「博物館」なのだが、1テーマに絞ったもののランキングである。関東以北の1位は「三笠市立博物館(北海道三笠市)」でアンモナイトの展示数が日本一だそうだ。そして、2位が我らの「目黒寄生虫館(東京都目黒区)」である!コメントには「大村智北里大特別栄誉教授のノーベル賞受賞で話題になった風土病の原因となる寄生虫もある」とされている。中部・近畿の1位は「竹中大工道具館(神戸市)」、2位が「伊丹市昆虫館(兵庫県伊丹市)」となっている。中四国・九州の1位は「笠岡市立カブトガニ博物館(岡山県笠岡市)」、2位が「日和佐うみがめ博物館カレッタ(徳島県美波町)」となっている。
我らの「目黒寄生虫館」=MPM=目黒パラサイトミュージアムの素晴らしいところは、入館無料というところ。1位・2位にランキングした6館のうち、無料はMPMのみ。各地域の1位~5位までを見ても、無料はMPMと「佐賀県立九州陶磁文化館(佐賀県有田町)」ぐらいである。
正直、全人類において、寄生虫が1匹もいない人は皆無だと思っている。「振り向いてしまうほどの美人の彼女」も、「モデルになれるくらいかっこいい彼氏」も、虫眼鏡や顕微鏡で毛穴や体内を探れば、かならず寄生虫が見つかるのである。そう、寄生虫に寄生された彼女・彼氏に憧れているのである。そう考えると、容姿の良し悪しなんて、大したことないって思えてきません?なら美醜にランキングをつけるなんてアホらしいんじゃないかな~
という観点からMPMに行ってみてほしい。きっと、「虫けら」と思っていた寄生虫たちが、脅威の敵であることが理解できるだろう。ただ、寄生虫をすべて撲滅するのではなく、人類と寄生虫が共生していくことを考えてみてほしいと思っている。
受け取った人から、「ペラペラの紙っ切れですよ」と聞いていたのですが、本当に、ペラペラの紙じゃないですか!本当に、これが「私」を代弁すべき「マイナンバー」なのか・・・と思うと、なんとなく、残念な気がします。
でも、あくまで、今回受け取ったのは「通知カード」ですから。
で、12桁の番号ですが、覚えるに、なんのとりえもない番号・・・平凡すぎて覚えづらい。でも、覚えないといけないのですが・・・
朝からコーヒーを飲んで、そのあと、抹茶くず湯を飲んでくつろいでいます。
昨日早朝、もう、どうしようもなくて、指導教官にメールで論文を送付したのですが、帰宅したところ、返信メールが到着していました。「今頃になって、慌ててできそこないの仕掛品を送ってきやがって!」とお怒りメールだったらどうしようと、恐る恐る開封してみると・・・「了解です。来週始めには返事します」といった主旨の返信でした。
思わず指導教官の先生が「阿弥陀仏」に思えてしまいました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・感謝の気持ちでいっぱいです。無論、来週始めに「やっぱりこんなんじゃダメじゃん!!」ってお叱りのメールをいただく可能性も高いのですが、ふと、今回の事象を仏教的に解釈してみたいな~と思い至ったわけで・・・
例えば、私は親鸞聖人がひらかれた真宗大谷派です。浄土真宗は大きく「真宗十派」があり、本願寺派(西本願寺)・大谷派(東本願寺)・高田派(専修寺)・佛光寺派(佛光寺)・興正派(興正寺)・木辺派(錦織寺)・出雲路派(毫摂寺)・誠照寺派(誠照寺)・三門徒派(専照寺)・山元派(證誠寺)にわかれます。本願寺派だけが「浄土真宗本願寺派」と名乗り、あとの9派は「真宗大谷派」「真宗高田派」のように、頭に「真宗」をつけて名乗ります。
そして、我々浄土真宗の門徒は「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えます。日蓮宗の方は「南無妙法蓮華経」ですね。「南無八幡大菩薩」や「南無盧舎那仏」「南無大師遍照金剛」などもあります。「南無」とは「帰依する」という意味ですね。一般の人々は「なむあみだつぶ」と言いますが、「なもあみだぶ」と言ったり、早口だと「なまんだぶ」となったりします。
さて、この「南無阿弥陀仏」、我々真宗門徒は「名号」と呼ぶのですが、この「名号」を念仏するのはどうしてでしょう?「阿弥陀仏に帰依します」という「南無阿弥陀仏」を唱えるのは、私が口で唱えているものの、これは、阿弥陀仏のはたらきを受けて、私の口から念仏が発せられたという仕組みと考えられるのです。
2年間学習してきて、ひょっとしたら、ここが一番大事なところだったのかもしれません。阿弥陀仏は例外なく、衆生を救済するために、無限の光を持って、全世界を照らし、呼びかけておられるのです。そして、その呼びかけに応えることが「南無阿弥陀仏」と、その「名号」を唱えることなのです。「阿弥陀さまにおまかせいたします」というのが「南無阿弥陀仏」。阿弥陀仏の呼びかけに気づき、信心を起こしたものを、例外なく救済してくださるという尊い教えなのです。
『今、浄土を考える』のpp64-65には佐藤さんと田中先生の問答を通して、次のように書かれています。
田中:「たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんが母親を慕って頼りにし、やがて<お母さん>と呼ぶようになりますね。赤ちゃんがお母さんと呼ぶようになるのは、母親が慈愛の心をこめて何度も何度も<お母さんですよ>と、名乗り呼び続けていたからに違いないでしょう」
佐藤:「なるほど、そうですね」
田中:「それと同じように《まかせよ、阿弥陀に》という呼びかけがあるからこそ、《阿弥陀におまかせする》ということがおこるのです」
佐藤:「ああっ。そうか。私が阿弥陀如来に帰依するといっても、それは阿弥陀如来からの呼びかけによっておこったということなのですね」
田中:「そうです。そうです。南無阿弥陀仏と称えているのは、実は阿弥陀如来のはたらきが私に届いているすがただということです。ですから南無阿弥陀仏は、仏のはたらきそのもの、さらにいえば仏そのものと思っていただいても結構です」
この仕組みというか、スキームというか、メカニズムというか、フローと言うか・・・これを心底理解するために、2年間学び続けてきたと言っても過言ではないでしょう。本当、阿弥陀さまは奥が深いんだから・・・
で、1649字も前置きをしてしまったのですが・・・今回の論文仮バージョンの提出。指導教官の先生は、きっと、「フラ夫君、早く提出してよ」と心の中で呼びかけていてくださったのではないでしょうか。そして、ようやく私はその「呼びかけ」に気づき、なんとか論文仮バージョンを提出することができました。衆生が「南無阿弥陀仏」と唱えない限りと救ってもらえないのと同様、私も「南無指導教官先生」と成果物を送らない限り救ってもらえない・・・ここまでくると「絶対他力」の他力本願となります。先生を信じ切ってお救いいただくほかないのです。
最後に、浄土真宗には『嘆異抄』があり、そこには「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という一文があります。「善論文なおもって合格となる、いわんや悪論文をや」という風にならなかな・・・
2000字を超えてしまいましたが、とりあえず、来週の始めまでは「幸福感」に浸っていたいと思います。
11月25日水曜日の朝刊46面に「司法試験合格「1500人」目標を受け」という見出しとともに、法科大学院の定員減が記載されていた。これは中教審の改革間だそうで、法科大学院の統廃合が促進されるとも書かれている。
そもそも、司法試験の合格者を年間「3千人程度」から「1500人以上」に減らす政府目標から逆算した定員らしい。全法科大学院の修了者について7割合格を目指している。そうすると、必要な入学定員は2350人と試算されるそうだが、大学院修了後に司法試験を受験しない人も考慮し、約2500人が適正規模だと判断したとのこと。
入学者が複数年に渡り10人を下回った場合、補助金の基礎額を下げるとのはなしも。
2015年度、法科大学院の入学定員は3169人にまで減少し、入学者は2201人にとどまったそうだ。これなら2500人に定員減しても影響は小さいのかもしれない。それ以上にショッキングなことは、74校あった法科大学院が、これまでに29校募集停止を公表し、45校まで減少していること。約1/3がダメだったということだ。今後もダメな法科大学院が出てくると思うが、これは、本当に大学院だけの責任なのであろうか?
そもそも、業務の独占権のある国家資格の試験というものは憲法で定める「職業選択の自由」を著しく阻害するもので、本来であれば、実施すべきではない。しかし、国民の安全や財産、その他の権利を守るため、最低限度の範囲において、一定の水準を満たしたものだけに業務をさせているのである。
原則、「高額な学費を投下して」法科大学院に行かなければ司法試験を受験することができないというのも、そもそも論からすると、「金持ち以外は司法試験受験不可」ということで、能力があってもお金がない人は職業選択できなくなってしまう。無論、最近は「抜け道」もあるのだが、その特急券を得るためには、並の努力では通用しない。結局、受験予備校に行くのなら「お金持ち」じゃないと司法試験合格は困難となる。
そういう背景において、いったい、司法試験は何を目指しているのだろうか?合格者や制度ばかり変わって、なんら、国民の福祉に対する前向きな改革の話は聞こえてこない・・・
いっそのこと、明治時代にあったように、「東大」の法学部卒業で弁護士資格を与えるのはどうだろう?例えば「東大」と書いた部分を「法科大学院」にすればいいだけである。あるいは、全員に資格を与えるのが困難なら「甲種修了」「乙種修了」の2つに分けて、「甲種修了」だけ、無試験で司法試験合格とすればいい。だって、目標で「7割合格」にするんでしょう?なら、上位7割の人を司法試験合格にして、司法研修所に入れてから選別すればいい。本当にダメなのに、教授のゴリ押しで合格した人は、そこでふるい分けられ、結局、司法修習をクリアできなくなる。そして、そのクリアできない人数により、次の年の大学院の合格枠をアップダウンさせれば、一定の縛りにはなるはずである。
いい加減、この法科大学院および司法試験における、小手先の制度変更は勘弁してほしいと思っている。なんせ、あたら若者の、人生を左右する変更なのだから、慎重かつ極力制限をかけないように見直してほしいと願っている。