満足や嫌悪などの色々の感じは、それを引き起こす外因というよりも、むしろそれを快不快と感じる各人に固有の感情性に基づくものである。
ある人々の喜びを感じるものに、他の人々が胸をむかつかせたり、恋愛の情熱がしばしば一般人にとって謎であったり、又あるひとが激しい反感を持つことに、他の人は全然無関心であったりするのはこの故である。
人というものは、愛欲を満足させる限りにおいてのみ、自ら幸福を感ずるものであるから、別段の才能を必要としないで、大きな満足を授けてくれるこの感情性というものは、確かに教訓にもなれば、面白くもある発見の資料を豊富に蔵している。」
-イマヌエル・カント-
カントさんはこうおっしゃっている。そして、次のように、
「下品な猥談や、粗野な諧謔で激しい喜悦を感じる肥え太りの人物、自分が楽しいという理由だけで、人を翻弄愚弄する気楽人、利得を得ることが利口でそれ以外の満足をくだらないと思う商人。異性を肉欲の対象となる限りにおいて愛する男、いずれにしても自分流儀の感情性を持っている。ただし私が注意を向けるのは、このような全く頭のない者にでも生起する低級な感情性ではない。」
小生ではなく、カントさんがそうおっしゃっているのであります。
そうまえおきしたのち、崇高と美の感情性の存在を説く。
「もっと高尚な種類の感情性があるのである。かく高尚な種類と呼ばれる所以は、飽くことなく、疲れることなく、永く享楽しつづけることができ、道義的昂奮に役立ち、魂の反応を呼び、才能と悟性の卓越を引き起こすものである。」
と。
そしてこう続ける。
「高尚な感情性というのは、主として、崇高の感情性と美の感情性の二種類である。聖なる森林の高い楢樹と寂寥たる影は崇高である。花壇、綺麗に刈り込んだ樹木は美である。夜は崇高で、昼は美である。崇高は揺るがし、美は唆(そそのか)す。崇高なるものは常に大きくなくてはならぬ、美なるものは小さくてよい。崇高なるものは単純でなければならぬ、美なるものは磨かれ、飾られてもいい。」
いやはや。勉強になりました。さすが哲人カントさん。