南無煩悩大菩薩

今日是好日也

時と光

2024-06-04 | つぶやき

「時が自らについて考えている、それが光だ」。

そう書いたのは詩人オクタビオ・パスである。自省する時間こそが光となって出現する。深く示唆的な霊感である。

時間は見えない。刻々と時を刻む経過的時間を可視化するためにつくられた装置が時計である。時計の時間は流れすぎてゆく。しかし、私たちが意識する時間とは生の営みのなかでただ直線的に経過するものだけではない。

淡い朝の光が強烈な昼の太陽光線となり、やがて黄昏の光となって暮れてゆく。

光の微細な変容の中で時間が生起し、時間が自らについて思索しているかのように様々な濃淡と色彩を持った光が明滅する。

ー今福龍太「原風景への誘い」より

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いつの世も

2024-03-05 | つぶやき

少年読者諸君に一言する。日本の政治は立憲政治である、立憲政治というのは憲法によって政治の運用は人民の手をもって行なうのである。

人民はそのために自分の信ずる人を代議士に選挙する、県においては県会議員、市においては市会議員、町村においては町村会議員。

これらの代議員が国政、県政、市政、町政を決議するので、その主義を共にする者は集まって一団となる、それを政党という。

政党は国家の利益を増進するための機関である、しかるにの政党と乙の政党とはその主義をにするために仲が悪い、仲が悪くとも国家のためなら争闘も止むを得ざるところであるが、なかには国家の利益よりも政党の利益ばかりを主とする者がある。

人民に税金を課して自分達の政党の運動費とする者もある。人間に悪人と善人とあるごとく、政党にも悪党と善党とある、そうして善党はきわめてまれであって、悪党が非常に多い。これが日本の今日の政界である。

-引用/佐藤紅緑「ああ玉杯に花うけて」1928年発行より

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2024-02-16 | なんとなく落書。

(カフクハアザナエルナワノゴトシ)

フランツ・カフカは真実の道についての考察でこんな風に述べている。

「真実の道は一本の縄。別に高く張られているわけではなく、地上からほんの少しの高さに張られている一本の縄を超えてゆくのだ。それは人々がその上を歩いていくためよりも、人々がそれに躓くためにつくられているように思われる」。

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あ、うん。

2023-12-23 | つぶやき

(picture/sourse)

ヒトの便のサンプル。巨大な細菌を含む腸内微生物叢があることがわかる。

 

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千里眼と順風耳

2022-11-22 | つぶやき

(picture/source)

千里眼という神と順風耳という神を昔の唐の船はみな祀っていたらしい。

西遊記によると、天上の上聖玉帝、千里眼、順風耳はその臣で、千里眼はよく下界の事を見、順風耳はよく下界の事を聞くということのようです。

愁賛鼻とか清濁舌なんていう神も思い描いてみたくなります。

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敬意

2022-10-27 | つぶやき

(picture/source)

もし、あなたに敬意を表明された人が、あなたが敬意を抱いている物事および人物に対して、横柄な態度を取るようなことがあったとしたら、

その人のあなたへの尊重は、疑った方がいいのかもしれない。

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かりの宿

2022-10-23 | つぶやき

(photo/source)

やどかりを尊敬するところはどこかというと、

家を買うと家が自分の大きさを決める人間と違って、自分が大きくなれば家を捨てていくところにある。

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燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

2022-10-21 | つぶやき

(picture/source)

立つ鳥跡を濁さず。

とはいうものの然りながら、同じ鳥でも、足に膜のある鳥は濁していくし、膜のない鳥は跡を濁さない。そのようにできている。

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心の隙間

2022-10-19 | つぶやき

(picture/source)

ぽかりあいてしもうても誰にも埋めてはもらえしません。

なんしか自分で掘ったもんやから、人には埋め方がさっぱりわからんのです。

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人情の行方

2022-10-18 | つぶやき

(picture source/人生劇場)

昔、呉起という将軍がいた。

部下の一兵卒に腫物ができ、膿を吸い取ってやらなければ命が危ないということになった。ところがだれもこれを吸い取ってやるものがいない、それを将軍呉起は自らこれを吸い取ってやりました。

その話を聞いた兵卒の母親は大きな声をあげて泣き叫びだしました、そこにいたある人が怪しんで「お前の息子は一兵卒じゃないか、その腫物を大将軍がじきじきに吸い取ってくれたなら大いに喜んでいいのに、何を悲しんで泣くというのだ」と聞きました。

するとこの母親はこう言ったそうです。「私の亭主も兵隊に出てあの将軍の下におりましたが、やっぱり腫物ができた折に将軍自らその膿を吸い出してくれました。亭主はその為に、あの将軍のためなら命は惜しくないと、ついに討ち死にしてしまいました。私の息子も将軍からそういうお取り扱いを受けたならば、命を捨てるに決まっているから泣いているのです」。

 

人情には機微というものがある、呉起にも息子にも父にも母にもみんなにある。が、その出所と落としどころとその先を自覚する者はたぶん無い、もし自覚していたならばそれは、人情とは別物だろうと思える。

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津行ったー

2022-10-18 | つぶやき

つぶやき、とは、知っている人はもちろんだろうが、知らない人はもっとなんもわからん、そういうものだろうと思います。

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Reigning Queens

2022-09-19 | 意匠芸術美術音楽

(picture/Andy Warhol)

互いを攻撃せず、異なる視点を尊重すること。

一緒に共通点を見つけ、全体像を見失わないこと。

私にとって色あせない手法であり、みなさんにもおすすめします。

ーエリザベス2世

例えば2011年、女王はアイルランドを訪問した。多くの血が流された同国の独立から90年。英国君主として初めて、独立後のアイルランドを訪れた。32年前には女王の夫の叔父がアイルランド共和軍(IRA)に暗殺されているのだが、この訪問により女王は、類例のない調和の象徴となった。

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自然の道(タオ)

2022-08-31 | 古今北東西南の切抜

/篁牛人)

大道廃れて仁義あり 智慧出でて大偽あり 六親和せずして孝慈あり 国家混乱して忠臣あり

ー老子 第十八章

「大道」すなわち自然の道に一致したおこないのできる人が世間を率いていれば、特別に仁とか義とか言うことを取り立てて教える必要はない。しかし大道が廃れて、道に合わない行いをするものが大勢出てくるものだから、これではいかんというので、初めて仁というものを説いたり、義というものを説いたりして、いわゆる教えというものを必要とするようになる。そしてだんだん仁とか義を説くことが主になって、本来の自然の道に合うか合わないかということを深く考えないようになってしまう。

それから人間が智慧を磨くということは、悪いことではないけれど、しかし智慧のみを主として世の中を治める方法を工夫することのみに力を用いるようになると、法律や制度が多く出来たり整ったりして、表面は良いようだけれど、法律ができればその法律を搔い潜ることを考える者が多くなってくる。制度が整えば、その中において自分の「私」を営む者が多く出来る。「大偽」というのは、表面は正しい人間のように装っていて実際は偽りを構えて自分の私利を計る者のことで、そういう者がだんだん増えてくる。盗賊とか人殺しとかいうものは大変な罪のようであるけれどもむしろその害は少ない。国家のためであるとか社会のためであるとかいうことを装って、自分の「私」を営むほうがどれほど罪が大きいかわからない。その大偽が世の中に行われてくる弊害を大いに戒めなければならない。

「六親」というのは親子兄弟夫婦で、すなわち一族のことを云うのだが、とかく世の中に一家一族の睦まじくない者が多くなってくるから、あの家の子は誠に親孝行だとか、この家の親はたいへん子供をかわいがって情愛が深いとかいうように、孝とか慈とかいうことが目立ってきて、それが世の中に褒め称えられるようになる。実は親孝行の子も情愛の深い親も目立たない時代の方が本当は良いので、皆が仲良くしていれば別にそういうものは目立たない。世の中で手柄を立てた人を褒めるけれど本当は手柄を立てないで済む方が良い。例えば、警察が行き届いていて、泥棒をすぐに捕えると褒められる。しかし世間が平和で泥棒の出ないようであればそれが結構である。したがって手柄を立てる者もなく、別に褒められる者も無くなってしまうが、目立って手柄を立てないで済むような時代が我々の理想でなくてはならない。

国家の事もみなそのとおりである。国家が混乱して君主の地位も動揺するというようになると、そこで忠義を尽くす臣下というものが現れる。国がよく治まっていれば、特別に忠義を尽くすという者はなくても、皆がその地位に安んじて自然にすべての事が運んでいくのである。これが理想の世の中でなければならない。

世の中では忠とか孝とか、仁とか義とかいうものをしきりに貴んでいるけれでも、そういう忠孝仁義の土台となるものを考えなければならない。それは自然の道に基づいて、人々が皆「私」を捨てるということである。その本となり末となるものの関係を明らかにしないで、いたずらに末を追っていれば、いつまでたっても人々は本当に平和な生活を楽しむことはできない。これはいかにももっともなことで、いつの時代でも最も適切な教訓と言えるであろう。

ー参照/小林一郎 「経書大講」より

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同生同死

2022-08-18 | 古今北東西南の切抜

煩悩を除いてしまって、外に真如は無い。迷いを取ってしまって、外に悟りはない。

夜を除いてしまったら、昼というものも無くなる。暑いというものを取ってしまって寒いということは無い。汚いものを取ってしまえば、綺麗なものは無い。綺麗というものがあるから、汚いというものがわかる。夜というものがあるから昼がわかる。長いというものがあるから短いということがわかる。硬いというものがあるから柔らかいというものがわかる。

人々は真如といえばこれを望み、煩悩といえばこれを嫌う。これは普通の考えであって、やはり真如は良いもので、煩悩は悪いものであるに相違ない。しかしわが禅の上においては煩悩そのままが真如であるというのである。

煩悩を除かずして、ただちに真如の悟りを手に入れるようにしなければならぬ。煩悩は悪いものであるから、これを除いて望むところの真如を手に入れようとしても、それは無駄骨になってしまう。煩悩を除こうとするのは、あたかも病の上にまた病を増すに等しいものである。

時々わしの寺へ訪ねてきて、「自分は精神修養をしたいと思います。それには座禅が一番良いと思ってやっておりますが、どうも平生妄想が多く、次から次へと妄分別ばかり出て、どうしてもとることができません。これを除かないうちは、悟ることができませんか?」と言ってくるものがある。

それでわしは、「それならお前ひとつ歩いてみたらどうじゃ、歩いたら影ができるに相違ない。その影をひっとらえようと思って、いかに走っても、お前が走れば走るほど、影も従って走る。お前が払えば払うほど、影が大騒ぎを演ずる。煩悩が嫌じゃと思ったらそっとしておくがよい、そうすると影も動かぬ。煩悩を取ろう、妄想を払おうと思うなら、まず煩悩と一所に煩悩の内に入り、妄想と一所に妄想の中に入り、苦しければ苦しいものと一所になってしまいなさい。いやしくも苦しみを除こうとは思わずに、苦しみの中に徹底して這入るのでなければ、本当の安楽はできないのである。それを離れて他に取ろう、それを除いて別に持って来ようということは、労して効なき話である」と言う。

この説明を聞いて大抵の人はわかるかわからぬか知らぬが、とにかく頭を下げて帰って行くのである。

ー切抜/菅原時保「禅窓閑話」より

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神秘教の妙薬

2022-07-27 | 酔唄抄。

(picture/source)

それは酒である。

百薬の長といわれたり、般若湯といわれたり、酒中の趣人知らずなどと謳歌されたり、酒は神秘教の象徴である。

酒に宗教があり、詩があり、精神の良薬であるなどというと、この詩趣神秘を知らぬ人は不思議に思うだろう。もっともである。彼らは飲酒の本来の意義を忘れたのみならず、また解するだけの宗教心もない。

ここにひとり酒の理解者がいる。普段はいかにも戦々恐々としている、まことに温良で模範的な人物である。

ところが、一杯やると忽然として人物が違ってくる。その妙所に入るときは、本来の面目をいかんなく発揮する。洒脱自在の活人物が現れる。

今まで自分で作った縄に縛られかしこまっていた男が、ただちに無限者へと進化し、まわりもまきこまれる。

第一に自他の区別を超越する。すなわち空間的に自在となる。

それから時間に囚われなくなる。時計が5分10分1時間2時間と刻みゆくのを何とも思わない。つまりだらしなくなる、電車に間に合わなくても構わない。それで時間の制約を飛び越える。

酔っても酔っていないという、明日のことを考えない、借金を忘れる、王侯の前でも憚らない、この男はこれで完全に道徳や因習や因果をその足の下に踏みにじる。

こんな人間は自在者、無限者でなくて何であろう。昔から酒が感傷的な人に好かれ、また日々労働の圧迫に堪えた人に好かれるのももっともなことではないか。

有限から無限へのあこがれが宗教であり、芸術であるなら、酒飲みは宗教そのもの、芸術そのものである。

晩酌を少しやると薬になるなどといって飲む連中はけちな連中である。酒は有限から無限に至る道行であることを忘れて、有限の生命に肥料するなどは、信心が足りない。

しかしそれでもなにか陶然としてくるなら、自覚はないとしても有限の拘束を離れた気分になるそこに、一種の美的趣がないとはいえない。この点からみると酒はその材料の穀物と同様、人間に必要なものかもしれないので、あまり税をかけないほうが良いと思われる。

と、誰だったかは知らんけどそんなことをある酒飲みがゆうておった。

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