湾を遊覧する観光船が、その航跡を雄大な波形で描いている。
乗船している当事者にこの波形はおぼつかないだろう。
音が聞こえるのは、音の波長が描く振動数に由来するが、可聴範囲は限られている。
物が見えるのは、紫外線から赤外線の枠内の可視光線の波長の相互干渉の結果を捕らえるからである。
音は、音源から発せられたものであり、色は光とその物体との共同作業であるから、光はあっても物がなければ、何も見えない。その逆も真である。
物そのものが自ら、波形を送れるとすれば、視覚を曲げて塀の向うを見ること、つまり透視することも理論的には可能になるだろう。
覗き込まなくても、スカートの中のパンツを見ることが出来るということだ。
それはよろしくない。
みたくないものまで見えるのは、考えものである。
受容器官があって、受け取った波長を信号化して、意味のある情報として伝達する場合に、それはほとんど、波形という信号を読み取るということと同義だといえる。
波はそれそのものであるが、受け取りかたは、波形の感度という受容体に依存する。
ある意味、鈍感になる。ということは、所謂可視可聴可能な波形への受容体としての機能幅が衰えたきたということでもあるだろう。
若しくはこの遊覧船の乗船者のように、近くにいすぎるということもあるかもしれないし、見えない場所にいるからかもしれないし、聞こえない範疇だからかもしれない。
それ自体はいいことともわるいことともいえないが、可能な範囲で遠ざかってみることで、それそのものの広がりを経験する事は、少なくとも航海の仕方、航跡を発見する機会とはなる。
船の跡は先ではなく、後ろにたちあがる波形で理解できる。時間経過による変節と密接に結びつき、それを形として知らせている。
こういうものを、こうかい先にたたず。というのだろうか。