goo

■ Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印 

2020/11/26・2020/09/08 UP
未参拝の寺社を参拝してきましたので追記リニューアルします。

「武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印」の第1編は武田信玄公です。
信玄公ゆかりの寺社は検索するとたくさん出てきます。
なので数回にわけてまとめてみます。

※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社があります。参拝および御朱印拝受は、各々のご判断にてお願いします。

武田信玄公は、甲斐国守護武田家第18代武田信虎公の嫡男で、甲斐(州)武田家第19代の当主です。
戦国時代最強の武将とも目され、越後国の上杉謙信公(長尾景虎)との川中島の戦いはつとに知られています。

本国甲斐に加え、信濃、駿河、西上野、遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領し、西上を企図されたもののその途上で病没されました。大正四年、贈従三位。
諱は晴信、通称は太郎。「信玄」は出家後の法名で、正式には「徳栄軒信玄」と伝わります。

甲斐武田氏は、清和源氏(→武田氏系図)義光流、代々甲斐国守護をつとめた名族で、発祥の地は北巨勢郡武田村とされています。(常陸国説もあり)

■ 武田八幡宮





公式Web
韮崎市神山町北宮地1185
御祭神:誉田別命、息長足姫命、足仲津彦命、武田武大神
旧社格:県社
元別当:法善護国寺(南アルプス市加賀美)
授与所:参道左手社務所(原則書置)
朱印揮毫:武田八幡宮 書置(筆書)

この地には武田八幡宮が鎮座します。旧社格は県社と格式の高い神社です。
社伝には「弘仁十三年およそ千二百年前の八二二年嵯峨天皇の勅命により武田王の祠廟を遷座し同時に九州宇佐宮を合祀し創建された古社」とあり、甲斐武田家の初代当主、武田信義公以降は甲斐武田家の氏神として代々尊崇を受けました。
信虎公、信玄公による社殿再建の記録も残されています。

また、別当寺の法善護国寺(南アルプス市加賀美)は甲斐源氏の一族、加賀美氏の館跡とされ、武田氏歴代の祈願所として信玄公の帰依も篤かったと伝わります。(→ Vol.4で後述します)

真新しい社号標には大きな武田菱。
参道正面、石垣の上に石鳥居が据えられているめずらしい社頭。石垣横の階段を昇っての参拝となります。

県指定文化財の鳥居は高さ2.48メートルとさほど高さはない石造台輪鳥居ですが、転び(傾斜)をもつ太い柱は胴張り(中央部のふくらみ)もあって、特異な存在感を放っています。

踊り場の神楽殿を回り込み、もうひと昇りすると拝殿です。
そのおくの本殿は天文十年(1541年)、武田家当主となった信玄公が再建されたもの。
三間流造檜皮葺の風格あるつくりで、国の重要文化財に指定されています。
南側の若宮八幡神社の神殿は県文化財に指定されています。

御朱印は参道登り口向かって左手の社務所に書置が用意されていますが、用意分が捌けていることもあり、拝受はタイミング次第かもしれません。

■ 為朝神社


(一社)韮崎市観光協会Web
韮崎市神山町北宮地
御祭神:源為朝公
※御朱印は授与されていないとみられます。

武田八幡の本殿向かって左手の山道を数分辿ると(熊除けフェンスの脇を進みます。けっこう恐い(笑))、左手(武田八幡からみると南側)に為朝神社が鎮座しています。
剛勇無双を謳われた鎮西八郎源為朝公を祀った神社で、八幡太郎義家公の流れの為朝公を祀るお社が、新羅三郎義光公流の甲斐源氏武田氏発祥の地に祀られているのは、なんとなく不思議な感じもします。

韮崎市設置の現地案内板から抜粋引用してみます。
「為朝神社は、鎮西八郎源為朝を祀った神社で、元暦元年(1185年)に武田太郎信義が社殿を建立し、為朝の画像と大長刀を納め神霊を祀った。文化十三年(1816年)源氏の直系深沢文兵衛源直房等が、その衰退を憂い、昔日の面影を再興したものである。古来、疱瘡除けの神として四方民の信仰厚く(以下略)」
これだけでは、信義公がこの地に為朝公をお祀りした理由がよくわかりません。

Web検索してみると、韮崎市観光協会の資料に「源為朝は保元元年(1156年)に伊豆大島に島流しをされましたが、その後に鬼二匹を従え武田信義のもとに身を寄せ『武田為朝』を名乗ったという伝説があります。」とありました。

二匹の鬼さんについてはさらにもっと詳しい逸話もみつかりましたが(→https://design-archive.pref.yamanashi.jp/oldtale/10487.html)、利用規定がうるさそうなので引用もリンクもやめときます。(それにしても公的なコンテンツの利用って、どうしてこんなに煩雑なんだろう。しかも書いてある意味よくわかんないし・・・。これじゃふつうの人は面倒くさくて利用しないと思う。)

また、こちらの資料には、「『裏見寒話』では、武田八幡宮の南に『鍋山八幡』の存在を記している。『裏見寒話』では『鍋山八幡』を源為朝伝説に付会した説を取り、これは白山神社・為朝神社に比定される可能性が考えられている。」と記されています。(『裏見寒話』は、甲府勤番士・野田市左衛門成方が著したとされる甲斐国見聞記)

『甲斐国志』によると、武田八幡の南側にあった白山城は、武田信義公が居館武田館の要害として山手に築城し、『寛政重修諸家譜』によれば、「白山城」は青木氏(のちに山寺氏)が領有し、八代信種が「鍋山砦」を守備したとあり、位置関係から「白山城」=「鍋山砦」とする説があります。
また、白山城の名は、山中に鎮座する白山権現に由来するとされています。
白山城背後の尾根には烽火(狼煙)台がふたつあり、信玄公の狼煙台探索の関係で訪れる人もいそうです。

青木氏は武川衆、八代信種は浅利信種をさすと思われます。
上記の為朝神社再興の深沢氏ですが、Wikipediaによると三流(諏訪氏族、清和源氏佐竹氏族、清和源氏秋山氏族)あるとされ、「源氏の直系」および位置関係から清和源氏秋山氏族が考えられます。
しかしこの流れの深沢氏の本拠は峡東で、深沢氏の城館とされた深沢城(館)は御殿場市にありました。
八代信種にしても本拠は八代郡(峡東)で、どうしてこの地に係わりがあるのかは不明です。(武川郷は武田郷のすぐ北なので、武川衆の青木氏による守護は自然です。)

片側に千鳥破風の向拝を配した均整のとれた拝殿。蟇股の龍の彫刻も勢いがあります。
向拝のある向かって左が拝殿、右の社殿には異様に迫力のある為朝公像が鎮座しています。
武田神社とはやや異なる空気が流れ、一足伸ばして参拝するのもよろしいかと。(ただし熊に注意。)

---------------------------------------------------
甲斐武田氏の流れはいくつかあり、複数の本拠地が伝わりますが、嫡流とされる第5代(7代、2代とも)当主、武田信光公は甲斐国唯一の御厨である石禾御厨(いさわのみくりや)に拠られたとされます。

当地(石和郷)にはもともと景行天皇の弟君 稚城瓊入彦命が行宮を建てられ、命に随行してこの地を治めた和邇臣氏が一族の始祖、天足彦国押人命と稚城瓊入彦命を一族の氏神として合祀したお社がありました。
信光公は鎌倉の鶴岡八幡宮をこのお社に勧請合祀され「国衙八幡宮」(現在の石和八幡宮)と称し、代々武田家の氏神として崇敬されました。

■ 石和八幡神社(石和八幡宮、国衙八幡宮)



山梨県神社庁資料
笛吹市石和町市部1094
御祭神:応神天皇、比売大神、神功皇后、天足彦国押人命、稚城瓊入彦命
旧社格:村社
授与所:境内社務所
朱印揮毫:石和八幡宮 直書(筆書)

山梨県神社庁の資料には、「建久三年(1192年)、石和五郎信光(武田信光)が鎌倉幕府創建における功績により甲斐國河東半國の守護職となり、石和に政庁として居館を構へた際、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請合祀し甲斐源氏の氏神として国衙八幡宮と改め、後に石和八幡宮と称した。」「以後武田氏を宗家とする甲斐源氏一門の崇敬厚く、正治二年(1200年)より永正十六年(1519年)に武田信虎が甲府躑躅ヶ崎に居館を移すまでの約三二〇年間、弓馬に秀で将軍や執権北条氏の指南役を務めた武田信光の武技に因み甲斐源氏一門の射法相伝の儀式は全て当社にて行はれたと伝へられ、現在例大祭に合はせて流鏑馬神事が奉納されてゐる。」とあります。

■ 建久三年(1192年)、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請合祀した折、将軍源頼朝公より当宮に贈られたと伝わる一首(境内掲示)
- うつしては 同じ宮居の神垣に 汲みてあふかむ 美たらしの水 -

石和市街のほぼ中心にあり、温泉街からも近く駅からも歩ける距離です。
石和の日帰りできる温泉はかなり制覇しており、再三訪れているのですがこちらは初めての参拝となります。

国道411号に面した社頭。石造参道橋に朱塗りの立派な両部鳥居。鳥居扁額の「八幡宮」の「八」の字は八幡神の神使である鳩がかたちどられています。
そのおくに二つめの参道橋と随神門。随神門は現存する唯一の往年の建築物で、切妻鉄板葺三間一戸で八脚単層、左右に随身像を安置しています。

社殿は朱塗りの真新しいもの。本殿、幣殿、拝殿ともに平成18年に不慮の火災により焼失、平成21年に再建されました。

御朱印は拝殿向かって左手の社務所にて拝受できますが、一度お参りしたときはご不在で、二度目の参拝で拝受できました。事前TEL確認がベターかもしれません。

■ (甲斐國総社/宮前)八幡神社


山梨県神社庁資料
甲府市宮前町6147
御祭神:誉田別命、息長帯姫命、姫大神
旧社格:県社・(甲斐國総社)
授与所:愛宕神社社務所(甲府市愛宕町134)
朱印揮毫:八幡神社 直書(筆書)
※御朱印は愛宕神社(甲府市愛宕町134)にて拝受できます。

永正十六年(1519年)、信虎公が古府中(甲府)に館を移された際、氏神も隣地(甲府市峯本)に遷座され、信玄公の治世に甲斐国内の惣社となりました。
(山梨県神社庁資料には「府中八幡として永禄三年神家五ヶ条の条目を賜はり、甲斐国九筋百六十四社の神主をして二日二夜ずつ二人交替に社詰参籠して国家安泰を祈願する番帳を賜る。」とあります。)

文禄四年(1595年)、浅野長政が甲府城を築城する際、現在の宮前町(旧古府中町)へ奉遷し、以降も甲斐国総社として崇敬されたと伝わります。
明治には、県内県社の第一号に列せられています。

南向きの明るい境内。社頭に真新しい石灯籠と石造の明神鳥居。社号標には「甲斐総社 八幡神社」とあります。
狛犬一対、灯籠一対。向拝前には立派なしめ縄。武田菱つきの拝殿幕が張られることもあるようです。
左手に少し離れて朱塗りの神楽殿。
大正九年、協賛者からの寄附により社殿等を再建したものの、昭和二十年7月の甲府空襲で焼失。現在の社殿は戦後の再建です。(空襲前の写真はこちらに掲載されています。)

〔 夢見山伝説 〕
夢見山はここから離れていますが、なぜか境内に説明板がありました。信玄公ゆかりの内容なので抜粋引用します。
「武田信虎公が夢見山に登ったとき、急に眠くなり石を枕に寝入ってしまった。すると夢に1人の男が現われ『今、甲斐国主として誕生した男児は、曽我五郎の生まれかわりである』と告げた。ほどなく生まれた若君(後の信玄公)を勝千代と名付けた。
勝千代の右手は握ったままで、心配した信虎が天桂和尚に相談すると、和尚も同じ夢を見たといい、夢の男は『その子の右手には金龍の目貫一片がある。城東の池で洗えば右手は開く」と告げたという。信玄公の右手を池で洗うと手は開き中から目貫が出てきたという。」

目貫とは、刀の柄を刀身につける釘で、生まれながらにして武具を手にされていた信玄公の戦の強さを物語るものといえるかもしれません。

■ (峯本鎮座)八幡神社


山梨県神社庁資料
甲府市古府中町1529
御祭神:誉田別神、媛神(宗像三女神)、息長帯姫神(誉田別神の母)
旧社格:村社
※御朱印は授与されていないようです。

山梨県神社庁資料によると、永正十六年(1519年)信虎公が躑躅ヶ崎に館を築造された時、城中守護神として勧請し、文禄年間(1593年~1596年)の甲府城築城の際に八幡山の南麓に移転しました。
当時の峯本組の住民等が旧社地に同神を祀って村の鎮護氏神とし、「古八幡」と敬称したと伝わります。

武田神社の南西にある相川小学校の体育館そば、峰本自治会館の棟つづきのお社に鎮座しています。
峰本自治会館玄関前に「峰本古八幡神社」の社号板とその横に由来書があるものの、奥まった立地で鳥居もないので、知らない人間はまず気づかないかと思います。

由来書に創祀・来歴が詳細に記されているので一部引用してみます。
「ここ峰本自治会館奥、棟続きのお社に祀る『峰本古八幡神社』は、私たちの産土神・鎮守の神であります。この神社は、石和五郎信光が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を石和の館に勧請して国衙八幡宮と称したのが始まりといわれています。永正十六年(1519年)、武田信虎が府をつつじが崎に築く時、館の西側に移され府中八幡と称されました。(相川小学校校舎の西南部) 武田氏滅亡後、甲府城築城の際、お城鎮守の八幡宮として今の宮前町に移されたのです。当時の村人は、旧社地(古府中村峰本)に社を祀り古八幡神社と敬称し、氏神として尊崇してきました。明治十六年に相川小学校を開校するに当たり、八幡様は校舎の西側に移され、昭和三十一年には相川小学校体育館の建設が社のある『松の間』と称した敷地に決定し、八幡様は体育館南側に遷座することになりました。(以下略)」

自治会館の左脇からおくの本殿横に直接詣でる参道がつけられており、拝殿の扉をくぐって参拝します。
形からすると、めずらしい妻側からの参拝となります。

神前幕には「古八幡神社」の文字と武田菱紋、幕の上には花菱紋が刻されています。
小ぢんまりとしたお社ながら、甲斐源氏の氏神、国衙八幡宮の本流筋である八幡様の尊厳をひしひしと感じます。

■ 御崎神社



山梨県神社庁資料
甲府市美咲2-10-34
御祭神:稚産霊神、保食神、大国主神
旧社格:村社、式内社・宇波刀神社の論社として考える説あり
札所:甲府山の手七福神めぐり(恵比寿神)
授与所:拝殿右手奥の社務所(神職ご自宅)
朱印揮毫:御崎神社 直書(筆書)
朱印揮毫:恵比寿神 直書(筆書)

武田宗家の石和館の守護神、御崎神社は、甲府躑躅ヶ崎館への移転にともない躑躅ヶ崎館三の郭内に遷座され、武田家によって尊崇されたと伝わります。
御崎神社は武田家滅亡後も存続し、文禄三年(1594年)甲府城築城の際に現社地に遷座され、甲府城の守りと甲府北部一帯の氏神と定められて篤く尊崇されています。

山梨県神社庁資料によると由緒は以下のとおりです。
甲斐武田氏が石和へ居を構えた折にその守護神として居館内に祀られ、永正十六年(1520年)、信虎公が石和から躑躅が崎に居を移し築城された際に三の郭内に神殿を建立されて御遷座、武田家代々の尊崇を集めました。
天正三年(1575年)城外の西南、塔岩地内に再建、文禄三年(1594年)甲府城築城の際に現社地に御遷座、甲府城の守りと甲府北部一帯の氏神と定められています。

徳川家康公の甲斐国内巡視の際、当社に参拝の折に御崎大相撲を上覧され、これより御崎大相撲は甲斐国三相撲の一つとして有名になったとされます。

住宅地の道路が社頭で、そこから参道が延びています。
参道途中に小ぶりの鳥居、そのおくに立派な御神門。
境内は社頭からは想像もつかないほど広々としています。
参拝中、住民の方のすがたもちらほら。地域に溶け込んでいる神社のような感じがしました。

甲府山の手七福神めぐり(恵比寿神)の札所で、拝殿向かって左手に恵比寿神像が御座します。時節柄「アマビエ」の画額も。
甲府山の手七福神めぐりは、甲府市が平成31年の開府500年を記念して北部七寺社に七福神をお祀りし開創した出来たての七福神霊場で、各札所のご対応はどちらも親切です。

御朱印は拝殿向かって右手奥の社務所(神職ご自宅)にて快く授与いただけました。

---------------------------------------------------
信玄公は大永元年(1521年)11月3日、甲斐国守護・武田信虎公の嫡長子として生誕されました。
母は信虎公の正室で、西郡の有力国人大井信達の娘・大井夫人。
(信虎公、大井夫人については、別編でまとめてみたいと考えています。)
信玄公生誕の地は、躑躅ヶ崎館の詰城である要害山城、または積翠寺とされます。

■ 万松山 積翠寺



【写真 上(左)】 以前いただいた御朱印
【写真 下(右)】 令和初日の御朱印 
甲府市上積翠寺町984
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦如来
札所:甲斐百八霊場第61番
朱印尊格:信玄公誕生寺 書置(筆書)/直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第61番印判

開祖は行基とされ、南北朝時代に夢窓疎石の高弟竺峰を中興開山としたという古刹で石水寺とも。
大永元年(1521年)10月、駿河国今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に攻め入り、信虎公は甲府近郊の飯田河原の合戦で福島勢を撃退。
この時期、懐妊されていた大井夫人は要害山城に退いていたといわれ、信玄公はここで生誕されたと伝わります。
幼名を”勝千代”と伝える説もあります。

信玄公生誕時にその産湯を汲んだとされる井戸が残っており、山手には産湯天神が祀られています。
頂上の要害山城本丸には、東郷平八郎元帥の揮毫による「武田信玄公誕生之地」の碑が建っています。
本堂裏手には夢窓疎石の作と伝わる庭園が残されています。

〔積翠寺由緒書〕(山内掲出)
当寺は臨済宗妙心寺末にして行基菩薩の開創による鎌倉時代夢窓国師の弟子竺峰和尚中興開山なり 大永元年(1521年)福島兵庫乱入の節(飯田河原の合戦)信虎夫人当寺に留り期に臨み一男子を産むこれ即ち信玄なり 境内に産湯の天神産湯の井戸あり堂西に磐石あり高さ八九尺泉これに激して瀑となるよりて石水寺の寺名になり村名になると甲陽軍鑑に伝う 積翠寺庭園は夢窓国師の築庭なり 寺宝に信玄像及び天文十五年後奈良天皇の勅使として下向せられし三條四辻二卿と拙寺にて催せられし信玄公の和漢联句一連並に良純王親王より仰岩和尚に贈られし書簡等々現存す

〔武田信玄和漢連句の説明書〕(山内掲出、抜粋)
天文十五年(1546年)信玄は、後奈良天皇の勅使として甲斐におもむいた三条西大納言実澄・四辻中納言季遠と東光寺鳳栖・宝泉寺湖月らを加えた十数名を当寺に迎え和漢連句を催した。この時の一巻が当寺に寄進され、寺宝として現存している。和漢連句は、五・七・五の和句と呼ばれる和歌と漢句と呼ばれる五言の漢詩を続けた連歌の一首であり、当時流行った知的な遊びであった。信玄が京都文化を積極的に移入したことや、武芸とともに文芸にも関心があっただけでなく和歌や漢詩の優れた作者であったことを示す貴重な資料である。

--------------------------------
信玄公の歌にゆかりの逸話は『甲陽軍艦』品第九「信玄公御歌の會之事」(→国会図書館DC)にも載せられています。
永禄九年(1566年)、一連寺にて武田家の歌会が催される際、京から権大納言今出川(菊亭)晴季公が甲斐に下向されていたものの、信玄公は「われらの相伴に晴季公を招くのは作法に反し、ぶしつけであろう」と、晴季公を招くことを躊躇われました。
当日朝、晴季公が一連寺にあらわれ「御歌の会が催されるのに参上しないのは傍若無人(失礼)であろう。」と急遽歌会に加わられ、信玄公はたいそう喜ばれたといいます。
その際、晴季公に供するお膳について、わざわざ円光院まで使いを出して確認されたとあり、信玄公が細かな心配りをされる武将であった証左ともされています。

このとき信玄公が詠まれた歌は
たちならぶかひこそなけれさくら花 松に千とせの色はならはで

このときの歌会の御相伴衆、御次衆、給仕・配膳役には信廉公、勝頼公、信豊公、河窪信実、穴山信君、一条信龍、長坂長閑、土屋昌次、曽禰昌世、真田昌幸、三枝守友など、錚々たる武将の名がみられ、信玄公のみならず、武田家臣も幅広く歌に親しんでいたことがうかがわれます。

時宗の名刹、稲久山 一連寺は名族一条氏とのゆかりがふかいので、別にご紹介しますが、写真と御朱印だけ上げておきます。

--------------------------------

武田宗家は代々甲斐守護職を継いだとされますが(異説あり)、信玄公の先々代、第17代当主信縄公の治世あたりまでは、下克上の流れを受けて同族の逸見氏、油川氏、守護代の跡部氏などが台頭し勢力を張りました。
有力国人の小山田氏(都留)、大井氏(西郡)、穴山氏(南部)なども独自の勢力を保ち、甲斐国内は一枚岩とはいえない状況でした。
また、隣国の強豪、今川氏は西郡の大井氏を後押しして、度々甲斐国内に攻め入ったという記録があります。
このような混沌とした状況に終止符を打ったのが信虎公で、それを代表する戦いが゛飯田河原の合戦゛といわれます。
信虎公は一万五千の今川勢をわずか二千の武田勢で打ち破ったとされ、以降、和睦もあって今川勢の甲斐侵入を許していません。

信玄公はこの勝ち戦゛飯田河原の合戦゛のさなかに生誕され、数年後には信虎公が他国へ初めて兵を出しているので、まさに武田家に隆盛をもたらした嫡子ということができるかもしれません。

【 武田家と重宝 】
〔 御旗楯無 〕
清和源氏の名族である甲斐武田家には、代々総領に相伝された「御旗楯無」(みはたたてなし)という重宝が伝わります。

「御旗」とは甲斐源氏の祖、新羅三郎源義光公の先代、鎮守府将軍頼義公が天喜四年(1056年)後冷泉天皇から下賜された日章旗(日の丸御旗)で現在、甲州市塩山の名刹、雲峰寺に所蔵されています。
この旗は「現存する最古の日章旗(日の丸の旗)」とみられています。

「楯無」とは、義光公以来、甲斐源氏の惣領武田氏の家宝として相伝された鎧で、小桜のの紋をあしらった小札(こざね)で大袖や草摺が威されているところから「小桜韋威鎧」(こざくらかわおどしよろい)とも称され、現在、甲州市塩山の菅田天神社に所蔵され、国宝に指定されています。(→文化庁国指定文化財データベース
また、源氏八領(清和源氏に代々伝えられたという八種の鎧)のひとつとされています。

ふたつの重宝は武田家内で神格化され、御旗楯無に対して「御旗楯無も御照覧あれ」と誓い出陣したと伝わります。
信玄公ゆかりの宝物として、「諏訪神号旗」「信玄公馬印旗」「孫子の旗」もよく知られています。

〔 諏訪神号旗 〕
諏訪神号旗については、「信玄公護身旗の梵字真言に就いて/白石真道氏」という貴重な文献があるので、こちらも参照してまとめてみます。

「諏訪神号旗」は、「孫子の旗」とともに武田の軍旗として用いられたとされ、「諏訪法性旗」「諏訪明神旗」「諏訪梵字旗」と呼称される3種の旗の総称です。
いずれも信玄公の諏訪明神信仰を物語るものとされ、塩山の裂石山雲峰寺所蔵の諏訪神号旗は信玄公直筆と伝わります。

■ 諏訪法性旗(戦勝記念旗)
黒地に赤字で「南無諏方南宮法性上下大明神」と書かれています。信玄公が戦勝毎に雲峰寺の観音堂に奉納されたものと伝わります。
長さ1.23丈、横幅1.6尺。
13旒。明治維新以前には17旒あったとされています。
塩山の裂石山雲峰寺および恵林寺に所蔵されています。
※恵林寺については後述します。

■ 諏訪明神旗
赤地に金字で「諏方南宮上下大明神」と書かれています。
裂石山雲峰寺および金櫻神社に所蔵されています。

■ 諏訪梵字旗(信玄公の護身旗)
赤地に金字で「諏方南宮上下大明神」と書かれ、周囲に63の黒文字の梵字が配されています。
長さ1丈、横幅1.5尺。
1旒。裂石山雲峰寺に所蔵されています。

〔 信玄公馬印旗 〕
「信玄公馬印旗」は、武田の家紋である「花菱」が縦に3連、赤地に黒で染め抜かれた軍旗で、本陣に在る大将の馬側に立ててその所在を示す目標としたものとされます。
一般に武田家の家紋として知られているのは「武田菱」といわれる割菱紋ですが、「信玄公馬印旗」では花菱紋がつかわれています。

花菱紋は武田家の”控え紋” ”副紋”とされるもので、戦国の武将では軍旗に使用した例も複数みられるようです。
裂石山雲峰寺に所蔵されています。

〔 孫子の旗 〕
「孫子の旗」は、俗に「風林火山」の旗ともいわれ、
疾如風徐如林侵
掠如火不動如山
(疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)という孫子の「軍争編」から引かれた文が紺地に金文字であらわされた軍旗で、恵林寺住職快川紹喜の揮毫によるものとされます。
時代劇などでは、武田軍の象徴として必ず出てくるものです。
長さ1.26丈、横幅1.6尺。紺地に金文字で両面打抜き。
6旒。明治維新以前には9旒あったとされています。
裂石山雲峰寺および恵林寺に所蔵されています。

雲峰寺宝物殿で目にしたとき、現物の存在感に圧倒されるとともに、諏訪梵字旗(信玄公の護身旗)の63字の梵字が気になりました。
これについては、「信玄公護身旗の梵字真言に就いて/白石真道氏」という文献で検討されていますので、まとめてみます。

筆者のお考え
1.主文の「大明神」は、諏訪神社の主祭神たる建御名方命であることは明か。
2.「南宮」というは正確には「上諏方南宮」であることが明か。そして上諏訪の南方の宮といえば諏訪神社の上社を指すこととなる。(一宮慈眼寺に奉納されている錦七条の袈裟(信玄公が川中島にて着用)の裏に「上諏方南宮法性大明神」の墨書献文があることから)
ただし、上社は彦神(建御名方命)を主祭神とするに対し、下社は姫神たる八坂乃売命を主祭神とするから「南宮」という限り、下社は含まれないし「上下大明神」といえば南宮というのがおかしいのではないか。という疑問も呈されています。
3.「諏方大明神として垂迩された本地の明王は何様であろうか。」と、諏訪大明神の本地に注目され、「それは恐らく毘沙門天王ではなかろうか。」とされ、「諏方大明神の本地身を毘沙門天王と見たとすれば神佛両道の信仰が統一されたことともなる」とされています。
併せて「毘沙門天王は北方守護の武神、財神として民衆の人気を鍾めていたが、(中略)北面分担の毘沙門天王が武人に尊崇されたのも亦自然であつた。」とも言及されています。
4.実際、「左行梵字上から5字は「『毘沙門(天王)の為に(帰命す)』と読まれる」とされ、「下端の4字(3語)は金剛部(又は忿怒部)諸尊の咒の結句にしばしば現れる慣用句であるから、この一咒は毘沙門天王の咒と見て差支ない。」とされています。
5.「第二咒は前述の毘沙門天の咒と見られるが、第一咒はどうであろう? この中に神名らしいものが2字(1語)づつ3度出ている。この語は『Sedhyim』としか読めない。これは『諏方神』という和名をそのまま梵咒に挿入したものかも知れない。そんな例が常用普通真言集などにも見えている。しかし『帰命吉祥天女』と読むのかも知れない。」
6.「若しこの女神(吉祥天女)を指すとなれば、それは諏方明神妃たる八坂刀売命の本地身と見た為と考えられる。」
7.「梵咒の意味は結局よく解らない。(中略)すべてを悟性のみによつて解決するの要はない。諏方大明神の威力を被り、毘沙門天王の法力が通じて、軍兵の志気が揚ればよい訳である。それ故、護身旗の梵咒はそれだけで十分の効果を発揮し得たのである。」と締められています。

いま、Web上で諏訪大明神の本地を調べてみると、建御名方命は普賢菩薩、八坂刀売神は千手観世音菩薩としている資料が多くみつかります。

Vol.4でも触れますが、信玄公は毘沙門天への信仰篤く、軍陣の守り本尊として刀八毘沙門天像を護持されていました。(現・円光院所蔵)

また、信玄公が戦勝祈願依頼文を奉納された11寺のひとつ御坂町の大野寺(現・福光園寺)には、仏師・蓮慶の作と伝わる見事な吉祥天像が祀られています。
吉祥天は毘沙門天の妻とされます。
なので、諏訪大明神の主文字と、その周囲に信玄公の軍陣守り本尊である毘沙門天とその妻の吉祥天の梵字を配して護身旗とした、という考え方もあるかもしれません。

■ 裂石山 雲峰寺





公式Web
甲州市塩山上萩原2678
臨済宗妙心寺派 御本尊:十一面観世音菩薩(裂石観音)
札所:甲斐百八霊場第11番、甲斐国三十三番観音札所第16番、甲斐八十八ヶ所霊場第75番
〔甲斐百八霊場第11番の御朱印〕
朱印尊格:南無佛・十一面観世音菩薩(裂石観音) 直書(筆書)
・中央に御本尊十一面観世音菩薩(裂石観音)の御影印と「南無佛」の揮毫。右上に「甲斐百八霊場第十一番」の札所印。左には山号・寺号の印判と寺院印が捺されています。

〔甲斐国三十三番観音札所第16番の御朱印〕
朱印尊格:十一面観音菩薩(裂石観音) 直書(筆書)
・中央に御本尊十一面観世音菩薩の御影印と「十一面観音菩薩」の揮毫。右上に「甲斐観音十六番」の札所印。左には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
寺号の文字は2種で「峯」と「峰」でことなり、これは趣向を凝らすため敢えて変えられたとのことです。

寺伝によると、行基が修行に訪れた同年6月17日の夜、霊雲が当山の上にまたたき、山谷大いに震い、高さ十五米余の山中の大石がにわかに真二つとなるや、石の裂け目から萩の大樹が生え、石の上には十一面観世音菩薩が出現されました。
この奇瑞を目の当たりにした行基は、萩の大樹から十一面観世音菩薩の尊像を刻し一庵に奉祀したのが当山の開創とされます。

開創当初は天台宗、のちに禅宗へと転じ、甲斐の鬼門を護る甲斐源氏の武運長久の祈願寺として深く崇敬されました。
室町時代には恵林寺住職の絶海中津が観音堂改修の浄財勧募を行っており、恵林寺とは深い関係にあったものとみられます。

天文年間(1532年~1554年)の火災にて諸堂を焼失、その再興に向けて信虎公が印判状(現存)を与え、紹謹禅師をはじめとする寺僧を励ましたと伝わります。
永禄元年(1558年)、信玄公が武運長久祈願文を納めているので、この頃には再建されていたとみられ、現在の本堂、庫裏、書院、仁王門(いずれも重要文化財)はこの時期の建立と考えられています。

天正十年(1582年)、勝頼公は一族とともに天目山の合戦で敗れ自刃、武田家は滅びましたが、その折、家臣たちが武田家再興を期して重宝をひそかに当山へ納めたといわれています。

参道階段から昇ると、木々が鬱蒼と茂り禅宗の古刹の雰囲気にあふれています。
階段上部、木立の下に古色を帯びた仁王門。一戸三間八脚の単層入母屋造茅葺、仁王像二体を安置し、木鼻・懸魚にも彫刻を備えて古刹の山門にふさわしい佇まい。

本堂は正面四十尺の堂々たる構えで、入母屋造檜皮葺に重厚な唐破風向拝を附設した均整のとれた意匠。
向拝の二重梁正面には上下の蟇股を配し(上:板蟇股、下:本蟇股)、上の板蟇股には武田家の花菱紋が刻されています。
また、拝殿破風上には金色の徳川家三つ葉葵紋が配されています。

本堂向かって右手の庫裡も存在感があります。正面三六尺、単層切妻造茅葺の大建築。
均整のとれた曲線をひく破風と懸魚、桟唐戸上部の二段二連の連子欄間がいいアクセント。
正面梁上中央の板蛙股には、武田家の花菱紋が存在感を放っています。

夕方遅くにお伺いしたのですが、ご住職は快く宝物殿をお開けになられ、御朱印2通の揮毫をいただいたのちは、当山について貴重なご説明をいただきました。ありがとうございました。

境内のエドヒガンザクラは樹齢七百年、「峰のサクラ」と称される古木で、開花の時期(4月下旬)に再訪したいと想います。

■ 菅田天神社



山梨県神社庁資料
甲州市塩山上於曽1054
御祭神:素盞嗚尊、五男三女神、菅原道真公
旧社格:県社
授与所:随神門左手手前の社務所
朱印揮毫:菅田天神社 書置(筆書)

武田家の重宝で国宝の「楯無」(小桜韋威鎧 兜・大袖付)を所蔵する、塩山の格式ある天神社です。

社記によると、承和九年(842年)甲斐国司藤原伊(太)勢雄が勅命により甲斐少目飯高浜成に命じての創建とされます。
寛弘元年(1004年)には菅原道真公を相殿に祀り、以来、菅田天神社と称します。

新羅三朗義光以来甲斐源氏の鎮守とされて篤い尊崇を受け、甲府の鬼門にあたることから鬼門鎮護として、永久年間(1113年~1118年)、武田氏第5代当主信光公が社殿を造営し、陣中の守護たる神器楯無鎧を社殿に納め置き、同族である於曽氏に守護させたと伝わります。

「楯無」は、当地於曽郷に拠った於曽氏によって厚く守護され、武田家は大事あるごとに出納を命じたといいます。
なお、於曽氏は、甲斐源氏の一族である加賀美遠光の子光経(於曽五郎)、光俊(於曽五郎)の流れとされています。

「新羅三朗義光甲斐守として任国以来武田家の守護神として代々崇あり。(中略)武田陣中守護たる神器楯無鎧の威を恐れ当神社は府の鬼門に当り神徳霊妙なるを以て本社々殿に納め於曽氏をして守護せしめ其崇敬厚く(以下略)」(山梨県神社庁資料より)

〔 境内由緒書より 〕
指定文化財 国宝
昭和二十七年十一月二十二日 指定
工 芸 小桜韋威鎧兜大袖付 一領

一の鳥居は石造の稲荷(台輪)鳥居、二の鳥居は朱塗りの両部鳥居で、そのおくに朱塗りの灯籠とやはり朱塗りの随神門が見えます。
参道の奥行きはさほどではないものの、さすがに旧県社らしい風格を備えています。

随神門は切妻造銅板葺、桁行三間一戸の八脚単層門で木部朱塗り。左右に随身像が安置されています。 
随神門をくぐると左手に新羅宮。石標には「武田の始祖新羅三郎義光之を継承す」とあり、別の石碑には「国寶 小櫻韋威鎧」とあります。

参道橋を渡り階段を昇ると正面に拝殿。向かって右手に神楽殿、境内社。
拝殿は入母屋造正面千鳥破風銅板葺の正面1間向拝付で木部朱塗り。
こちらも社叢の緑に朱塗りが映えています。

拝殿左手前には神札授与所がありますが、通常御朱印は随神門左手前の社務所にて授与されているようです。
お伺いしたときは社務所のベルを押しても応答なしでしたが、しばらく境内を撮影していると、掃除をされている方を見かけたのでお伺いすると、快く書置の御朱印を授与いただけました。

■ 金櫻神社





公式Web
甲府市御岳町2347
御神体:金峰山
御祭神:少名彦命、大己貴命、須佐之男命、日本武尊、櫛稲田媛命
旧社格:式内社(小)論社、県社
授与所:境内授与所、オリジナル御朱印帳は境内売店にて頒布
朱印揮毫:甲斐國御嶽山 直書(筆書)
朱印揮毫:甲州金櫻神社 直置(筆書)

「諏訪神号旗」のひとつ「諏訪明神旗」を所蔵する名勝、昇仙峡の上に鎮座する古社です。

社伝によると、第十代崇神天皇の御代(約2000年前)、各地に疫病が蔓延した折、諸国に神を祀って悪疫退散と万民息災の祈願をし、甲斐国では金峰山山頂に少彦名命を鎮祭されたのが当社の起源とされます。

その後第十二代景行天皇の時、日本武命が東国巡行の折山頂に須佐之男命と大己貴命を合ネ巳され国土平安を祈願されました。
第二十一代雄略天皇の御代、金峰山より現社地に遷され里宮としての金櫻神社が創立されました。
よって、金峰山山頂に本宮、当社は里宮にあたり、御神体は金峰山とされます。

第四十二代文武天皇の二年(約1270年前)、大和国吉野山金峰山より蔵王権現を勧請して神仏両道の神社となり、日本三御嶽三大霊場としてその信仰は関東一円をはじめ、遠く越後佐渡、信濃、駿河にまで及んだといわれます。

古くから日本における水晶発祥の地として火の玉・水の玉のご神宝と、金の成る木と言われる御神木「鬱金の櫻」は有名で、渓谷美を誇る昇仙峡の遊覧も相まって従前より多くの参拝客を集めています。
社記に「以金為神以櫻為霊」という言葉があり、「金櫻」の社号もここから出たものとみられています。

多くの寄進による荘厳な社殿と中宮には見事な蟇股の牡丹の唐草、本殿の左甚五郎の作と伝わる昇竜・降竜はつとに有名でしたが、残念ながら昭和30年12月の失火によりその多くを失っています。
幸いにも焼失を免れた社宝のうち、能面と大胴は勝頼公よりの奉納、小胴は仁科五郎盛信公の奉納とされています。

諏訪明神旗については、公式Webに下記のような記載があります。
「金櫻神社の宝物として『諏方南宮上下大明神の旗』があります。この度、その旗が絹で作られているためこれ以上痛まないようにと綺麗に表装されました。この旗は武田信玄に由来するものでございます。詳しいことは現在分かりませんが、元々金櫻神社は武田家代々の祈願所だったので、この旗が納められていたと思われます。」

昇仙峡周辺は、御朱印スポットとしても人気のあるところです。(詳細は → こちら
この人気は、水晶の大きな印判を目の前で捺していただける金櫻神社の御朱印が大きく寄与しているのでは。

金櫻神社、夫婦木神社、夫婦木神社姫の宮、黒戸奈神社(黒平町、御朱印は金櫻神社にて)、天台山羅漢寺(御朱印は「食事処一休」(県営グリーンライン駐車場隣)にて)の5寺社の御朱印を拝受できますが、金櫻神社、夫婦木神社、夫婦木神社姫の宮は時季によっては授与待ちがあり、黒戸奈神社は金櫻神社から車でもかなり遠く、天台山羅漢寺は「食事処一休」から遊歩道沿経由で歩けますが、それなりに距離&高低差があるので、全御朱印ゲットを目論む方は時間に余裕をもたれた方がいいかと思います。

【 ご参考/昇仙峡周辺の御朱印 】

【写真 上(左)】 黒戸奈神社(黒平)
【写真 下(右)】 天台山羅漢寺


【写真 上(左)】 夫婦木神社
【写真 下(右)】 夫婦木神社姫の宮

~ つづきます ~

---------------------------------------------------------
目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ■ Vol.2B 武... ■ Vol.4 武田... »