以前、よく言われたことがある。
「修士なんだから学士なんて取っても意味ないじゃん」とか「学士をいくつとっても意味ないじゃん」といった、「意味ないじゃん」という、胸をえぐるような暴言。
確かに、学士の学位記を10枚集めたからといって、博士になれるわけでもない。修士が学士を加えても博士になれるわけでもない。学士は学士であり、それ以上のものとなりえないことは当然である。
しかし、「意味がない」と言い切ってしまっていいのだろうか?
くどいほど、何度も言い続けている考え方なのだが・・・「博士になる」という目標なら、「博士号」を取得しないかぎり、それは、どれほど頑張っても、「意味のない」ことである。目標が博士なのだから、それが達成されない限り、未達なのである。
だが、目標が「博士レベルの能力開発」なら、別に「博士号」を取得しなくても、その研究が十分納得できるものであれば、目標達成であり、自分自身のスキルや能力として、何かしら蓄積されているはずなのである。
ましてや、「生涯学習」を目標とするのであれば、どのような学習であれ、それは評価されるべきものである。
されど、「生涯学習」と一言でいっても、何をすればいいかわからない人が多いのではないであろうか?無論、本を読むことも生涯学習だし、読書で培った知識やノウハウも仕事等で役立てることができれば、その人のプラスになるであろう。「本」というものに、「お金」や「時間」を投下し、仕事や今後のキャリア形成に役立てる。いわば、投資型の生涯学習といえるだろう。
せっかく投資するのであれば、目に見えた形にしておきたい・・・そうしないことには、自分の知識をターゲットとなる第三者に、ピンポイントで示せるような千載一遇のチャンスを待ち続け、それを披露しない限り、自分の能力を証明することができないから。だから、「資格(職業資格)」や「学位(教育資格)」といったものが必要となるのである。
物々交換を仲介するものとして「お金」が誕生したように、「人々交換」(ちょっと、表現がブサイクだが、労働の流動化を示すもの)を仲介するものが「資格(職業資格+教育資格)」といえるのかもしれない。戦後の日本のように、特殊な労働慣行が優先される文化が形成されてしまった場合、うまく機能しないかもしれないが、世界的にはある程度活用されているものといえる。
歴史をさかのぼると、日本でも学歴(あるいは学校歴)によって、給与が大幅に違う時代があった。講談社現代新書の『「月給百円」サラリーマン』に、三菱合資、三井物産、住友合資等々の昭和2年段階での初任給が掲載されている。pp.146-147に掲載されている、三菱合資の例では、
帝大工学部 90円
帝大法学部 80円
商大(現一橋大学) 80円
商大専門部と早慶、神戸高商 各75円
地方高等商業と中央、法政、明治 各65~70円
私大専門部 50円~60円
中学程度 35円
とされている。現代の新卒採用時のような「大卒一律××円」といった初任給ではなかった。ゆえに、過去の日本においても、今以上に、「資格社会」あるいは「学歴社会」とされた時代があったのである。
このような歴史的背景がある以上、やはり、投資型の生涯学習においては、学習した分だけ、評価されるような「客観的証明」があってしかるべきといえよう。自分が何を学び、何を修得し、それが社会的にどの程度のものなのかという公的かつ客観的な評価の証明。それが、学位でありライセンスなのである。それを目標にして生涯学習に取り組む場合、学校という教育機関がプログラムを提供しサポートをしてくれる。それに従っていれば、悩まなくても、ある一定レベルまで己の能力を育成してくれる。無論、タダではないのだが・・・
ただ、学位が複数に増えていくと、その客観的証明力より、系統だった学習プログラムの方に魅力を感じるようになる。学位の枚数を重視するのではなく、いくつの分野で一定の学習履歴を残せるのか。それは、いくつの分野に軸足を持つことができるかという挑戦でもなる。
自分の知らない分野に対し、一定の学習履歴を担保していく。それを拠点として、更に、学びの範囲や幅を広げていく。そのような、多角的な生涯学習を私はこよなく愛している。まあ、それが、一つの確固とした専門分野を持つに至らない負の要因でもあるのだが。
世の中に、研究者はたくさんいるのだから、私のような、八方美人的生涯学習に浸かっている人間が一人くらいいてもいいだろう。
「修士なんだから学士なんて取っても意味ないじゃん」とか「学士をいくつとっても意味ないじゃん」といった、「意味ないじゃん」という、胸をえぐるような暴言。
確かに、学士の学位記を10枚集めたからといって、博士になれるわけでもない。修士が学士を加えても博士になれるわけでもない。学士は学士であり、それ以上のものとなりえないことは当然である。
しかし、「意味がない」と言い切ってしまっていいのだろうか?
くどいほど、何度も言い続けている考え方なのだが・・・「博士になる」という目標なら、「博士号」を取得しないかぎり、それは、どれほど頑張っても、「意味のない」ことである。目標が博士なのだから、それが達成されない限り、未達なのである。
だが、目標が「博士レベルの能力開発」なら、別に「博士号」を取得しなくても、その研究が十分納得できるものであれば、目標達成であり、自分自身のスキルや能力として、何かしら蓄積されているはずなのである。
ましてや、「生涯学習」を目標とするのであれば、どのような学習であれ、それは評価されるべきものである。
されど、「生涯学習」と一言でいっても、何をすればいいかわからない人が多いのではないであろうか?無論、本を読むことも生涯学習だし、読書で培った知識やノウハウも仕事等で役立てることができれば、その人のプラスになるであろう。「本」というものに、「お金」や「時間」を投下し、仕事や今後のキャリア形成に役立てる。いわば、投資型の生涯学習といえるだろう。
せっかく投資するのであれば、目に見えた形にしておきたい・・・そうしないことには、自分の知識をターゲットとなる第三者に、ピンポイントで示せるような千載一遇のチャンスを待ち続け、それを披露しない限り、自分の能力を証明することができないから。だから、「資格(職業資格)」や「学位(教育資格)」といったものが必要となるのである。
物々交換を仲介するものとして「お金」が誕生したように、「人々交換」(ちょっと、表現がブサイクだが、労働の流動化を示すもの)を仲介するものが「資格(職業資格+教育資格)」といえるのかもしれない。戦後の日本のように、特殊な労働慣行が優先される文化が形成されてしまった場合、うまく機能しないかもしれないが、世界的にはある程度活用されているものといえる。
歴史をさかのぼると、日本でも学歴(あるいは学校歴)によって、給与が大幅に違う時代があった。講談社現代新書の『「月給百円」サラリーマン』に、三菱合資、三井物産、住友合資等々の昭和2年段階での初任給が掲載されている。pp.146-147に掲載されている、三菱合資の例では、
帝大工学部 90円
帝大法学部 80円
商大(現一橋大学) 80円
商大専門部と早慶、神戸高商 各75円
地方高等商業と中央、法政、明治 各65~70円
私大専門部 50円~60円
中学程度 35円
とされている。現代の新卒採用時のような「大卒一律××円」といった初任給ではなかった。ゆえに、過去の日本においても、今以上に、「資格社会」あるいは「学歴社会」とされた時代があったのである。
このような歴史的背景がある以上、やはり、投資型の生涯学習においては、学習した分だけ、評価されるような「客観的証明」があってしかるべきといえよう。自分が何を学び、何を修得し、それが社会的にどの程度のものなのかという公的かつ客観的な評価の証明。それが、学位でありライセンスなのである。それを目標にして生涯学習に取り組む場合、学校という教育機関がプログラムを提供しサポートをしてくれる。それに従っていれば、悩まなくても、ある一定レベルまで己の能力を育成してくれる。無論、タダではないのだが・・・
ただ、学位が複数に増えていくと、その客観的証明力より、系統だった学習プログラムの方に魅力を感じるようになる。学位の枚数を重視するのではなく、いくつの分野で一定の学習履歴を残せるのか。それは、いくつの分野に軸足を持つことができるかという挑戦でもなる。
自分の知らない分野に対し、一定の学習履歴を担保していく。それを拠点として、更に、学びの範囲や幅を広げていく。そのような、多角的な生涯学習を私はこよなく愛している。まあ、それが、一つの確固とした専門分野を持つに至らない負の要因でもあるのだが。
世の中に、研究者はたくさんいるのだから、私のような、八方美人的生涯学習に浸かっている人間が一人くらいいてもいいだろう。