(photo/Henri Cartier Bresson)
普通の知とは非人格的対象の知識である。たとえ対象が人格的であっても、之を非人格的として見た時の知識である。
之に反し、愛とは人格的対象の知識である。たとえ対象が非人格的であっても之を人格的として見た時の知識である。
而して古来幾多の学者哲人のいったように、宇宙実在の本体は人格的のものであるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。
物の最も深き知識である。
分析推論の知識はものの表面的知識であって実在そのものを捕捉することはできぬ。
我々は唯愛に由りてのみ之に達することが出来る。
愛は知の極点である。-西田幾太郎「善の研究」より-
普通の知とは非人格的対象の知識である。たとえ対象が人格的であっても、之を非人格的として見た時の知識である。
之に反し、愛とは人格的対象の知識である。たとえ対象が非人格的であっても之を人格的として見た時の知識である。
而して古来幾多の学者哲人のいったように、宇宙実在の本体は人格的のものであるとすると、愛は実在の本体を捕捉する力である。
物の最も深き知識である。
分析推論の知識はものの表面的知識であって実在そのものを捕捉することはできぬ。
我々は唯愛に由りてのみ之に達することが出来る。
愛は知の極点である。-西田幾太郎「善の研究」より-