなさまは、松村正直さん。ご夫婦で短歌も評論も書かれる。教師としての仕事をしながら、母親でもあり、歌人でもあり、忙しくバタバタと暮らしておられるのがわかる。特に短歌を作ったり、評論を書くことは、集中力の要る仕事で、子育てをしながらは、本当に大変だろうと思う。夫が自分の短歌を読む、しかも相聞を読むというのはどんな気持ちだろう。もともと短歌の縁で結ばれたご夫婦であっても、照れるだろう。「春の夜」「あたたかい紅茶」が出てくるが、心のうちはわからない。
八首目。日ざかりは、子供を育てている時期が人生の「日ざかり」だという思いからだろう。子供はだんだん自我を持ちはじめ、子育ては難しくなってくる。毎日、応用問題と対峙する日々だ。
九首目。下句の「しまい忘れた椅子」が何なのか、なぞだ。