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それは酒である。
百薬の長といわれたり、般若湯といわれたり、酒中の趣人知らずなどと謳歌されたり、酒は神秘教の象徴である。
酒に宗教があり、詩があり、精神の良薬であるなどというと、この詩趣神秘を知らぬ人は不思議に思うだろう。もっともである。彼らは飲酒の本来の意義を忘れたのみならず、また解するだけの宗教心もない。
ここにひとり酒の理解者がいる。普段はいかにも戦々恐々としている、まことに温良で模範的な人物である。
ところが、一杯やると忽然として人物が違ってくる。その妙所に入るときは、本来の面目をいかんなく発揮する。洒脱自在の活人物が現れる。
今まで自分で作った縄に縛られかしこまっていた男が、ただちに無限者へと進化し、まわりもまきこまれる。
第一に自他の区別を超越する。すなわち空間的に自在となる。
それから時間に囚われなくなる。時計が5分10分1時間2時間と刻みゆくのを何とも思わない。つまりだらしなくなる、電車に間に合わなくても構わない。それで時間の制約を飛び越える。
酔っても酔っていないという、明日のことを考えない、借金を忘れる、王侯の前でも憚らない、この男はこれで完全に道徳や因習や因果をその足の下に踏みにじる。
こんな人間は自在者、無限者でなくて何であろう。昔から酒が感傷的な人に好かれ、また日々労働の圧迫に堪えた人に好かれるのももっともなことではないか。
有限から無限へのあこがれが宗教であり、芸術であるなら、酒飲みは宗教そのもの、芸術そのものである。
晩酌を少しやると薬になるなどといって飲む連中はけちな連中である。酒は有限から無限に至る道行であることを忘れて、有限の生命に肥料するなどは、信心が足りない。
しかしそれでもなにか陶然としてくるなら、自覚はないとしても有限の拘束を離れた気分になるそこに、一種の美的趣がないとはいえない。この点からみると酒はその材料の穀物と同様、人間に必要なものかもしれないので、あまり税をかけないほうが良いと思われる。
と、誰だったかは知らんけどそんなことをある酒飲みがゆうておった。
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