随分、ご無沙汰していました。
父が6月7日に間質性肺炎にて永眠いたしました。
12日の土曜日に初七日を終え、
ようやく少し一息つけています。
6月4日の夜の11時半頃。
呼吸状態が悪化したと病院から連絡が入りました。
いつもなら寝ている家族もいるのに、
私もレンドルミンを飲んでから1時間ぐらい経っていたというのに
何故か全員起きていてすぐに病院に駆けつけました。
病院に到着すると酸素を最大の15にしても
P02が70ぐらいしかなく、
(80で全力疾走している状態に近い)
ゼイゼイと苦しそうに息をしながら、
「苦しい、苦しい、どうにかしてくれ。」
とガリガリにやせ細った体で父が叫んでました。
見ているだけでも辛くて可哀想で
こんな苦しいならもう楽にさせてあげたいと思いましたが
翌日は脱水状態に陥ったようで、意識が遠のき
最後はゆっくり逝ってくれたのが救いでした。
亡くなる前日の昼も、少しだけ好物の水羊羹を食べ
最後にお嫁さんと二人で相談して作ったグリーンピースのポタージュを
一口だけとはいえ飲んでくれたので、
最後に手作りのものを食べさせられて良かったなと思っています。
父が急変したのが金曜日だったため、弟が翌日帰省し
土曜、日曜とお嫁さんと一緒に病院に泊まってくれました。
そのおかげで母と私の体力もなんとか持ったし
弟夫婦がよく父の様子を見ていてくれたおかげで
家族全員臨終にも間に合いました。
弟は金曜日から6日間でトータル10時間ぐらいしか寝ていないのでは?
というぐらいのハードさ。
我が弟ながら本当によくやってくれたし
お嫁さんもすごく助けてくれて
父のお葬式のおかげで家族の団結を深めることが出来ました。
その一方で。
父の病院は土曜日の昼過ぎに主治医が回診に来たのを最後に
心停止の10分後まで40時間近く誰も医者は現れず
心停止になっているのに点滴は入ったまま、心電図は着いたまま。
心停止の10分後にようやく当直医が現れて死亡確認、
主治医に至っては心停止の1時間後にようやく現れるという有様でした。
前日、病院に泊まっていた弟が
熱が40度になっているとか
体の末端が冷たくなっているとか
モニターが計測不能になっているとか
色々看護師に伝えていたのに
看護師が医者に連絡を取っていなかったようです。
なんでこの病院にしてしまったのだろうと最後まで思ったけれど
亡くなった時はやはり頭が回らず、
医者が来なかった件について問いただすことも出来ませんでした。
亡くなったことについては致し方ないことだと理解出来ていますが
臨終の際の病院の対応については未だに納得していません。
結局、これといった治療法はなかったのだから
私のかかっている病院で消化器の専門医に診て貰ったほうが
納得して最期を迎えられたような気さえしています。
弟曰く、
「公立病院はともかく国立はどこも崩壊している。」
そうで、主治医や担当看護師が云々というより
病院の姿勢が問題で
元を問いただせば医療崩壊が原因なのでしょうが・・・。
(悪いのは小泉改革?)
亡くなってからはお通夜、お葬式、初七日まで
寝る暇、食べる暇もなく、当然泣く暇もないほどの慌ただしさでした。
お葬式というのは色んな諸事に心が奪われているうちに
悲しみを忘れさせるという効果があるのかもしれません。
私の家系は家系図がいるほど親戚づきあいが濃厚で
亡くなった日から次々に人が弔問にやってきたため
(ありがたいことです)
常に食事の数の心配ばかりしていましたが、
いつも足りなくてあれれ?の連続。
食事の数以外にも、必死で神経を張り巡らせているつもりでも
あれこれと抜けてばかり。
亡くなることは事前にある程度わかっていたので
少しずつ準備していたつもりですが
いざ亡くなってみると知らなかったことばかり。
まあ。
至らぬ嫁(=母)を選んだのも
至らぬ娘を教育したのも父なのだから諦めて貰おう!

という結論になりました。
49日が終わるまでは毎夜近い親戚がお経をあげにやってきて
7日ごとにはたくさんの親戚が訪れます。
弟も昨日までワンコつきで滞在していたし
普段よりにぎやかな状態でしたが
49日が終わって静かになると寂しさを感じるようになるのかもしれません。
とりあえず。
当座の目標は早くお経を覚えること。
あとは捕獲されないようにしなくちゃね。
昨日、殿に拝謁して父のことをついでに報告したら
「そっかー。」
としみじみ言われました。
医者の常識からすると亡くなることはわかっていたんでしょうね。
殿病院はDrも看護師さんも相変わらず素晴らしくて
ここで亡くならせてあげたかったなと思ったけれど
文字通り、あとの祭り。
もっとも。
すんだことをアレコレ言っても時は戻らないので
これからは残された家族で仲良くやっていくのが
父への供養かなと思ってます。