南無煩悩大菩薩

今日是好日也

詩のいくばく

2018-12-10 | 古今北東西南の切抜
(picture/souece)

その手足が疲れを超えて萎えて弱り、その頭脳が生きる苦しみを稲妻のように閃かし、その眼は美しくもない世の恥辱の姿を涙で見つめ、その耳は払いのけたい偽りの怒りを鋭く聞く。

けれど胸は波立ちながらもほっかりとぬくもりを持つ春風のように柔らかく、傷んだ傷口の上をそっと撫でてやりたい気持ち。

その岐点に立ち、そのあたりをさまようものの吐息が詩というものかと、詩を知らない私は考える。

・・・

はるかな、はるかなかつての日に、何を求め、何を希い、何を夢み、何に血を沸らせてこの地を踏んだか、その遠い過去は記憶のぼけた雲煙の彼方に跡形なくきれいに消えてしまった。

・・・

しずかであることをねがうのは、細胞の遅鈍さとはいえない老年の心の一つの成長といえはしないか。

折角ゆらめき出した心の中の小さい灯だけは消さないように、これからもゆっくりと注意しながら、歩きつづけた昨日までの道を別に前方なんぞ気にせずに、おかしな姿でもいい。よろけた足どりでもかまわない。

まるで自由な野分の風のように、胸だけは悠々としておびえずに歩けるところまで歩いてゆきたい。

(切抜/吉野せい「洟をたらした神」より)

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