猛暑日が続きながら今年の夏は、夏休みらしい入道雲(積乱雲)が見られないなぁ、と思っていた。やはり、真夏にはあの白い入道雲が、抜けるような空の青を背景にしてモクモクと沸き立つ光景がふさわしい。野辺には黄色い向日葵が、太陽を追尾し、真夏の物憂い日盛りの午後には縁側で、かき氷を食べたいものだ。その後、うだる暑さを忘れるように風の通る板の間でもゴロリとし、昼寝をむさぼるのだ。かたわらには、ムギワラ帽子があり、虫篭が放置されてある。軒下ではチリチリンと風鈴が涼しげな音をかなで、庭先に干された姉のブラウスの白が真夏の太陽の光を反射して、少年の目には鮮烈に見えた。
終戦の日、いやそれはアジアの人々にとって解放の日だったから、日本人にとってはいさぎよく「敗戦」を何処までも銘記すべきだと思う。戦争は自ら止めたのではなく、止めさせられたのである。無益な侵略戦争の使い捨てられたコマでしかなかった兵士たちは「慚愧」の思いの中で、残された母を姉を妹をおさない弟、そして妻の、つまりこの国の将来がどのように築かれるのか思い悩み、心配して死んで行ったのではなかったのか(「わだつみの声」などの手記に見られる「危惧」だ)。
62年目の「敗戦」の日、8月15日「敗戦記念日」にモクモクと入道雲は沸き立ち、そこにはまるで慚愧に耐えないひとの顔の気配さえ感じられた。やがて、その沸き立った入道雲は夕陽の照り返しを受けて血のように赤く染まり、やがて夕闇に溶けて行ったのであった。
いまだ、数十万の遺骨が南の島のジャングルに、洞窟に放置されたまま迎える62年目の8月15日であった。
終戦の日、いやそれはアジアの人々にとって解放の日だったから、日本人にとってはいさぎよく「敗戦」を何処までも銘記すべきだと思う。戦争は自ら止めたのではなく、止めさせられたのである。無益な侵略戦争の使い捨てられたコマでしかなかった兵士たちは「慚愧」の思いの中で、残された母を姉を妹をおさない弟、そして妻の、つまりこの国の将来がどのように築かれるのか思い悩み、心配して死んで行ったのではなかったのか(「わだつみの声」などの手記に見られる「危惧」だ)。
62年目の「敗戦」の日、8月15日「敗戦記念日」にモクモクと入道雲は沸き立ち、そこにはまるで慚愧に耐えないひとの顔の気配さえ感じられた。やがて、その沸き立った入道雲は夕陽の照り返しを受けて血のように赤く染まり、やがて夕闇に溶けて行ったのであった。
いまだ、数十万の遺骨が南の島のジャングルに、洞窟に放置されたまま迎える62年目の8月15日であった。